講談社のウェップサイト、G2 (http://g2.kodansha.co.jp/) に先月、小沢氏に関して、立花隆からの緊急寄稿があり、その内容のヒドさにあきれた人々のブーイングの嵐にあって、その寄稿がウェッブ上から取り下げられるという事件がありました。私も読みましたが、あきれるほど思い込み、偏見と悪意に満ちたヒドいもので、これが仮にもプロのジャーナリスト、しかも、よくも悪くも有名人である立花隆が書いたものかと思うと情けなくなりました。救いはそこに寄せられているその寄稿に対するコメントでした。95%ぐらいがその偏向した文章に対する批判をしているわけです。その一般読者の冷静かつ公平なものの見方を知って、これは日本人がバカになったのではなく、立花隆の方がおかしいのだということがわかって私はほっとしました。
私が大学に入り立てのころ、学生自治会執行部は社会党下部組織で、学生の権利向上の運動をやっていました。それより十年ほど前、学生運動の内ゲバをとりあげた「中核対革マル」という立花隆の本がベストセラーになっていたのは私も覚えています。私は読んだことはありませんけど、当時の執行部の筋金入りの学生運動家は、立花隆のことをボロクソに言っていたのを覚えています。つまり、体制側の人間だというのです。当時、若い貧乏な大学生にとって、学生は弱者であり、体制は弱者を搾取し権利を侵害する悪者であるというのが常識でした。事実、国立大学は学生への福利厚生を縮小していっている最中で、大学寮や寮食堂という赤字部門の切り捨ては、バイトで生活費を稼ぎながら大学に通う学生にとって切実な問題でした。そういう嫌でも毎日の生活の問題と直面せざるを得ないあまり裕福でない家庭の学生がその大学生活の権利を守るために組織しているのが自治会なわけで、そこでは、当然、体制側につくものは皆、敵であるという意識があったわけです。立花隆が共産党を批判したり、角栄を批判したりしてみても、現体制が崩れない限り、立花隆自身は安泰であり、好き勝手が言えたわけです。身を張って自らの生活を守るために運動している活動家や政治家とはそもそも考え方も視点も違うといえるでしょう。そういう意味で、当時の若い大学生が「立花隆は所詮、体制側の人間だ」と斬り捨たのだろうと思い返すのです。
「田中角栄研究」「田中角栄いまだ釈明せず」「ロッキード裁判批判を斬る」という本では一貫して、角栄を攻撃し、最初の連載は角栄退陣のきっかけとなったそうです。田中角栄に金権政治というレッテルを貼付けたのは彼の仕事だと思います。日本人の清貧根性を煽ったのでしょう。事実、角栄自身は無罪となることを確信していたそうですから、角栄は日本の司法を多少は信じていたのでしょうし、信じたかったのだと思います。彼の言葉、「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」は心からのものだと思います。そのためにはアメリカ支配を終わらせて、日本を自立した民主主義の国にしなければならないと考えていたでしょう。この立花隆の連載が、角栄の退陣とその後の闇将軍化のきっかけになったのであれば、それは日本がアメリカ支配から脱却する折角の大きなチャンスを潰してしまったのではないかと考えることも可能ではないかと思います。
このG2の立花隆の記事は、コメントで読者からの指摘もあるように、脱アメリカを目指す小沢民主党に対するただの攻撃で、 まるで清和会系議員やあるいはCIAそのものから小沢氏攻撃記事を書くように指示でも出ているとしか思えないような書き方です。CIAの手先ならば角栄批判も小沢批判も納得がいきますし、そうであるなら尚更、この時期に取材もろくにしないで論理の破綻した文章を緊急寄稿までして、小沢氏のネガティブキャンペーンを派手に張るのかも理解できます。
小沢氏は、正直に「政治には金がかかる」と言いました。政治だけではありません、何らかの仕事をするのに金は必要不可欠です。そもそも、そのために金というものはあるのです。私が読んだり聞いたりして知る限り、角栄や小沢氏が集めた金のほとんどは、 私腹を肥やすためではなく、政治家としての職務の推進ために使われているようです。小沢氏ほど金に潔癖な人はいない、という政治家もいるほどです。無論、角栄が嵌められているのを最も間近で見てきているのですから、金の扱いには細心の注意を払っているはずです。検察が言うような裏献金で土地を買ったりするようなマヌケであるはずがありません。本当にウラ金ならそれをわざわざ表に出して、書類に記載するわけがないでしょう。ウラ金は帳簿に残らないようにウラで使われるものです。
