tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

今年は、竹内街道・横大路1400年!(2013Topic)

2013年01月03日 | お知らせ
2013年は、日本最古の官道である大道(おおじ=竹内街道と横大路)ができて1400年の節目の年を迎える。竹内街道とはどんな道か。Wikipedia「竹内街道」によると
※写真は長尾神社前で2012.12.14 撮影

竹内街道(たけのうちかいどう)は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26kmの街道である。羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されている。

竹内街道は日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」。現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路につながっている。かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断するのでその名が付いたと推定されている。天武天皇元年7月1日(672年7月30日)の条に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみえ、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定されている。

この道は、古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を直線道路として東西に延長すれば誉田山古墳南端の後円部に、大山古墳の南東端部の前方部に接して通っていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られていることが分かる。

官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、すでにかなりの人々の往来があったと思われる。飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。

中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる。近世には起点を堺大道筋(紀州街道)交点とした。江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。

ここは、「孝女伊麻のふるさと葛城」に登場したお伊麻さんの生誕地にも近い。次に横大路(よこおおじ)である。Wikipedia「横大路」によると、

通常「横大路」と呼ばれる道は、桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで東西にほぼまっすぐに設置された道である。難波京と飛鳥京を結ぶ官道のひとつとして整備された。 別名として、伊勢街道(伊勢本街道)とも呼ばれる。現在の国道166号線の一部区間そのもの、および国道に平行している。 東側では伊勢国への伊勢街道および初瀬街道に、西側では和泉国に至る竹内街道および長尾街道に接続する。

神武天皇が墨坂の神に赤楯矛を、大坂(都市の大坂ではなく、二上山の北の峠)の神に黒楯矛を奉ったのは、両地を結ぶ横大路が初期大和朝廷にとって重要であったことを示しているとされる。都が飛鳥、藤原京にあった時代には多くの外交使節も利用した。江戸時代には伊勢神宮へのお蔭参りの参道として賑わった。

横大路は、東から、上ツ道(上街道)、太子道(筋違道)、中ツ道、下ツ道(中街道)、下街道等と交差する。太子道以外は奈良盆地を南北に貫いている。川も、東から大和川、寺川、米川、飛鳥川、曽我川、葛城川、高田川、葛下川等をまたぐ。横大路から北は、川の流路が整う様に見えることから、また、下ツ道と下街道の間が離れていることから、古代には、奈良盆地の真中に、湖ないしは池の様な湿地帯があったのではないかと推測されている。


読売新聞(2012.9.19付)「竹内街道・横大路、来年1400年 サミット開催へ」によると

大阪・難波から奈良・飛鳥を東西に結んだ日本最古の官道「竹内(たけのうち)街道・横大路」が来年、整備されてから1400年を迎えるのを前に18日、大阪府太子町や堺市、葛城市など街道沿いの自治体首長ら11人が同町役場で、「1400年首長サミット」の準備会を開いた。

竹内街道・横大路は、日本書紀の613年に「難波(大坂)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」とあり、2013年に節目を迎える。準備会では、実行委員会長に浅野克己・同町長、副会長に山下和弥・葛城市長を選出。浅野町長が「各自治体が一体的な取り組みを進め、節目を契機に元気なまちにしよう」とあいさつした。

来年中に同サミットを開き、約2週間で集中的にイベントを行い、継続的な活動にする。一帯に点在する博物館が連携するほか、行政や大学、会社、地域が協力して街道を歩くウオーキング、ワインや菓子など「竹内ブランド」の商品を開発する。参加者からは「街道を自転車で往復しては」「共通のロゴを作ってPRを」などの意見が出た。今後、イベントの開催時期や内容などを詰める。


ウォーキングや菓子程度では経済効果もたかがしれているので、バスツアーとか、沿道の名物を使った美味しい食事なども企画してほしいものである。葛城市さん、頑張って!

「竹内街道」は、司馬遼太郎の『街道をゆく』の全43巻中の第1巻に登場する。冒頭の「湖西(こせい)のみち」の次が竹内街道である。司馬の母親の実家が竹内(奈良県葛城市竹内)にあった。『街道をゆく(1)』によると

私は幼年期や少年期には、竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする。そこが母親の実家だったからだが、母親が脚気であったためその隣り村の今市という村の仲川という家で乳をのませてもらっていたから、竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである。

村のなかを、車1台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変わらず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。それが、竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾―竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。

まったくのびやかな村で、いま生きていれば65、6ほどになる私の叔父が、昭和初年に陸軍少尉になって村にかえってきたとき、村の物知りが、「わが竹内から位階勲等がついた者が出たのは武内宿禰(たけのうちのすくね)以来、あなたが2番目である」といったとかいうぐあいな、まあ醇朴といえばそうともいえる村である。武内宿禰とは「記紀」に登場する伝承上の人物で、『日本書紀』のかぞえ方でいえば紀元1世紀にはすでに存在し、244年にわたって王朝につかえたという人間ばなれのした長寿の人物である。


武内宿禰に壬申の乱(天武・持統天皇、大友皇子)、松尾芭蕉、お伊麻さんに司馬遼太郎と、ゆかりの人物は揃っている。平城遷都から100年近くさかのぼる「竹内街道・横大路1400年」、地元には大いに盛り上げてていただくことを
期待したい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする