前回、論文の投稿の目処がついてホッとしたというような話を書いてUpした直後に、どうも競合者の論文がアクセプトされたらしい、という話が舞い込んできました。一息つく間もなく、また緊急非常事態となり、二日以内に投稿すべきだという結論になりました。私は推敲に時間がかかる方で、通常、第一稿を書いてから十回以上は書き直すので最終稿に至るのに少なくとも2週間かかるのが普通です。それにいつもは少し原稿を寝かせて自分の頭の中がカラになるのを待ってから、読みにくいところを直していってスムーズにしていきます。ちょうど、磨き上げられた廊下がむらなく光を反射するように、磨いては、その都度つやの具合をチェックしてまた磨く、そういう作業を一定期間で繰り返して、論文は贅肉が落ちて筋肉質のものになっていきます。
今回はそんな悠長なことは言っていられません。その緊急情報のおかげで、結局、その当日は徹夜で最後の実験と原稿書きをするハメになりました。明け方の四時までかかって、なんとか原稿を書き上げました。それで緊急に内部で原稿を読んでくれる人に回し、即日、その意見をとり入れて書き直して、投稿した次第です。コンピューターの前にぶっとうしで十時間以上座って書きものをしていると、目はしょぼしょぼしてきますし、タイプする指先はしびれてきますし、集中力が途切れてくると関西弁で悪態をつきはじめすし、これは健康に悪いとつくづく思いました。こんなに短期間で論文を書いたのは初めてです。いつもはそれなりの自信をもって投稿するのですけど、今回は、自信が持てるほど推敲も十分な実験もできなかったので、さてどうなるやらわかりません。
今回の論文は私一人が著者ですけど、もちろん多くの人々がその研究に寄与してくれています。マウスを供与してくれた人やノックアウト製作のためのキメラマウスを作ってくれた人、マイクロアレイの実験と結果の解析をやってくれた人、などなど。ただ、最近は、誰が論文のどの部分にどれだけ寄与したかを明らかにし、いわゆるhonorary authorを含めてはいけないというガイドラインがあります。また料金をとってサービスを提供する場合の研究への寄与は原則的に共同研究と見なさないという慣例もあり、昔に比べて、誰が著者になるのかに関して恣意的な融通性がなくなってきました。それで結果として私一人が著者ということになりました。
単一著者の論文は、一人称単数で書かれることが多いのですけど、研究には著者としては加わっていなくとも多くの人の間接的な寄与があったという意味も含めて、論文は一人称複数形を使って書きました。単数の著者が複数形(We)を使う場合という場合は昔からあります。柴田元幸さんのエッセイであげられている例を引けば、例えば”Editorial We”と呼ばれる場合などは、雑誌の編集者が編集部全体の意見を代表して文を書く場合、単独著者でもWeとなります。また、王室の人が、「朕は楽しゅうない」というような場合、”We are not amused”と自分自身だけのことを指していても”We”という言葉が使われます。こういう”We”を”Royal We”と呼ぶのだそうです。この場合は、王は神に権力を託されたものであり、自分の言葉は自分だけのものではなく神の言葉でもあるというような概念が土台にあるようです。また、二人称、三人称単数を指して一人称複数を使う場合もあります。この場合は、暗に、話者自身を会話の主体に含めてしまうことによって、相手に対する共感、同情心を示す場合です。例としては、医者が患者に「今日は、具合はどうですか」と尋ねる場合に、”How are we feeling, today?”と言うような場合があり、”Patronizing We”と呼ばれているようです。因みにボストンのレッドソックスファンは日本の虎キチと同様、彼らとレッドソックスは一心同体だと思っているようなところがあって、レッドソックスが勝つ度、負ける度に”We won”、”We lost”と一喜一憂するのですけど、このWeはうざったいものです。多分これも一種のpatronizing weなのでしょう。
ところで、論文の場合、私は、一人称単数で書かれている論文を見ると、なんとなくある種のArroganceというか、自己主張というかエゴというか、そんなものを感じるような気がします。これは多分、日本人特有の感じではないでしょうか。自分や相手を直接指す言葉を避けるのは、対立を防ぐという作用があると思います。例えばデパートの店員がお客に対して一対一で会話するとき、お客を指して「あなた」とは呼ばず、「お客様」と三人称を使って相手のことを指します。そこでお客と店員が「あなた」と「わたし」で呼び合えば、大きな栗の木の下に二人っきりでいるわけではないのですから、きっと居心地の悪い親密感か、あるいは逆に敵意が生まれることでしょう。一人称、二人称単数で何かを主張するということは、「オマエはオレ様の言うことを聞け」と言っているような気がしてなんだかヤな感じがします。一方、一人で論文を書くということは、実は他に一緒に実験をやってくれる人がいない寂しい人、と勘ぐることも可能です。(そういう実例を知っているので)とにかく複数著者が普通の原著論文で単独著者というのは体裁が悪いのは間違いないでしょう。科学論文では、通常、筆頭著者の人がその論文の多くの実験や解釈を行い、論文責任者(通常最後の著者)がその研究を指揮して資金を工面する、という場合が多いので、論文のクレジットは筆頭著者の取り分が5割、論文責任者の人の取り分が3割、残りが2割といった具合ではないかと思います。私の場合は別に自己主張が強いとかエゴが大きいとか皆に嫌われているという理由で単独著者になっているのではなくて(たぶん)、単にお金がなくて人を雇えなかったというのがその理由です。陳腐な例えで言えば、社長兼、部長兼、平社員兼、アルバイト、合計一名の超零細企業であったわけです。ちょっと大変でしたが、その分、人間関係の軋轢に悩むことがなかったので仕事はやりやすかったです。