金が大事なのは、政治家に限りません、過去数年、私も研究資金が乏しいために、やるべき研究をあきらめざるを得なかったことがたびたびありました。もう少し金があったら、もっとよい実験ができたのに、とホゾを噛むのは切ないものです。
話が脱線しました。立花隆の記事のことでした。そもそも、評論家というのは、人の仕事を異なる視点から見て新しい解釈を発見するのが仕事です。人の仕事の自分に都合の良い部分だけを単純にまとめて、偏った主観に基づいて感想を言うのは、評論とは言えません。この立花隆の一連の小沢氏に対する寄稿は、小学生の感想文なみ、はっきり言って、産経新聞の社説とどっこいどっこいです。
私が読んだ立花隆の本は科学関連の二三とあと「臨死体験」という本を読んだだけなので過去の政治的スタンスを著書からは知りません。しかし、「臨死体験」のような長編を読めば、著者がどういう人物かぐらいはわかります。臨死体験の研究というのは、死にかけた人の体験談から、死後の世界はあるのか、ないのか、あるとすればどういう形であるのか、というような問題を考えるものです。これは「科学的に証明する」ことが困難な問題であるので、議論では、客観的に各証拠を吟味して、理論的に、もっともコヒーレントと考えられるモデルを作りあげていく、という高度な作業が要求されるものです。いわば、理論物理学で宇宙のなりたちを研究するのと同様です。「臨死体験」を読んで思ったことは、取材の量はそれなりにあるのですが、その取材で得た証拠を客観的に吟味するという点に欠けていること、結論に至る論理が通っていないこと、そして明らかに「死後の世界など信じていない」という主観に基づいて結論を述べている部分が多々あることです。彼は科学者でないですから、厳密な論理というものに弱いのかもしれませんけど、私は反発を禁じ得ませんでした。これが科学論文であるなら、 結論が十分に証拠によってサポートされていない、論文の体をなさないもので、その先入観と思い込みには辟易とさせるものがあります。
ところで、緊急寄稿では3部に別れていて、一回目は、「異例の再聴取の裏を読む『小沢はもう終わりだ』」というタイトルで、検察が不起訴を発表する直前に出されており、「小沢氏は逮捕、起訴されてあと1-2日で、政治生命は終わりとなる」と予想しています。(大ハズレですね)二回目は、「『小沢不起訴』の先を読む」、三回目は、「小沢と検察、両者の会見から読み取れるもの」とのタイトルです。一回目に「小沢はもう終わりだ」と大上段に振りかぶっておいたくせに、その舌の根も乾かぬうちに三回目では「小沢の政治生命安泰、検察の組織安泰という日々がつづくのではないか」と結論しています。支離滅裂です。この一連の緊急寄稿は、根拠も示さずに悪意のある意見を垂れ流すただの誹謗中傷以上の何ものでもないと私には思えます。事実、コメントを寄せた殆どの人がそう感じているようです。
それでネットでの批判が高まってきて、講談社は一端この記事を引っ込めたのですけど、先日、恥ずかしげもなく、あらためて「ドキュメント小沢一郎問題」というタイトルの駄文を先の記事を組み入れる形でG2に載せはじめたので、私も黙っておれなくなった次第です。
例えば、その冒頭の文は、このようなものです。
政治資金規正法違反事件として、三人の秘書は訴追されたが、小沢一郎民主党幹事長自身は訴追を免れたため、まさに「免れて恥なし」そのままの行動を取りはじめている。
この人は、言いがかりとも言えるような疑いで(事実、疑惑が何であったかさえよくわからない事件でした)あれだけ検察がとんでもない捜査をした挙げ句に、何も見つけることができなかったという事実をどう考えているのでしょう。推定無罪を覆そうと検察があらゆることをやった挙げ句、逮捕も起訴もできなかったということです。これはまさに「潔白」の正式な証明であって、潔白であるということが証明されたのに、何を逃れた、何を恥るべきだと、言っているのか、と思います。これは、最初から「小沢は黒である」という自分の中での結論からすべての話が進めている証拠です。ジャーナリストとして偏見を排除して、公平、客観的立場から物事をまず見るという基本の姿勢がなっていません。この一連の文章の恣意的な証拠の使い方、ねじれた論理を一々指摘していたらきりがありませんのでやりませんが、普通の頭脳のもつ人が一読すれば、開いた口がふさがらないというレベルですから、百聞は一見にしかず、この記事を読んで、このような人が、そのかつての名前を使って大出版社からこのような程度の低いプロパガンダ記事を垂れ流しているという日本の憂うべき現状を実感していただけたらと思います(http://g2.kodansha.co.jp/?p=3793)。(コメント欄の記事批判の意見がまともなのでまだしも救われます)
