百醜千拙草

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科学と宗教

2008-08-05 | Weblog
先月亡くなったJohn Templeton氏は高度成長期の日本への投資を含む投資信託会社で財を成しました。彼の名前は現在、その投資信託会社の名前とJohn Templeton Foundationという財団に残っています。信仰厚いTempleton氏の慈善活動としてのJohn Templeton Foundationの一つの大きな目的は、宗教と科学がともに求める真実への到達を促進することをサポートすることで、年間6千万ドルのグラントが宗教家、哲学研究者、科学者などに与えられています。そのグラントを与えられた著名な科学者の「神と科学」に対するコメントを集めたTempleton Foundationの広告を読んだことがあります。「神は存在すると思いますか」という問いに、約半数は「存在する」と答えたのですが、驚いたことに残り半数の科学者の数人かは、科学が充分に発達すれば神の存在は否定されるであろうと答えていたのでした。私がよく理解できないのは、どうして西洋の人は宗教と科学を対立するものとして考えるのかという点です。歴史的に宗教の果たしてきた多くの役割が科学に基づいた技術によって取って代わられてきたからでしょうか。しかし、仏教などに基づく東洋の世界観では、科学であろうが何であろうが、人間の為すことはすべて神の手のひらの上で起こっていることであって、科学と宗教を同列に比較することさえおかしいと思うのではないでしょうか。私は科学は世の中を人間が理解するために17世紀のヨーロッパに現れた一つの道具であると考えていますから、そんなものがいくら発達したところで、「神」の存在について云々できるようになるはずはないと思っています。Templeton氏は宗教も科学も、よりよい世界を実現していくために、大きな目標を持って共に発展すべきであるという(現実離れした)理想の実現を願ったのであろうと想像できます。過去を振り返れば、もっとも大きな戦争の理由は宗教であり、大量殺人を可能にしてきたのは科学に基づく技術です。どちらも一部の人を幸福にしたかも知れませんが、人類全体で過去を集積してみれば、宗教や科学が人類の幸福に役立ったかと考えれば、多分答えは否でしょう。しかし人が生きていく上で宗教は必要なくとも、宗教心のようなものは不可欠であろうと私は思います。また、科学についても、そもそも「科学とは何か」ということさえきまったコンセンサスはないのではないでしょうか。「構造主義生物学」の池田清彦さんは、「構造主義科学論の冒険」の本の中の「科学とは何か」と題された第一章で、科学と宗教や迷信との違いについて考察しています。まず、科学の基本は記述することですから、言葉の問題という大問題がありますので、科学とは何かを問うと、畢竟、言語学の諸問題へと突入してしまいます。言語学こそ近代の構造主義哲学の礎で、この辺は普通の理系の研究者とかが容易に近づけない場所なので、さしあたり言葉の問題、記述そのものの問題は取り上げないことにします。さて、池田さんは、科学と宗教とを記述様式の差によって区別しようとしています。科学は「名称」と「名称」との関係を記述し(名称とは、常識的な意味での「ものの名前」のことですが、「もの」と「ものの名前」との関係は厳密に決定することができないので、名称という言葉を使っています)、宗教では神と名称との関係を記述すると指摘しています。前者の例として、「氷を熱すると水になる」、後者の例として「神は光あれと言った、そうすると光があった」というような例があげられます。記述、言葉による概念の理解ということが科学の基本にあるという点からみれば、これは実用的な区別であろうと思います。しかし、常識的な一般科学研究者は、自分の回りにある世界は、われわれが理解したり記述したりすることとは無関係に、客観的な実在として存在しており、そこに未来の出来事を予測できるような何らかの法則があって、科学というのはそのような法則を発見することだと思っているのではないでしょうか。世界が自分の知覚や理解と無関係に存在しているという観念には、私もある程度賛成しています。言葉をもたない(と思われる)ネズミでも、訓練すればレバーを押して餌を出すようなことができるようになります。レバーを押すことと餌が出るという二つの現象の後ろにある法則性にネズミは気付いているということではないでしょうか。言葉をもたない、記述をしないネズミでも法則性を知っているようです。ですから「法則性を見出すこと」を科学の本質であると考えている人にとって、科学を記述方式(構造)からみて、定義しようとするのはおかしいと思うでしょう。(池田さんも別に記述方式の差は宗教との区別に便利だから使っているに過ぎないのだろうとは思います。ただし、もしネズミが信仰心を持っていたら話は別ですが)
 科学が最終的に神の存在しないことを証明すると考えている人は、世界は「もの」と「ものとものとの相互作用」があるだけだという唯物的世界観をもっているのでしょう。私たちが持っていると信じている「心」や「感情」も「もの」とその相互作用が充分解明されれば、どうやって生まれてくるかわかるはずだとおそらく考えていると思います。神や信仰もわれわれの頭の中の化学物質や分子の相互作用によって生まれてくるはずだと思っているのかもしれません。研究上の手段としてはそういう仮説でも結構ですが、しかし、どうして人間やその他の動物が生まれたか、なぜ生きているのか、ということを深く考えたら、「もの」とその作用で世界が成り立っているという仮説ではどうにもなりません。 物事は深く考えれば、居心地のよい科学の枠を超えざるを得なくなるようです。科学とは何かという問いは、科学の問題ではなく、むしろ哲学的な問題です。世の中の客観性や実在を本当のものとして受入れるという枠の中にしか科学はありません。しかし、どのように世の中の客観性やものの実在が保証されるかという問題に解答はありませんし、それに答えるのに、科学は全く無力です。池田さんは、「世の中の客観性が保証されなくても科学は成立する」と言っていますが、科学はその枠外のことは問わないという前提があるのですから、これは当たり前のことのように思います。そうして、科学の枠外の問題に科学が無力であることを知ったら、科学が考える世界というのは、いわば本当の世界のごく一部にしか過ぎないと実感せざるを得ませんし、本当の世界とは何かと考え出すと、自然と神を引き合いに出さざるを得なくなってくるのです。ある科学者は「もし神が存在しないとしたら、人間は神を発明しないといけなくなるだろう」と言いました。宗教は科学と対立するものでは勿論なく、科学の対象にもならないものだと思います。神を否定したり説明したりするには、現在の科学は余りにプリミティブですし、その限界について無知すぎると思います。科学という方法論がその世界の中で閉じており、宗教は科学の世界の外をも扱うので、「科学と宗教を融合する」とかいう考えは的外れであろうと思います。ただ、慈善活動として科学者や宗教家をサポートするTempleton Foundationの活動は支持したいと思います。いずれも純粋に人間の知の活動としてとどまる限り、結構なことだと私は思います。
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