先日、John Templeton氏の死去とその財団について書いたのですが、その後、ロシアの作家、ソルジェニーツィンの死去も伝えられました。1962年、自らの体験をもとに書いた「イワン デニーソヴィッチの一日」が大反響を呼び、1970年にはノーベル文学賞を受賞しました。私はソルジェニーツィンはとっくの昔に亡くなったのだと理由もなく思っていたので、死去のニュースを聞いてちょっとびっくりしました。彼はスターリンのためにシベリア収容所送りとなり、その後フルシチョフに助けられたのですが、フルシチョフの失脚により、国外追放となります。その後、ゴルバチョフのペレストロイカでロシア市民権が復活して、亡命先のアメリカからロシアに帰りました。この亡命中であった1983年にTempleton Foundationから賞を受けています。このように、浮き沈みの激しい生涯でしたが、沈んでもただでは浮かばず、沈むたびにノーベル賞やTempleton賞を貰っていますから、大したものです。私は「収容所群島」と「イワン デニーソヴィッチ」を読んだ覚えがあり、イワンの方は随分感心したように思うのですが、内容はもう殆ど覚えていません。
ソルジェニーツィンのキリスト教信仰に基づく民族自決の擁護は、間接的、直接的に、ソ連の崩壊、ソ連の多くの旧自治区の独立、民主化に繋がりました。しかし、残念ながら、彼の故郷のコーカサス地方のチェチェンは未だ、独立を阻まれたままで、独立過激派によるテロを始めとする紛争が絶えません。そして、現在、東に目を転じてみれば、北京オリンピックを目前にして、チベット解放の運動家が、厳しい警戒態勢の中、反中デモを行っています。冬季オリンピックのメダリストで人権問題活動家のJoey Cheekは、直前になって中国への入国ビザを取り消されました。少しでもチベットなどの人権問題の火を大きくしないようにとの中国政府のあからさまな態度が見えます。ブッシュも珍しく人権問題で中国を批判し、中国は内政干渉であると強く対応しました。実際、中国はオリンピックなどやっている場合ではなく、外国に見栄を張る前に、自国の民族問題を始めとする諸問題を片付けるのが先であろうと世界中が思っていると思います。
私の育ったころは、周囲に他民族の人は殆どいませんでした。大学になって同級生の一人が授業の前にいきなり黒板の前に立って、自分のことを、これまでの日本名ではなく朝鮮の名前で呼んで欲しいと言ったので、びっくりしたことがあります。私の名前は「金」ではなく「キム」だといったのですが、その時になるまで、彼が朝鮮人であることなど気にしたこともありませんでしたし、名前がどう変わろうとたいしたことではないのに、なんでわざわざ宣言するのか、よくわかりませんでした。それほど日本人としての民族的アイデンティティーなどというものを意識することなく育ったのです。他の多くのクラスメートの反応も私と同様でした。彼が、自分が朝鮮人であって(日本人とは違う)と宣言したことで、彼は自ら周囲の人間との間にそれまでなかった壁を作ったようでした。そのように自分から環境を破壊してまでこだわる「民族意識」とは、私には理解の閾を越えたものでした。日本人であるからといって虐待された経験もない私は、虐げられた民族の人の気持ちを本当には分かりません。「地球は一つ、人類は皆兄弟」という理想論が好きです。しかし、現実には、いろいろな理由で人は殺し合います。民族、人種、階級、言語、様々なものの違いを理由に人は殺します。民族がその理由でなくなれば、別の理由をつけて殺し合います。ジョンレノンが歌うように、国家も宗教も民族もない、人々が兄弟のように生活する地球であればいいと思います。でも、人間にエゴというものがある以上はそんな世界は決して実現はしないでしょうし、エゴがなくなれば人は死んでしまうでしょう。
昔は多少は持っていた日本民族としての誇りみたいなものは今、私には無くなってしまいました。それは、その誇りの根拠になるものが土台のない薄っぺらなものだと気がついたことと、また日本人という民族性というものの存在そのものを疑っているからであると思います。私の民族意識の欠如は、別に恥ずべきものだとは思いません。愛国心などという言葉は怪しいもので、随分悪いように利用されてきました。皆が平和で楽しく暮らしている理想の世界では、愛国心もなければ、民族意識もなく、自然発生的で流動的なコミュニティーがあるだけだと思います。力による抑圧があるので、それに対抗する手段として人は民族意識や国家意識を強く持つのでしょう。やっててよい自慢はお国自慢と親の自慢だけだと言いますが、それはそこに虐げるものと虐げられるものという力関係がない場合に限っての話だと思います。
