気軽に書き始めましたけど、この話題はちょっと気が重くなってきました。もう少し続けます。
偏見は偏見する側にとって、とりあえず近視的なメリットはありそうです。しかし、問題になっているのは、そのような偏見で見られる側の人のことです。あるイスラム系の人は飛行機に乗る度に、しつこくチェックされて、怪しい目で見られることに最初は随分腹が立った(が、今は慣れてきた)と言っていました。これはイスラム系に対する先入観、偏見によるものです。他人を怪しい目で見ることそのものは、違法というわけではないでしょうし、人権や公民権の侵害とも言えないと思います。偏見を受ける側の不愉快はよく分かりますが、現代の法治国家において、法的なレベルで人権、公民権の侵害がないのであれば、その偏見は(現時点においては)許容されるべきであると私は思います。
それでは、法に触れなければ野放しにしておいてよいかというのは、また別のレベルの話です。私は個人的には偏見を持つ側がその偏見にまず意識的であること、その上で偏見を排除することの危険を熟知した上で、それでも偏見を無くすように努力することが大切であると思います。
偏見にも、様々なレベルの偏見があると思います。それは連続的であって、良くない偏見もあれば、比較的良性の偏見もあるでしょう。例えば、アメリカにおいて、教育レベルの高くない白人がアジア人を嫌う感情というのは、おそらく自己利益を脅かす存在とみなしているところに起因しているのではないでしょうか。第二次大戦時に日系アメリカ人をキャンプに強制収容したのは、アメリカに戦争をしかけた日本からの移民だからでしょう。現代アメリカで実際に権力を握っているのはユダヤ人ですが、普通のヨーロッパ系アメリカ白人は、自分たちこそが「本当のアメリカ人」だと思っているでしょう。権力を握っているユダヤ人は、ヨーロッパ系白人と対立しないよう表に出ないで、うまくヨーロッパ系白人を含めたアメリカ人を搾取するようなシステムを創り上げています。ですので、普通のヨーロッパ系白人は自分の生活がもっと良くならないのはユダヤ人のせいだとは考えず、後からやってきたアジアや南米からの移民のせいにしたがるのではないでしょうか。これは自己利益を脅かすものを嫌っているわけで、同じ白人でもかつてアイルランド系や東欧系が随分差別を受けたのと同じ理由であろうと思います。既得権を握っているユダヤ人は、ヨーロッパ系白人と対立しないように表に出ないようにしています。一方、後発移民のアジア人には、そんな余裕はありません。生き残って行くために中国系アメリカ人は、子供に勉強や音楽を叩き込みます。そういう中国系と普通のヨーロッパ系白人が真っ向勝負すれば、当然ながら中国人が勝ってしまうわけです。アジア人に対する蔑視というのは、そういう「人種」ぐらいしか誇るべきものがない持たざる白人の劣等感の裏返し、代償行為であるとも考えられます。事実、同じヨーロッパ系白人でも、教育レベルが高く社会的に成功している人々ほど、人種偏見は少ないと思います。こういう偏見は自己利益と繋がっていますから、ちょっと厄介です。欲求不満のはけ口として、他人種を憎むのですから、KKKのような病的で攻撃的な人種主義者と変化する可能性があります。
一方、もっとイノセントな偏見もあると思います。偏見は単純な好き嫌いの延長であることもあります。ニンジンやピーマンが嫌いという同じ感覚で、聖を好み凡を嫌う人もいるでしょう。ニンジンが嫌いな子供に「食べ物を見た目や味で差別するべきではなくて、栄養価を考えて判断すべきだ」と説教するナンセンスは誰でもわかるでしょう。「それでは、味や見た目と栄養価は差別しても良いのか」と反論する子供もいることでしょう。同様に、人間に対する好き嫌いは誰にでもあります。好き嫌いは感情の問題であり、理性で完全にコントロールすることはできません。同様に、偏見の少なからぬ部分が感情の問題となっていますから、偏見を理性がいくら、「良くない」と抑制しようとしても、なかなかどうにでもなるものではありません。そう言う意味で、「偏見は良くないから、無くしましょう」という考え方そのものがプラグマティックではないと私は思うのです。それは「戦争や核兵器はよくないから、無くしましょう」と言ったところで、無くならないのと同じです。戦争をなくそうと思うなら、戦争をする必要のない世界を構築することなしにはなくなりませんし、同様に偏見は、偏見を持つことが何の価値もないような社会にならない限り、無くなることはないのだろうと思います。ですので、現時点で気をつけなければならないことは、偏見そのものを無くすことはすぐにはできないのだから、それが違法行為に繋がらないように監視するということであろうと思うのです。