というわけで、論文緊急事態宣言は解除され、今日からは普通の日常生活です。
今回はそんな悠長なことは言っていられません。その緊急情報のおかげで、結局、その当日は徹夜で最後の実験と原稿書きをするハメになりました。明け方の四時までかかって、なんとか原稿を書き上げました。それで緊急に内部で原稿を読んでくれる人に回し、即日、その意見をとり入れて書き直して、投稿した次第です。コンピューターの前にぶっとうしで十時間以上座って書きものをしていると、目はしょぼしょぼしてきますし、タイプする指先はしびれてきますし、集中力が途切れてくると関西弁で悪態をつきはじめすし、これは健康に悪いとつくづく思いました。こんなに短期間で論文を書いたのは初めてです。いつもはそれなりの自信をもって投稿するのですけど、今回は、自信が持てるほど推敲も十分な実験もできなかったので、さてどうなるやらわかりません。
今回の論文は私一人が著者ですけど、もちろん多くの人々がその研究に寄与してくれています。マウスを供与してくれた人やノックアウト製作のためのキメラマウスを作ってくれた人、マイクロアレイの実験と結果の解析をやってくれた人、などなど。ただ、最近は、誰が論文のどの部分にどれだけ寄与したかを明らかにし、いわゆるhonorary authorを含めてはいけないというガイドラインがあります。また料金をとってサービスを提供する場合の研究への寄与は原則的に共同研究と見なさないという慣例もあり、昔に比べて、誰が著者になるのかに関して恣意的な融通性がなくなってきました。それで結果として私一人が著者ということになりました。
単一著者の論文は、一人称単数で書かれることが多いのですけど、研究には著者としては加わっていなくとも多くの人の間接的な寄与があったという意味も含めて、論文は一人称複数形を使って書きました。単数の著者が複数形(We)を使う場合という場合は昔からあります。柴田元幸さんのエッセイであげられている例を引けば、例えば”Editorial We”と呼ばれる場合などは、雑誌の編集者が編集部全体の意見を代表して文を書く場合、単独著者でもWeとなります。また、王室の人が、「朕は楽しゅうない」というような場合、”We are not amused”と自分自身だけのことを指していても”We”という言葉が使われます。こういう”We”を”Royal We”と呼ぶのだそうです。この場合は、王は神に権力を託されたものであり、自分の言葉は自分だけのものではなく神の言葉でもあるというような概念が土台にあるようです。また、二人称、三人称単数を指して一人称複数を使う場合もあります。この場合は、暗に、話者自身を会話の主体に含めてしまうことによって、相手に対する共感、同情心を示す場合です。例としては、医者が患者に「今日は、具合はどうですか」と尋ねる場合に、”How are we feeling, today?”と言うような場合があり、”Patronizing We”と呼ばれているようです。因みにボストンのレッドソックスファンは日本の虎キチと同様、彼らとレッドソックスは一心同体だと思っているようなところがあって、レッドソックスが勝つ度、負ける度に”We won”、”We lost”と一喜一憂するのですけど、このWeはうざったいものです。多分これも一種のpatronizing weなのでしょう。
ところで、論文の場合、私は、一人称単数で書かれている論文を見ると、なんとなくある種のArroganceというか、自己主張というかエゴというか、そんなものを感じるような気がします。これは多分、日本人特有の感じではないでしょうか。自分や相手を直接指す言葉を避けるのは、対立を防ぐという作用があると思います。例えばデパートの店員がお客に対して一対一で会話するとき、お客を指して「あなた」とは呼ばず、「お客様」と三人称を使って相手のことを指します。そこでお客と店員が「あなた」と「わたし」で呼び合えば、大きな栗の木の下に二人っきりでいるわけではないのですから、きっと居心地の悪い親密感か、あるいは逆に敵意が生まれることでしょう。一人称、二人称単数で何かを主張するということは、「オマエはオレ様の言うことを聞け」と言っているような気がしてなんだかヤな感じがします。一方、一人で論文を書くということは、実は他に一緒に実験をやってくれる人がいない寂しい人、と勘ぐることも可能です。(そういう実例を知っているので)とにかく複数著者が普通の原著論文で単独著者というのは体裁が悪いのは間違いないでしょう。科学論文では、通常、筆頭著者の人がその論文の多くの実験や解釈を行い、論文責任者(通常最後の著者)がその研究を指揮して資金を工面する、という場合が多いので、論文のクレジットは筆頭著者の取り分が5割、論文責任者の人の取り分が3割、残りが2割といった具合ではないかと思います。私の場合は別に自己主張が強いとかエゴが大きいとか皆に嫌われているという理由で単独著者になっているのではなくて(たぶん)、単にお金がなくて人を雇えなかったというのがその理由です。陳腐な例えで言えば、社長兼、部長兼、平社員兼、アルバイト、合計一名の超零細企業であったわけです。ちょっと大変でしたが、その分、人間関係の軋轢に悩むことがなかったので仕事はやりやすかったです。
というわけで、論文緊急事態宣言は解除され、今日からは普通の日常生活です。
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