百醜千拙草

何とかやっています

An old dog, New tricks

2014-05-06 | Weblog
この十年余りで、研究環境は劇的に変化したと私は思います。その原因は、インターネット技術と中国の台頭です。研究内容は高速化し、データ量は激増しました。十年前だと、各分野での重要な論文というのはそれなりに限られており、そうした発見を中心にして枝葉を出すように研究が末端に向けて広がって行く傾向があり、「道筋」が読めました。その道筋を押さえていれば、それぞれの仕事の意義も内容も比較的容易に理解して、覚えておくことは難しくなかったように思います。

それが、今では、おそらく論文出版スピードは数倍に上がっており、しかも、中国などからのゲリラ的ともいえる波状攻撃的な論文の出版によって、従来のメインストリームの道筋に沿って研究動向を理解するというやり方では、多くの穴ができてしまう結果となっているような気がします。知らない間に、中国に出し抜かれていて手遅れになっていたということが起こっています。

そして、道筋に沿って、仮説に基づいて研究を進めるというスタイルは、段々と実際の研究に合わなくなってきており、中国などのようにまだ人件費や研究規制などの点で有利な国では、とくに、仮説検証型研究よりも、大量データ取得型の研究、言わば仮説を検討するのではなく、仮説を作るための研究を優先する傾向があるように感じます。データがあれば、とにかく論文は書けます。それが、中国からの大量の論文出版につながっているのではないかなと思います。

大量のデータに基づく(しばしば、仮説の弱い)現象論的論文は、従来の研究の発展の道筋を追うことによって研究動向を理解していくという普通の人間の理解方法では、頭の中から漏れてしまいます。毎週、出版される興味のある論文を数本読むだけでも、それらを長期的に覚えていることは困難です。加えて、出版論文数の激増で、私の分野では、毎週、数百本の論文が出版されており、論文タイトルを一通り見るだけでも難しいという状況です。記憶力の減退というハンディキャプを持つ上に、大量情報は日々流入してきて、かつ、その情報がゲリラ的に脈絡なくポンポンとでてきます。「えっ、こんな論文が出ていたのか」と後になって、驚くこともしばしばあります。そういう論文は中国、台湾、などから何の前触れもなく出てくるのです。多分、20 - 30年前の日本がそんな感じだったのではないでしょうか。

限られた数の重要な論文をじっくり読んで、深く考えるということが難しくなってきました。何が重要かという点に関して多様化してきている上に、とにかく、入力が多過ぎるのです。それを覚えておくことも満足にできない状況で、一つ、一つ深く考えるということが、おろそかになりがちです。

もっと主観的に言えば、これまでは、自分が歩いている周囲の景色が見えていました。それで自分のやっていることの意義も立ち位置も把握できていたように思います。そして、見えるところと見えていないところの境界も比較的明瞭でした。だからどの方向に進めばよいのかも何となく理解できました。しかし、今では、とにかく周囲に余りに沢山のモノがつぎからつぎへと現れるので、見えているのに何を見ているのか分からない、という状況に陥りつつあり、研究全体を俯瞰して自分の立ち位置を確かめるということすら難しいという感覚を覚えるようになっています。

長年の経験で築いた価値観のようなものをひっくり返されるような危機感を感じることも多いです。しかし、世の中の動きに合わせて、自分の研究戦略を随時にフレキシブルに変えて行くことができなければ、多極化、高速化、大量化する研究環境から落ちこぼれてしまいます。

プロテニスでは、ラケットの改良が一気に世代交代を進めました。剛性の強いフレームのおかげでボールのスピードとコントロールが向上し、大型選手によるパワーテニスが主流となりました。かつて、だんだんと勝てなくなったマッケンローが、ウッドフレームのラケットでカムバックしようとした昔のライバル、ボルグへのコメントを聞かれて、「私は、まだ世界トップクラスと勝負することを考えているのだ。彼はもうトップクラスプレーヤーではない」と言ってコメントを拒否したという話を聞いたことがあります。研究の世界も、高技術化、高速化が進み、ウッドラケットでの必勝法は、通用しなくなってきました。そんななかで、私のように、スピードもパワーもない人間がどのように戦っていくべきか、と頭を悩ませる日々です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする