前回の幸運の話に多少関連して、
東大入学式での、「ジェンダー研究」の上野千鶴子さんの祝辞を新聞で読みました。
「がんばっても報われない社会が待っている」
-- 入学おめでとうございます。あなたたちは激烈な競争を勝ち抜いてこの場に来ることができました。
、、、、(日本の社会での男女不平等のアネクドートをあげ)、、、これまであなたたちが過ごしてきた学校は、タテマエ平等の社会でした。偏差値競争に男女別はありません。
ですが、大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。東京大学もまた、残念ながらその例のひとつです。、、、
あなたたちは選抜されてここに来ました。東大生ひとりあたりにかかる国費負担は年間500万円と言われています。これから4年間すばらしい教育学習環境があなたたちを待っています。そのすばらしさは、ここで教えた経験のある私が請け合います。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。
ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。
そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。
あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。
世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。
あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。
あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。
、、、--
この話に、どれほどの入学生が共感してくれるのだろうと思いました。
これまでの東大出身やあるいはエリートコースを歩んできた若者との個人的な交流から、エリートコースの人の多くに共通する点があると感じます。彼らは自分がエリートコースを歩み、競争に勝ってきたことで、自分はエリートコースにいることを自覚しており、そしてその地位を得たのは、自分の努力と才能の成果であると考えている人が多いです。遊びたい時間を削り週末も夏休みの犠牲にして努力して競争に勝ってきた、自分が今の地位にいるのは頑張ったゆえの当然の結果であるという思いです。それゆえに彼らの自信の裏に、しばしば大きなエゴやエリート意識があります。
それが醜悪な形で出た例が、先の国会での横畠内閣法制局長官の傲慢な越権発言でしょう。慇懃無礼に他人を見下していたのが、つい、表に出てしまったのでしょうね。(もちろん、そんなエゴやエリート意識とは無縁の東大出身の人も知っています)
日本ではエリートコースは一流国立大学に合格するところから始まります。しかし、それはペーパーテストで高得点を取るというだけの競争です。だから、彼らがしてきた競争に勝つための努力というのは、答えのある問題の正しい解を人よりも早く見つける訓練に過ぎません。それが、現実の社会を生き抜く上での実力とはほど遠いものであるのは言うまでもありません。ただし、そうしてエリートコースを歩んで「内部」の人間になれば、実力はなくても制度によって守られて生きていくことができます。それで、多くの人が国家公務員や特定の資格の必要な職業につきたがるのだと思います。そのためにやることは極めて単純、つまりテストで高得点を取る技術を身につければ良い、だけです。
上の祝辞では、いわば点とりゲームの勝者として選ばれた東大生に、謙虚に自分自身を見直して、より良い人間になってほしいという気持ちが込められていると思います。入学試験で高得点を取るための訓練は、大学などでの「知」を生み出していくための学問とは異なるし、時には有害であると思います(出版ゲームやグラントゲームに勝つことを最大のゴールとしている人々のゴール達成への強いモチベーションは、良くにも悪くにも働くと思います)。
そして祝辞にあるように、一流大学に入学できて一流の環境で学ぶことができる機会を得たことは、実力や才能以前に「幸運」であったからこそです。
教育熱心でお金に余裕がある家庭に五体満足に生まれる、ということがなければ、東大に入るのは難しいでしょう。生まれつき知的障害のある人、耳や目の不自由な人、重い病気を背負った人、そうした人が学問を追求しようとすると多くの困難に遭遇します。人は自分では選べない環境や条件に生まれ、育ち、一生、その制限を受けます。
良い条件で生まれ育ち、良い教育を受けることができて、よい仕事に就くことができた、ということを「幸運」だったと考えられる人は、不運な人を思いやることができるだろうと思います。
生まれる場所、うまれた条件をちょっと間違えれば、いくら頭がよくて努力家であっても、マリオ カッペッキのように路上生活を送るような子供時代を過ごさざるを得なかったかもしれないです。そう考えれば、人種や性別や民族など、たまたま生まれ持ってきた条件をもとに差別する人々は、自分がそういう環境にうまれていたら、という想像力が圧倒的に欠如しているといえるでしょう。
そう思えば、人生は「運」まかせであり、その大きな制限のなかで成長しようとする努力こそが意味があると思います。それは、「自分の弱さを認め、支え合って生きていく」ことを学ぶことであると私も思います。