子供の頃は、将来は無限の可能性を持っていて、頑張れば、いろいろ素敵なことが起こるのだろうと思っていました。今になって振り返れば、素敵なことも起こることには起こりますが、面白くないことや素敵でないことの方が何倍も多く起こるし、今頑張れば後で楽になるということも余り無いようです。ちょうど山登りと同じで、登れば登るほど空気は薄くなって苦しくなるように、頑張れば頑張るほど、もっと頑張らねばならなくなるようです。頂上につけば、さすがに素晴らしい達成感と解放感もあるのでしょうが、すぐに今度はもっと困難な下り道をたどらねばなりません。それでも人は山に登ります。山に登るのは、人間というものが根本的にチャレンジに立ち向かうことが好きだからであろうと思います。 チャレンジに雄々しく立ち向かい、頑張って困難を克服することを、私は、競争社会に入ってから最近まで、比較的ポジティブに考えていました。でも、もう一歩下がってみることも必要ではないかと改めて思い始めたのでした。
山本夏彦さんの言葉、
「何用あって、月世界へ? 月は眺めるものである」
この言葉を聞いて頷かない日本人は少数派であろうと思います。アポロ計画は多大にアメリカとソ連の科学力競争という政治的意味合いが強かったので、日本人であれば宇宙開発に対する批判は自然と持っているものでしょう。しかし、それでは「月」を「山」、例えばエベレストに置換えて見るとどうでしょう。何用あってエベレストへ、私は心の奥底では山や自然は眺め愛でるもので、別段、登ったり征服したりする必要はないと思っています。必要ないのなら人は山には立ち入らない方がよいと考えています。現代人が山に入れば環境は破壊されるのですから。富士山はゴミ捨て場になっているとも聞きます。山に登れば苦しみと危険が待っています。しかしチャレンジに立ち向かいたいという人間の本能がそこに山があれば人を登らせるのだと思います。誰も登ったことのない所に自分が初めて登る喜び、チャレンジに立ち向かった満足感、そういう感情はよくわかります。基礎研究の喜びと同じです。でも、最近は「そんなものが何だ」と思うこともよくあるようになりました。よくよくその感情を見つめてみれば、チャレンジに立ち向かい打ち勝つという行為は結局はその個人の満足感のためになされる利己的な行動に過ぎないのではと思ってしまうからのようです。登られる山やそこに住む動物や植物にしてみたら、そんな人間の自己満足のために利用されるのはいい迷惑でしょう。生物研究で殺されるマウスにしてみれば、たとえそのために新しい知見が得られたとしても、科学の発展に貢献して殺されることをうれしいとは思わないでしょう。現代の科学や医学に対する私の愛憎入り交じった感情は子供のころからのそんな思いに起因しているようです。人間は自らの生活を便利にし、病気を治し、楽しく生きるために、科学を使って多くの発見、発明をしてきました。楽しく楽に生きたいという欲、チャレンジを好む人の性質がその原動力であったのであろうと思います。エジソンが電球を作るのに何百回という失敗を積み重ねた最後に成功したとかいう話とか、キューリー夫人がラジウムを精製に昼夜精勤したために、両手が放射線障害で醜くただれてしまったとかいう話を聞くと、今でも感動に胸を打たれます。しかし、そうした偉大な先人たちが積み重ねてきた科学の発見や発明が、その他の大勢の人々の手を経て、現代社会にもたらしたものは何なのかを考えてみる時、電球や放射線など無かった方がよかったのに、と思うこともしばしばあるのではないでしょうか。医学や産業において、その技術の進歩がもたらしたものは結局、医原性疾患や公害、大量殺傷兵器や人間のロボット化であり、それは他方でもたらした人間生活の便利さや自己満足感を相殺して余りあるものだと思います。人間は目の前の飴を追いかけることに夢中になって、その行為の長期的な影響までじっくり考えることができなかったのでしょうか。あるいは、人類が危険に向かってまっしぐらに進んでいることは実は分かっていても止めることができなかったというのが本当なのかもしれません。ちょうど、核兵器開発競争のように。核兵器を使うと大変なことが起こることは皆知っているし、よって実際には使えないことも知っているのです。使うような時が来る時は人類滅亡となりかねないことも知っているのです。しかし、他の国が核を持っていると、自国が核を持たないという選択をするのは大きな勇気が要ります。というわけで、単に核を持つことによって得られる安心感あるいは外交上の有利さという目先の飴のために使えない兵器の開発を続けているのです。このまま世界中で二酸化炭素を出し続けていたらやばいことは皆知っています。それを止める方法も知っているのです。皆が車に乗るのをやめ、産業をダウンサイズし、夜中まで電気をつけて遊び回るのをやめればよいのです。でもできない。なぜなら目先の飴を舐め続けることが人間の本能に由来するからであろうと私は思います。人間は何かをしていないと不安なのでしょう。何かに没頭して頑張ることでしか自己の存在の意味性を感じられないのかも知れません。 学問であれ何であれ没頭することを「淫する」とも言います。自分とその周囲にしか意識が届かないような頑張りかたは実は結構、有害なのではないでしょうか。人類に英知というようなものが仮にあるとするならば、それは、人間というものは本能をコントロールできるほど賢くないことを知り、身の程をわきまえることを知るということであろう思います。チャレンジを追い求め、頑張ることそのものが目的となるような人間の活動は、ランナーズハイを求めるマラソンランナーと同じく、危険なものではないかと思います。
