早速、動物プロトコールの書き直しを指示されました。本審査前のチェックをする予備審査員からです。こんな単純なプロトコールに20箇所ぐらいネチネチと、本当にこんなどうでもいいことを細かく書くことは必要なのか、と思いつつ、仕方なしに作業開始しましたが、むなしいです。規制は必要とは思いますが、こうなってくると、規制のための規制、形式作りにしか思えません。
結局これだけ細かくやらせるのは、一部の研究者がバカをやったりするので、全員をそのレベルに合わせざるを得ないという事情でしょう。人間というのは、利害が絡めば、ウソもつけばズルもする、恫喝、隠蔽、改ざん、国策逮捕、ヤクザをつかって選挙妨害、なんでもやる、そういう動物ですから、規制する側は性善説に立つわけにはいきません。
ま、文句を言っても事態が改善するわけものなく、坦々と作業をしています。
やりたいテーマもあるので、あと数年は研究を続けるつもりですが、研究環境は悪化する一方で、ウンザリすることも多くなり、なんとなく新しいことを始めるべきなのではないか(一度きりの人生だし)というような気分がしばらく前からあります。
これまで、アカデミアでの基礎的研究を楽しんできましたし、今でも、データを見ていろいろ考えるのは楽しいですが、べつにこの世界にこだわる必要はないのではと思い始めました。アカデミアだから自由だとは言えません。だんだんと世知辛くなる一方のアカデミアでそもそも自由な研究というものがすでに難しくなってきており、いまや研究のために資金をえるのではなく、カネのために研究しているという人の方が増え、だんだん、周囲で行われている研究の内容が面白くなくなってきました。企業の下請けのような仕事をやっているのをみていると、カネのためとはいえ、なんとも寂しい気分になります。
そもそも私は根無し草で、特定の分野の専門家というわけではなく、分野と分野の隙間のようなところで細々とやってきたわけで、しがらみもなにもないし、いなくなっても誰も気がつかないぐらいの自由さはすでにあります。続けてもやめても自由です。これまで自由にやらせてもらえて大変、幸運であったと思っていますが、自分の幸運を引け目に感じる必要はないと思っていますし、これからもやりたいことを優先していくつもりです(そのうち、それもできなくなるので)。
しばらく前に研究者をやめた人のブログの記事をみました。若くて意欲があった人が研究環境の悪化で意欲を削がれて志半ばで別の道を選ばざるを得ないような状況に追い込まれるというのは心が痛みます。学問や研究がhumanityの向上の大義に沿ってなされ、それを追求する人には長年にわたる研鑽と訓練が必要なのだから、意欲のある若手研究者が道半ばで研究を離れていくのは、人類にとって大きな損失です。世の中、世知辛くなってくると、humanityの向上というレベルで物事を考える人が減り、自分のことだけしか考えられなくなります。止むを得ないとも言えますが、だからといって、人間は誰でも利己的に自分の利益だけを追求すればよいと開き直るようでは人間とは言えません。
研究、やめました
なかなか踏ん切りがつかず、この年までズルズルと研究業界にしがみついてきましたが、ついにこの春に研究職を離れました。
理由はいろいろあるのですが、やはり年々低下する意欲と厳しくなる経済状況、そしてもうそろそろポジションを得ることが現実的に難しいと判断したからです。
研究者として私の最後の数年は抜け殻のようなものでした。
常に任期更新の有無に気をもみ、公募に落ちるたびに、今こうしてやっている目の前の実験や申請書書きになんの意味があるのか、と自問自答する日々の中、新たな技術や別分野の勉強をする意欲はどんどん失せていきました。ただ、実験をこなす、ただ、データをまとめる。そこに、かつて自分が見出していた知的興奮などはありません。本当に、ただの抜け殻でした。
そんな能力も実績も成長意欲もない人間がいつまでも業界に残れるほど甘い世界ではないことも承知しています。また、そんな人間がなにかの間違いで限られた席を埋めてしまうことは、未来の有望な若者の席を奪うことにもつながりかねません。その判断力が残っているうちに決心しました。
日の当たらない研究生活を這うように続けてきましたが、こうしていざ離れることを決意すると、アカデミアはとても楽しいところでもありました。
。同僚と実験結果について議論し、論文を書き、たとえ小さな一歩でも、人類の知識の上積みに貢献することは、喜び以外の何物でもありませんでした。