現時点でコメント欄は、殆どが批判コメントですけど、この調子でブーイングがひどくなると、講談社はまた記事を撤回するのでしょうかね。
仮にも「知の巨人」と異名をとった人が、このような低レベルの記事を出して、都合が悪くなったら引っ込めるというような行動をとるのを見て、「晩節を汚す」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。
私が大学に入り立てのころ、学生自治会執行部は社会党下部組織で、学生の権利向上の運動をやっていました。それより十年ほど前、学生運動の内ゲバをとりあげた「中核対革マル」という立花隆の本がベストセラーになっていたのは私も覚えています。私は読んだことはありませんけど、当時の執行部の筋金入りの学生運動家は、立花隆のことをボロクソに言っていたのを覚えています。つまり、体制側の人間だというのです。当時、若い貧乏な大学生にとって、学生は弱者であり、体制は弱者を搾取し権利を侵害する悪者であるというのが常識でした。事実、国立大学は学生への福利厚生を縮小していっている最中で、大学寮や寮食堂という赤字部門の切り捨ては、バイトで生活費を稼ぎながら大学に通う学生にとって切実な問題でした。そういう嫌でも毎日の生活の問題と直面せざるを得ないあまり裕福でない家庭の学生がその大学生活の権利を守るために組織しているのが自治会なわけで、そこでは、当然、体制側につくものは皆、敵であるという意識があったわけです。立花隆が共産党を批判したり、角栄を批判したりしてみても、現体制が崩れない限り、立花隆自身は安泰であり、好き勝手が言えたわけです。身を張って自らの生活を守るために運動している活動家や政治家とはそもそも考え方も視点も違うといえるでしょう。そういう意味で、当時の若い大学生が「立花隆は所詮、体制側の人間だ」と斬り捨たのだろうと思い返すのです。
「田中角栄研究」「田中角栄いまだ釈明せず」「ロッキード裁判批判を斬る」という本では一貫して、角栄を攻撃し、最初の連載は角栄退陣のきっかけとなったそうです。田中角栄に金権政治というレッテルを貼付けたのは彼の仕事だと思います。日本人の清貧根性を煽ったのでしょう。事実、角栄自身は無罪となることを確信していたそうですから、角栄は日本の司法を多少は信じていたのでしょうし、信じたかったのだと思います。彼の言葉、「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」は心からのものだと思います。そのためにはアメリカ支配を終わらせて、日本を自立した民主主義の国にしなければならないと考えていたでしょう。この立花隆の連載が、角栄の退陣とその後の闇将軍化のきっかけになったのであれば、それは日本がアメリカ支配から脱却する折角の大きなチャンスを潰してしまったのではないかと考えることも可能ではないかと思います。
このG2の立花隆の記事は、コメントで読者からの指摘もあるように、脱アメリカを目指す小沢民主党に対するただの攻撃で、 まるで清和会系議員やあるいはCIAそのものから小沢氏攻撃記事を書くように指示でも出ているとしか思えないような書き方です。CIAの手先ならば角栄批判も小沢批判も納得がいきますし、そうであるなら尚更、この時期に取材もろくにしないで論理の破綻した文章を緊急寄稿までして、小沢氏のネガティブキャンペーンを派手に張るのかも理解できます。
小沢氏は、正直に「政治には金がかかる」と言いました。政治だけではありません、何らかの仕事をするのに金は必要不可欠です。そもそも、そのために金というものはあるのです。私が読んだり聞いたりして知る限り、角栄や小沢氏が集めた金のほとんどは、 私腹を肥やすためではなく、政治家としての職務の推進ために使われているようです。小沢氏ほど金に潔癖な人はいない、という政治家もいるほどです。無論、角栄が嵌められているのを最も間近で見てきているのですから、金の扱いには細心の注意を払っているはずです。検察が言うような裏献金で土地を買ったりするようなマヌケであるはずがありません。本当にウラ金ならそれをわざわざ表に出して、書類に記載するわけがないでしょう。ウラ金は帳簿に残らないようにウラで使われるものです。
金が大事なのは、政治家に限りません、過去数年、私も研究資金が乏しいために、やるべき研究をあきらめざるを得なかったことがたびたびありました。もう少し金があったら、もっとよい実験ができたのに、とホゾを噛むのは切ないものです。
話が脱線しました。立花隆の記事のことでした。そもそも、評論家というのは、人の仕事を異なる視点から見て新しい解釈を発見するのが仕事です。人の仕事の自分に都合の良い部分だけを単純にまとめて、偏った主観に基づいて感想を言うのは、評論とは言えません。この立花隆の一連の小沢氏に対する寄稿は、小学生の感想文なみ、はっきり言って、産経新聞の社説とどっこいどっこいです。
