百醜千拙草

何とかやっています

学会的民主主義の弊害

2008-07-18 | Weblog
しばらく前、柳田充弘先生のブログで、柳田先生自身は偏見と言っていますが、私は真理であると思ってウンウン頷いたことがあったので書き留めておきたいと思います。( http://mitsuhiro.exblog.jp/9164584/)

学会と名のつくものはこの日本という国ではおおむね後ろ向きです。
わたくしのそれほど多くない体験からいっているのですが、かつて革新といっていたものがまったく革新でなく自民党と野合したように、日本でのもろもろの学会に常時巣くってているかたがたは世のためといいながら実際には余計で迷惑のようなことしかしてない、というのがこれも体験からでてきたことです。
なぜでしょうか。
結局、一つの結論を出そう、ださねばならない、ということで少数派の新しい動きは常に頓挫しやすいのです。
だいたい学会にいて、誰もが結局賛成するようなものはたいていろくでもないのです。

私は、学会という社交の場は全てのレベルの人にとってある程度は必要なものであると思っています。切磋琢磨する場でもあるのでプレッシャーもあるけれども、時に志しを同じくする友人やライバルを見つけることができる、そんな所だと思います。しかし、長年そこにいてそれなりに認められてくると、緊張感が無くなって妙に居心地が良くなってしまうのも想像できます。それが「学会に巣食う人」となるのでしょう。そんな学会が居心地良くなってしまったような人が集まって、話合って、多数が合意できるようなことには、長期的に見ればろくでもないものが殆どだという意見は、その通りであろうと思います。これは学会に限らず、民主主義社会の悪い所だと思います。大事に当たっては、ほどほどの人の意見では使い物にならんのです。それを多数決で決めるから誤るのです。しかし、民主主義で決めたことが正しいとの前提で議論を始めると、多数が誤ったのなら、誤った方が正しいのだと多数派は開き直ってしまうので、始末におえません。正しい意見を唱えていた少数派は多いに欲求不満を感じることになります。ガリレオを思い出してみれば、当時のイタリアと同じ社会構造が、今日の学会という小さな社会にもあることは想像できます。学問は本来、先端的なものであって、常に常識を疑うところから新発見が生まれて進歩するという類いの活動だと思います。想像するに、学会に居心地良く集う人々は、皆と同じ様な意見を持っているということに安心し、その事実によって自分の意見を正しいとして思考停止してしまう横着さ、そしてその意見が誤っていた場合でも、皆が誤ったのだから自分は悪くないと開き直ってしまう態度、といったものを知らぬ間に身につけていくのだろうと思います。こうした学問の根本姿勢と相反する様な態度が、意見を同じくする人々がつくる閉鎖的な友達の輪の中での安心にしがみついている間に醸されていくことは想像に難くないことです。人が集って派閥を組んだり、多数決でものごとを決めようとするようなことは、おそらく学問という活動の本質ともっとも相容れないものなのでしょう。重要なことを成し遂げるには孤高の人でならないのかも知れません。そうでなければ、赤信号を皆で渡って全員ひき殺されることになりかねません。居心地の良い学会というのは、社交面では良いかも知れませんが、学問的には余り有益なものではないのだろうと思います。私はそう思って柳田先生の言葉に深く頷いたのでした。
コメント
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