いつまでもこの業界に居たかった。
けれど、それはもう過去のことです。
気の毒だなあ、としみじみしてしまいました。ただ、思うに「能力も実績も成長意欲もない人間がいつまでも業界に残れるほど甘い世界ではない」という意見に関しては、私は、そう思う必要は全くないと思います。そもそも能力や実績では研究での発見は予測できないです。それに後世に残る大発見など滅多におこらないわけで、そう考えると99.9%の研究の成果のほとんどが忘れ去られていいきます。しかし、そういう小さな積み重ねがあってあるときブレークスルーが起こるのだろうと思います。そのブレークスルーを起こす人は必ずしも優れた研究者とは限りません。そういう視点でみれば、99.9%の研究者は似たり寄ったりです。ただミクロでみればもちろん差はあります。私の周囲にも、能力と実績と成長意欲に欠ける人間が長い間、研究職でやっている例はありますし、逆に、能力も実績も意欲もあるのに研究職をやめざるを得なくなった例も知っています。
この年まで自分自身を振り返り、周囲の人々を思い返してみると、人の人生を決めているのは「運」だと思うようになりました。振り返ると、私は幸運だったと思います。「あのとき、たまたま、ああいうことが起きたから、助かった」というようなことがあります。それらの出来事は自分でなんとかできるようなものではないので、「運」としか言いようがないのです。逆の場合もあると思います。優秀で、大きな仕事がNatureに載り、これから面白くなるような研究素材も持っている人が、研究を辞めざるを得なくなった例が身近にあります。理由はいろいろ後付けはできるのですけど、私は、このケースは「運」が悪かったというのがもっとも適切だろうと感じます。
運の正体は分からないし、吉禍は糾える縄とか万事塞翁が馬ということわざもあります。幸運、不運というのも主観的なものですし、「運」は運任せなので、何ができるわけでもありません。しかし、現実はどうこうできなくても、自分を幸運だと信じることで幸せな人になることはできます。
というわけで、私は自分を幸運だと思っていますし、その場ではイヤなことが起こっても、これは一見イヤなことに見えるが、実は私にとってベストのことが起こっているのだという観点から、現実を解釈するようにしています。(現実は一つですからベストと考えるのも最悪と考えるのもどちらも自由なので)
そう思いつつ動物実験プロトコール直しています。
結局これだけ細かくやらせるのは、一部の研究者がバカをやったりするので、全員をそのレベルに合わせざるを得ないという事情でしょう。人間というのは、利害が絡めば、ウソもつけばズルもする、恫喝、隠蔽、改ざん、国策逮捕、ヤクザをつかって選挙妨害、なんでもやる、そういう動物ですから、規制する側は性善説に立つわけにはいきません。
ま、文句を言っても事態が改善するわけものなく、坦々と作業をしています。
やりたいテーマもあるので、あと数年は研究を続けるつもりですが、研究環境は悪化する一方で、ウンザリすることも多くなり、なんとなく新しいことを始めるべきなのではないか(一度きりの人生だし)というような気分がしばらく前からあります。
これまで、アカデミアでの基礎的研究を楽しんできましたし、今でも、データを見ていろいろ考えるのは楽しいですが、べつにこの世界にこだわる必要はないのではと思い始めました。アカデミアだから自由だとは言えません。だんだんと世知辛くなる一方のアカデミアでそもそも自由な研究というものがすでに難しくなってきており、いまや研究のために資金をえるのではなく、カネのために研究しているという人の方が増え、だんだん、周囲で行われている研究の内容が面白くなくなってきました。企業の下請けのような仕事をやっているのをみていると、カネのためとはいえ、なんとも寂しい気分になります。
そもそも私は根無し草で、特定の分野の専門家というわけではなく、分野と分野の隙間のようなところで細々とやってきたわけで、しがらみもなにもないし、いなくなっても誰も気がつかないぐらいの自由さはすでにあります。続けてもやめても自由です。これまで自由にやらせてもらえて大変、幸運であったと思っていますが、自分の幸運を引け目に感じる必要はないと思っていますし、これからもやりたいことを優先していくつもりです(そのうち、それもできなくなるので)。