最後に北京オリンピックについて一言。世界の国々からスポーツ競技を通じて集うオリンピックは平和の祭典であります。そこに参加する人は、世界の人々が人種や民族の垣根なく仲良くしていくためにオリンピックはあるのだという理想を意識しておくべきであろうと思います。そうしたオリンピック精神に反する政策を行うばかりか、平和のメッセージを伝えるためにやってくる人のビザまで取り消すようなことをする中国は、まずホストととしての資格はないと思います。
ソルジェニーツィンのキリスト教信仰に基づく民族自決の擁護は、間接的、直接的に、ソ連の崩壊、ソ連の多くの旧自治区の独立、民主化に繋がりました。しかし、残念ながら、彼の故郷のコーカサス地方のチェチェンは未だ、独立を阻まれたままで、独立過激派によるテロを始めとする紛争が絶えません。そして、現在、東に目を転じてみれば、北京オリンピックを目前にして、チベット解放の運動家が、厳しい警戒態勢の中、反中デモを行っています。冬季オリンピックのメダリストで人権問題活動家のJoey Cheekは、直前になって中国への入国ビザを取り消されました。少しでもチベットなどの人権問題の火を大きくしないようにとの中国政府のあからさまな態度が見えます。ブッシュも珍しく人権問題で中国を批判し、中国は内政干渉であると強く対応しました。実際、中国はオリンピックなどやっている場合ではなく、外国に見栄を張る前に、自国の民族問題を始めとする諸問題を片付けるのが先であろうと世界中が思っていると思います。
私の育ったころは、周囲に他民族の人は殆どいませんでした。大学になって同級生の一人が授業の前にいきなり黒板の前に立って、自分のことを、これまでの日本名ではなく朝鮮の名前で呼んで欲しいと言ったので、びっくりしたことがあります。私の名前は「金」ではなく「キム」だといったのですが、その時になるまで、彼が朝鮮人であることなど気にしたこともありませんでしたし、名前がどう変わろうとたいしたことではないのに、なんでわざわざ宣言するのか、よくわかりませんでした。それほど日本人としての民族的アイデンティティーなどというものを意識することなく育ったのです。他の多くのクラスメートの反応も私と同様でした。彼が、自分が朝鮮人であって(日本人とは違う)と宣言したことで、彼は自ら周囲の人間との間にそれまでなかった壁を作ったようでした。そのように自分から環境を破壊してまでこだわる「民族意識」とは、私には理解の閾を越えたものでした。日本人であるからといって虐待された経験もない私は、虐げられた民族の人の気持ちを本当には分かりません。「地球は一つ、人類は皆兄弟」という理想論が好きです。しかし、現実には、いろいろな理由で人は殺し合います。民族、人種、階級、言語、様々なものの違いを理由に人は殺します。民族がその理由でなくなれば、別の理由をつけて殺し合います。ジョンレノンが歌うように、国家も宗教も民族もない、人々が兄弟のように生活する地球であればいいと思います。でも、人間にエゴというものがある以上はそんな世界は決して実現はしないでしょうし、エゴがなくなれば人は死んでしまうでしょう。
昔は多少は持っていた日本民族としての誇りみたいなものは今、私には無くなってしまいました。それは、その誇りの根拠になるものが土台のない薄っぺらなものだと気がついたことと、また日本人という民族性というものの存在そのものを疑っているからであると思います。私の民族意識の欠如は、別に恥ずべきものだとは思いません。愛国心などという言葉は怪しいもので、随分悪いように利用されてきました。皆が平和で楽しく暮らしている理想の世界では、愛国心もなければ、民族意識もなく、自然発生的で流動的なコミュニティーがあるだけだと思います。力による抑圧があるので、それに対抗する手段として人は民族意識や国家意識を強く持つのでしょう。やっててよい自慢はお国自慢と親の自慢だけだと言いますが、それはそこに虐げるものと虐げられるものという力関係がない場合に限っての話だと思います。
最後に北京オリンピックについて一言。世界の国々からスポーツ競技を通じて集うオリンピックは平和の祭典であります。そこに参加する人は、世界の人々が人種や民族の垣根なく仲良くしていくためにオリンピックはあるのだという理想を意識しておくべきであろうと思います。そうしたオリンピック精神に反する政策を行うばかりか、平和のメッセージを伝えるためにやってくる人のビザまで取り消すようなことをする中国は、まずホストととしての資格はないと思います。