私が読んだ立花隆の本は科学関連の二三とあと「臨死体験」という本を読んだだけなので過去の政治的スタンスを著書からは知りません。しかし、「臨死体験」のような長編を読めば、著者がどういう人物かぐらいはわかります。臨死体験の研究というのは、死にかけた人の体験談から、死後の世界はあるのか、ないのか、あるとすればどういう形であるのか、というような問題を考えるものです。これは「科学的に証明する」ことが困難な問題であるので、議論では、客観的に各証拠を吟味して、理論的に、もっともコヒーレントと考えられるモデルを作りあげていく、という高度な作業が要求されるものです。いわば、理論物理学で宇宙のなりたちを研究するのと同様です。「臨死体験」を読んで思ったことは、取材の量はそれなりにあるのですが、その取材で得た証拠を客観的に吟味するという点に欠けていること、結論に至る論理が通っていないこと、そして明らかに「死後の世界など信じていない」という主観に基づいて結論を述べている部分が多々あることです。彼は科学者でないですから、厳密な論理というものに弱いのかもしれませんけど、私は反発を禁じ得ませんでした。これが科学論文であるなら、 結論が十分に証拠によってサポートされていない、論文の体をなさないもので、その先入観と思い込みには辟易とさせるものがあります。
ところで、緊急寄稿では3部に別れていて、一回目は、「異例の再聴取の裏を読む『小沢はもう終わりだ』」というタイトルで、検察が不起訴を発表する直前に出されており、「小沢氏は逮捕、起訴されてあと1-2日で、政治生命は終わりとなる」と予想しています。(大ハズレですね)二回目は、「『小沢不起訴』の先を読む」、三回目は、「小沢と検察、両者の会見から読み取れるもの」とのタイトルです。一回目に「小沢はもう終わりだ」と大上段に振りかぶっておいたくせに、その舌の根も乾かぬうちに三回目では「小沢の政治生命安泰、検察の組織安泰という日々がつづくのではないか」と結論しています。支離滅裂です。この一連の緊急寄稿は、根拠も示さずに悪意のある意見を垂れ流すただの誹謗中傷以上の何ものでもないと私には思えます。事実、コメントを寄せた殆どの人がそう感じているようです。
それでネットでの批判が高まってきて、講談社は一端この記事を引っ込めたのですけど、先日、恥ずかしげもなく、あらためて「ドキュメント小沢一郎問題」というタイトルの駄文を先の記事を組み入れる形でG2に載せはじめたので、私も黙っておれなくなった次第です。
例えば、その冒頭の文は、このようなものです。
政治資金規正法違反事件として、三人の秘書は訴追されたが、小沢一郎民主党幹事長自身は訴追を免れたため、まさに「免れて恥なし」そのままの行動を取りはじめている。
この人は、言いがかりとも言えるような疑いで(事実、疑惑が何であったかさえよくわからない事件でした)あれだけ検察がとんでもない捜査をした挙げ句に、何も見つけることができなかったという事実をどう考えているのでしょう。推定無罪を覆そうと検察があらゆることをやった挙げ句、逮捕も起訴もできなかったということです。これはまさに「潔白」の正式な証明であって、潔白であるということが証明されたのに、何を逃れた、何を恥るべきだと、言っているのか、と思います。これは、最初から「小沢は黒である」という自分の中での結論からすべての話が進めている証拠です。ジャーナリストとして偏見を排除して、公平、客観的立場から物事をまず見るという基本の姿勢がなっていません。この一連の文章の恣意的な証拠の使い方、ねじれた論理を一々指摘していたらきりがありませんのでやりませんが、普通の頭脳のもつ人が一読すれば、開いた口がふさがらないというレベルですから、百聞は一見にしかず、この記事を読んで、このような人が、そのかつての名前を使って大出版社からこのような程度の低いプロパガンダ記事を垂れ流しているという日本の憂うべき現状を実感していただけたらと思います(http://g2.kodansha.co.jp/?p=3793)。(コメント欄の記事批判の意見がまともなのでまだしも救われます)
現時点でコメント欄は、殆どが批判コメントですけど、この調子でブーイングがひどくなると、講談社はまた記事を撤回するのでしょうかね。
仮にも「知の巨人」と異名をとった人が、このような低レベルの記事を出して、都合が悪くなったら引っ込めるというような行動をとるのを見て、「晩節を汚す」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。