百醜千拙草

何とかやっています

偏見と差別について(4)

2010-03-05 | Weblog
偏見は、ある意味、専守防衛のための武器です。一方、武器である以上、使い方を誤り、偏見を他人への先制攻撃に使うことは「人権や公民権の侵害」に繋がります。防衛であれ攻撃であれ、同じ武器が使われる以上、ここの線引きは、意識的でなければなりません。
 偏見が確かに人権や公民権の侵害の基礎になる場合もあるでしょうけども、そのオーバーラップは実はそんなに大きなものではないと思います。例えば、ヨーロッパ人がアフリカ黒人を奴隷として使って富を得たという歴史における、黒人の人々の人権の蹂躙は、偏見に基づくというよりは、他人を自己利益のために利用しただけのことであり、アフリカ黒人が手に入る前は、もっと立場の弱い子供などを過酷な炭坑労働などに使用していたわけです。これは子供に対する偏見ゆえではありません。むしろ、そういったシステムを固定化する上で人は偏見を利用したとも言えます。
 偏見がもとになって人権や公民権の侵害が起きている例がどれぐらいあるでしょうか?それは、実際には子供が面白半分にするいじめや社会的弱者の人を攻撃するような例に限られるのではないかと思います。むしろ逆に、公民権、人権の侵害があって、その事実に基づいて形成されるのが偏見というものではないでしょうか。ちょうど、検察とゴミメディアがよってたかって作り上げる冤罪のようなものです。この例において、世間が持つ偏見は、冤罪を作り上げた検察やゴミメディアが「風を吹かせて」つくりだした人為的なものであって根拠を欠くものです。こういうのはいけません。
 イラク侵攻の時、多くの一般アメリカ人は、911のテロを忘れるな、と言いました。イラクに侵攻することは、アメリカを守ることだ、アメリカを守るためには先制攻撃は正当化されるべきだ、という悪名高いブッシュドクトリンのもと、イラクの人々の人権、自治権を踏みにじり、武力侵攻しました。彼らのとっては、イラクに侵攻することと、空港のセキュリティーチェックは殆ど同じレベルで考えられていて、そこにあるのは、自分の権利の保護(そのためには他人の権利は考慮しない)という態度です。それに、今では、イラクとテロは無関係であったことを人々は知っています。それでは、イラク侵攻支持した人は、この行為を今、どのように正当化できるのでしょうか(できません)。自分の権利を守るために他人の権利を侵害する人は「偏見」を有意義に使いこなすことはできません。そういう人は、ひたすら「偏見」を無くす努力をすべきです。一方、偏見が越えてはならない線を意識的に守れるのならば、あえて偏見を無くさないといけないとは思いません。
 そもそも、偏見をなくすことは容易ではありません。それは自己防衛メカニズムであると同時に自己のアイデンティティーに密接に関連しており、感情の問題をも含むからでもあります。そういうことを鑑みると、学校で教えるべきことは、偏見が危険を未然に防ぐ防御機構であるのを通り越して、他に対する攻撃に転じる場合の「行為」を戒めることであろう、と私は思います。人権、公民権というものが法律で保証されている限り、その侵害はやってはいけないことです。一方、偏見を持つのは、言ってみれば個人の自由です。しかし、その偏見によって、他人を攻撃するようなことは、例え法律で禁止されていなくとも、やってはならないことです。
 偏見に基づく行為の中でも微妙なものがあります。例えば「差別をする」という行為には、許されるべき差別とそうでないものがあるのではないかと私は思います。「君子危うきに近寄らず」は比較的passiveな差別でしょうけど、もっとaggressiveな差別もあります。例えば、アメリカの大学では人種や性別によって、優遇枠や逆優遇枠があります。アジア人学生の数は制限されている一方、黒人やヒスパニック系の人は優遇されます。良い大学に優秀なアジア人が入れず、そうでもない他人種が入れるということが起こります。この差別行為は、学生の多様性という大学の利益を高める、あるいは、大学がアジア人だらけになってしまうリスクを回避するための方策で、「学力には人種差がある」という偏見がその根拠となっているわけです。しかし、こういう大学の差別や空港セキュリティーの差別は、私は容認されるべきであると思います。なぜなら、これらのケースでの被差別人の利益と被差別者をも含むシステム全体との利益が相反しているからです。その場合、差別者側の利益が優先(そのために差別するのですから)されるのはやむを得ないのではないかと思います。
 従って、学校が小学生に教えるべきことは、「偏見をなくそう」などということではなく、法治国家の市民として、他人の人権や公民権を侵害してはならない、という遵法の精神であろうと私は思います。「偏見をなくす」というのは、ほとんど「汝の敵を愛する」ことと同義です。そもそもできないことなのであって、現実の世の中で言葉どおりに実践しようと危険です。偏見のない世の中というのは、理想であって、現実の反省の糧とするための喩え話なのであろうと私は思います。