しばらく前に研究者をやめた人のブログの記事をみました。若くて意欲があった人が研究環境の悪化で意欲を削がれて志半ばで別の道を選ばざるを得ないような状況に追い込まれるというのは心が痛みます。学問や研究がhumanityの向上の大義に沿ってなされ、それを追求する人には長年にわたる研鑽と訓練が必要なのだから、意欲のある若手研究者が道半ばで研究を離れていくのは、人類にとって大きな損失です。世の中、世知辛くなってくると、humanityの向上というレベルで物事を考える人が減り、自分のことだけしか考えられなくなります。止むを得ないとも言えますが、だからといって、人間は誰でも利己的に自分の利益だけを追求すればよいと開き直るようでは人間とは言えません。
研究、やめました
なかなか踏ん切りがつかず、この年までズルズルと研究業界にしがみついてきましたが、ついにこの春に研究職を離れました。
理由はいろいろあるのですが、やはり年々低下する意欲と厳しくなる経済状況、そしてもうそろそろポジションを得ることが現実的に難しいと判断したからです。
研究者として私の最後の数年は抜け殻のようなものでした。
常に任期更新の有無に気をもみ、公募に落ちるたびに、今こうしてやっている目の前の実験や申請書書きになんの意味があるのか、と自問自答する日々の中、新たな技術や別分野の勉強をする意欲はどんどん失せていきました。ただ、実験をこなす、ただ、データをまとめる。そこに、かつて自分が見出していた知的興奮などはありません。本当に、ただの抜け殻でした。
そんな能力も実績も成長意欲もない人間がいつまでも業界に残れるほど甘い世界ではないことも承知しています。また、そんな人間がなにかの間違いで限られた席を埋めてしまうことは、未来の有望な若者の席を奪うことにもつながりかねません。その判断力が残っているうちに決心しました。
日の当たらない研究生活を這うように続けてきましたが、こうしていざ離れることを決意すると、アカデミアはとても楽しいところでもありました。
。同僚と実験結果について議論し、論文を書き、たとえ小さな一歩でも、人類の知識の上積みに貢献することは、喜び以外の何物でもありませんでした。
いつまでもこの業界に居たかった。
けれど、それはもう過去のことです。
気の毒だなあ、としみじみしてしまいました。ただ、思うに「能力も実績も成長意欲もない人間がいつまでも業界に残れるほど甘い世界ではない」という意見に関しては、私は、そう思う必要は全くないと思います。そもそも能力や実績では研究での発見は予測できないです。それに後世に残る大発見など滅多におこらないわけで、そう考えると99.9%の研究の成果のほとんどが忘れ去られていいきます。しかし、そういう小さな積み重ねがあってあるときブレークスルーが起こるのだろうと思います。そのブレークスルーを起こす人は必ずしも優れた研究者とは限りません。そういう視点でみれば、99.9%の研究者は似たり寄ったりです。ただミクロでみればもちろん差はあります。私の周囲にも、能力と実績と成長意欲に欠ける人間が長い間、研究職でやっている例はありますし、逆に、能力も実績も意欲もあるのに研究職をやめざるを得なくなった例も知っています。
この年まで自分自身を振り返り、周囲の人々を思い返してみると、人の人生を決めているのは「運」だと思うようになりました。振り返ると、私は幸運だったと思います。「あのとき、たまたま、ああいうことが起きたから、助かった」というようなことがあります。それらの出来事は自分でなんとかできるようなものではないので、「運」としか言いようがないのです。逆の場合もあると思います。優秀で、大きな仕事がNatureに載り、これから面白くなるような研究素材も持っている人が、研究を辞めざるを得なくなった例が身近にあります。理由はいろいろ後付けはできるのですけど、私は、このケースは「運」が悪かったというのがもっとも適切だろうと感じます。
運の正体は分からないし、吉禍は糾える縄とか万事塞翁が馬ということわざもあります。幸運、不運というのも主観的なものですし、「運」は運任せなので、何ができるわけでもありません。しかし、現実はどうこうできなくても、自分を幸運だと信じることで幸せな人になることはできます。
というわけで、私は自分を幸運だと思っていますし、その場ではイヤなことが起こっても、これは一見イヤなことに見えるが、実は私にとってベストのことが起こっているのだという観点から、現実を解釈するようにしています。(現実は一つですからベストと考えるのも最悪と考えるのもどちらも自由なので)
そう思いつつ動物実験プロトコール直しています。