山本夏彦さんの言葉、
「何用あって、月世界へ? 月は眺めるものである」
この言葉を聞いて頷かない日本人は少数派であろうと思います。アポロ計画は多大にアメリカとソ連の科学力競争という政治的意味合いが強かったので、日本人であれば宇宙開発に対する批判は自然と持っているものでしょう。しかし、それでは「月」を「山」、例えばエベレストに置換えて見るとどうでしょう。何用あってエベレストへ、私は心の奥底では山や自然は眺め愛でるもので、別段、登ったり征服したりする必要はないと思っています。必要ないのなら人は山には立ち入らない方がよいと考えています。現代人が山に入れば環境は破壊されるのですから。富士山はゴミ捨て場になっているとも聞きます。山に登れば苦しみと危険が待っています。しかしチャレンジに立ち向かいたいという人間の本能がそこに山があれば人を登らせるのだと思います。誰も登ったことのない所に自分が初めて登る喜び、チャレンジに立ち向かった満足感、そういう感情はよくわかります。基礎研究の喜びと同じです。でも、最近は「そんなものが何だ」と思うこともよくあるようになりました。よくよくその感情を見つめてみれば、チャレンジに立ち向かい打ち勝つという行為は結局はその個人の満足感のためになされる利己的な行動に過ぎないのではと思ってしまうからのようです。登られる山やそこに住む動物や植物にしてみたら、そんな人間の自己満足のために利用されるのはいい迷惑でしょう。生物研究で殺されるマウスにしてみれば、たとえそのために新しい知見が得られたとしても、科学の発展に貢献して殺されることをうれしいとは思わないでしょう。現代の科学や医学に対する私の愛憎入り交じった感情は子供のころからのそんな思いに起因しているようです。人間は自らの生活を便利にし、病気を治し、楽しく生きるために、科学を使って多くの発見、発明をしてきました。楽しく楽に生きたいという欲、チャレンジを好む人の性質がその原動力であったのであろうと思います。エジソンが電球を作るのに何百回という失敗を積み重ねた最後に成功したとかいう話とか、キューリー夫人がラジウムを精製に昼夜精勤したために、両手が放射線障害で醜くただれてしまったとかいう話を聞くと、今でも感動に胸を打たれます。しかし、そうした偉大な先人たちが積み重ねてきた科学の発見や発明が、その他の大勢の人々の手を経て、現代社会にもたらしたものは何なのかを考えてみる時、電球や放射線など無かった方がよかったのに、と思うこともしばしばあるのではないでしょうか。医学や産業において、その技術の進歩がもたらしたものは結局、医原性疾患や公害、大量殺傷兵器や人間のロボット化であり、それは他方でもたらした人間生活の便利さや自己満足感を相殺して余りあるものだと思います。人間は目の前の飴を追いかけることに夢中になって、その行為の長期的な影響までじっくり考えることができなかったのでしょうか。あるいは、人類が危険に向かってまっしぐらに進んでいることは実は分かっていても止めることができなかったというのが本当なのかもしれません。ちょうど、核兵器開発競争のように。核兵器を使うと大変なことが起こることは皆知っているし、よって実際には使えないことも知っているのです。使うような時が来る時は人類滅亡となりかねないことも知っているのです。しかし、他の国が核を持っていると、自国が核を持たないという選択をするのは大きな勇気が要ります。というわけで、単に核を持つことによって得られる安心感あるいは外交上の有利さという目先の飴のために使えない兵器の開発を続けているのです。このまま世界中で二酸化炭素を出し続けていたらやばいことは皆知っています。それを止める方法も知っているのです。皆が車に乗るのをやめ、産業をダウンサイズし、夜中まで電気をつけて遊び回るのをやめればよいのです。でもできない。なぜなら目先の飴を舐め続けることが人間の本能に由来するからであろうと私は思います。人間は何かをしていないと不安なのでしょう。何かに没頭して頑張ることでしか自己の存在の意味性を感じられないのかも知れません。 学問であれ何であれ没頭することを「淫する」とも言います。自分とその周囲にしか意識が届かないような頑張りかたは実は結構、有害なのではないでしょうか。人類に英知というようなものが仮にあるとするならば、それは、人間というものは本能をコントロールできるほど賢くないことを知り、身の程をわきまえることを知るということであろう思います。チャレンジを追い求め、頑張ることそのものが目的となるような人間の活動は、ランナーズハイを求めるマラソンランナーと同じく、危険なものではないかと思います。