 それでは、私たちはどうするべきでしょう。偏見と差別に満ちた世の中を偏見も差別もない良い世界に変えれたら素晴らしいですけど、まず、できない相談です。「人を変えようとしても簡単ではないが、自分なら変えれる(可能性がある)」のですから、プラグマティックには、自分がまず変わることが大切です。偏見や差別があるのは世の常であることをまず受入れること、それに巻き込まれないように気をつけること、そして、最後には自分自身の持っている偏見を少しずつ取り除いて行く努力をすること、そうやっていくしかありません。大事なのは、他人の偏見を非難する前に自分の偏見を取り除く努力をすることです。これは簡単なことではありません。偏見は、小学生に「偏見は止めましょう」と言って止まるようなものではなく、長年の努力が必要なことであると私は思います。
 
 ところで、このエントリーを書く一つのきっかけになった子供の小学校での差別教育についての後日談を少し。先日、偏見と人権、公民権侵害についての「教育実習」をうちの子供は受けたわけですけど、その担任の先生との個人面談がありました。その若い女の先生は、学校で「偏見や差別はよくないこと」を教えるという目的で、クラスの半数の子供を一方的に被差別者となるようにあてがったのだそうですが、子供によると、その被差別者にされた子供たちはランダムではないと言うのです。被差別者になった子供は一人を除いて全員が男の子で、一人の女の子はその担任の先生が好ましく思っていない子供だというのです。子供のよく話を聞いてみると、担任の先生は明らかな依怙贔屓をするのだそうです。うちの子はあいにく嫌われている方だそうで、クラスの男の子は全員がその先生を嫌っているのだそうです。その個人面談では、うちの子は教師に対する尊敬の態度に欠けるみたいなことを言ったそうで、続けて家庭でのしつけに問題があるようなことをほのめかしたと聞いて、私は「カチン」ときました。尊敬というものはearnするものであり、教師だから自動的にもらえるようなものではないと私は思います。子供を公平に愛情をもって指導することに対する対価が教師に対する尊敬というものです。自分の子供の時を振り返っても、良い先生、悪い先生はいました。尊敬されている先生もいれば、軽蔑されている先生もいました。尊敬される先生は尊敬に価する人間でした。軽蔑されている先生は軽蔑に価する人でした。この先生は、自ら偏見と依怙贔屓を実践していながら、「偏見や差別はよくない」と子供に教え、尊敬に価しない行動を示しながら、子供にもっと尊敬しろ、と教えているようです。それでは、子供は混乱するでしょう。六祖慧能は言いました、「わしは、見えもするし、見えもしない。それは、自分の過ちを常に見ているという意味であり、人の過ちを見ない、という意味である」この先生のやっていることは、その逆ですね。自らを教育できない人間に他人は教育できないでしょう。残念ながら、自分が見えていない人に改善の見込みはありません。子供には、「先生だから」あるいは「親だから」というような偏見に捕われずに、自分の目でその人をじっくり評価してもらいたいものだと思います。
コメント
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