(続く)
偏見は偏見する側にとって、とりあえず近視的なメリットはありそうです。しかし、問題になっているのは、そのような偏見で見られる側の人のことです。あるイスラム系の人は飛行機に乗る度に、しつこくチェックされて、怪しい目で見られることに最初は随分腹が立った(が、今は慣れてきた)と言っていました。これはイスラム系に対する先入観、偏見によるものです。他人を怪しい目で見ることそのものは、違法というわけではないでしょうし、人権や公民権の侵害とも言えないと思います。偏見を受ける側の不愉快はよく分かりますが、現代の法治国家において、法的なレベルで人権、公民権の侵害がないのであれば、その偏見は(現時点においては)許容されるべきであると私は思います。
それでは、法に触れなければ野放しにしておいてよいかというのは、また別のレベルの話です。私は個人的には偏見を持つ側がその偏見にまず意識的であること、その上で偏見を排除することの危険を熟知した上で、それでも偏見を無くすように努力することが大切であると思います。
偏見にも、様々なレベルの偏見があると思います。それは連続的であって、良くない偏見もあれば、比較的良性の偏見もあるでしょう。例えば、アメリカにおいて、教育レベルの高くない白人がアジア人を嫌う感情というのは、おそらく自己利益を脅かす存在とみなしているところに起因しているのではないでしょうか。第二次大戦時に日系アメリカ人をキャンプに強制収容したのは、アメリカに戦争をしかけた日本からの移民だからでしょう。現代アメリカで実際に権力を握っているのはユダヤ人ですが、普通のヨーロッパ系アメリカ白人は、自分たちこそが「本当のアメリカ人」だと思っているでしょう。権力を握っているユダヤ人は、ヨーロッパ系白人と対立しないよう表に出ないで、うまくヨーロッパ系白人を含めたアメリカ人を搾取するようなシステムを創り上げています。ですので、普通のヨーロッパ系白人は自分の生活がもっと良くならないのはユダヤ人のせいだとは考えず、後からやってきたアジアや南米からの移民のせいにしたがるのではないでしょうか。これは自己利益を脅かすものを嫌っているわけで、同じ白人でもかつてアイルランド系や東欧系が随分差別を受けたのと同じ理由であろうと思います。既得権を握っているユダヤ人は、ヨーロッパ系白人と対立しないように表に出ないようにしています。一方、後発移民のアジア人には、そんな余裕はありません。生き残って行くために中国系アメリカ人は、子供に勉強や音楽を叩き込みます。そういう中国系と普通のヨーロッパ系白人が真っ向勝負すれば、当然ながら中国人が勝ってしまうわけです。アジア人に対する蔑視というのは、そういう「人種」ぐらいしか誇るべきものがない持たざる白人の劣等感の裏返し、代償行為であるとも考えられます。事実、同じヨーロッパ系白人でも、教育レベルが高く社会的に成功している人々ほど、人種偏見は少ないと思います。こういう偏見は自己利益と繋がっていますから、ちょっと厄介です。欲求不満のはけ口として、他人種を憎むのですから、KKKのような病的で攻撃的な人種主義者と変化する可能性があります。
一方、もっとイノセントな偏見もあると思います。偏見は単純な好き嫌いの延長であることもあります。ニンジンやピーマンが嫌いという同じ感覚で、聖を好み凡を嫌う人もいるでしょう。ニンジンが嫌いな子供に「食べ物を見た目や味で差別するべきではなくて、栄養価を考えて判断すべきだ」と説教するナンセンスは誰でもわかるでしょう。「それでは、味や見た目と栄養価は差別しても良いのか」と反論する子供もいることでしょう。同様に、人間に対する好き嫌いは誰にでもあります。好き嫌いは感情の問題であり、理性で完全にコントロールすることはできません。同様に、偏見の少なからぬ部分が感情の問題となっていますから、偏見を理性がいくら、「良くない」と抑制しようとしても、なかなかどうにでもなるものではありません。そう言う意味で、「偏見は良くないから、無くしましょう」という考え方そのものがプラグマティックではないと私は思うのです。それは「戦争や核兵器はよくないから、無くしましょう」と言ったところで、無くならないのと同じです。戦争をなくそうと思うなら、戦争をする必要のない世界を構築することなしにはなくなりませんし、同様に偏見は、偏見を持つことが何の価値もないような社会にならない限り、無くなることはないのだろうと思います。ですので、現時点で気をつけなければならないことは、偏見そのものを無くすことはすぐにはできないのだから、それが違法行為に繋がらないように監視するということであろうと思うのです。
(続く)