逆説の日本史 (3) (小学館文庫) | |
井沢元彦 | |
小学館 |
奈良まほろばソムリエ友の会では、今月から、有志による万葉集の勉強会「大和の万葉歌~風土と共に」をスタートさせた。講師は富田敏子(とみた・さとこ)さんである。富田さんは、全国万葉協会会長、万葉の大和路を歩く会代表で、帝塚山大学時代に犬養孝氏から直接教えを受けられた方である。第1回勉強会(1/16)の様子は、すでに雑賀耕三郎さんが「万葉集を学ぶ」として、ご自身のブログにアップされた。
私はこの勉強会を契機に、以前読んだ井沢元彦著『逆説の日本史(3)古代言霊編』の第3章「『万葉集』と言霊編―誰が何の目的で編纂したのか」を読み返した。この章だけで140ページ、普通の文庫本1冊ほどのボリュームである。目次の一部を紹介すると、
本名と通称を使い分けさせた“名前のタブー”
「原万葉集」に犯罪者の歌が掲載された謎
「正史」に記載されなかった『万葉集』の成立事情
『古今和歌集』に記された“成立時期”を否定する不合理
なぜ柿本人麻呂は「歌聖」となったのか
柿本人麻呂の死を詠んだ「鴨山五首」は虚構か
有間皇子、柿本人麻呂が「自傷歌」を詠んだ謎
柿本人麻呂「水死刑」説の根拠
紀貫之が『古今集』序文に記した不可解な一文
「仮名序」と「真名序」は日本のロゼッタストーン
外国製フィルターで日本史を見る“病気”
おおっと目を見張るような見出しがずらりと並んでいる。しかし、この本は決して「トンデモ本」ではない。梅原猛氏の説などを援用しながら万葉集成立の謎に迫る、サスペンスあふれる本なのである。井沢氏の常として、話があちこちに飛ぶので論旨をつかむのが難しい。そこで私が要約して紹介しようと思うが、まずその前提として、「言霊」に関する井沢説を頭に入れておいてほしい。その部分と、この章のさわりの部分をブログ「ハナゴロウ☆毎日テクテク1万歩!」から引用させていただく。
第3章『万葉集』と言霊編―誰が何の目的で編纂したのか
このシリーズの中のこれまでで、一番興味のある項目です。なぜならば、言霊は今の時代でも厳然として生きており、日本人は多かれ少なかれその影響を与え続けていると考えられるからです。さらに、日本の古代の文書が万葉集として残っていたことが日本の文化に大きく貢献しているからと思えるからです。
現在まで影響を与え続けているものに「言霊(ことだま)」があります。不思議なことに、日本文化の底流に流れる「言霊」の影響を日本人が自覚していないことです。柿本人麻呂の「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞ吾がする …」と詠われる詩はことに有名です。
言霊とは、言葉に霊力があるという考え方です。発言したことと起こった事実に因果関係があると認める考え方です。言えば実現するとは、発言者はそのことが実現することを望んでいると受け取られるからです。言霊が通用する考え方により、発言の自由が侵されることになると警鐘を鳴らしています。良く考えてみる必要があると考えます。
1978年の自衛隊統幕議長来栖弘臣氏の「奇襲攻撃を受けたら自衛隊は超法規的に行動せざるを得ない」と発言したことによって、有事立法の必要性が問題提起がなされたことを例証にあげています。加えて、言葉狩りの弊害を挙げており、言霊の弊害と発言の自由の危険性を説明しています。
万葉集は、欽明天皇時代(629~41)から淳仁天皇の天平宝字まで約130年の長歌・短歌・旋頭歌・仏足石歌など4千5千首余りを収録する歌集です。筆者は、万葉集は詞華集としてなぜこんな膨大な歌集が編まれたのか、疑問を提起します。「奈良の大仏」と同じで、実に不思議なことであるとしています。万葉集以後、古今集はじめ21の和歌集は、勅撰集即ち天皇の命令で作られています。
万葉集は、文化的価値のある資料です。万葉仮名として漢字の音を使って日本語を表し、日本文化を伝えるかな文字を生み出した素晴らしい日本の知恵の出発を今に伝える文化遺産といって言っても過言ではありません。それでは、この貴重な文化遺産である「万葉集」は誰によって作られたのでしょうか。
巻1、巻2は、原万葉集と呼ばれ早い時代に成立しており、それを元にして現在の20巻の本の形で編集完成させたのが大伴家持であるとする説が有力です。では、完成して、世に出たのはいつか? この推測がまた興味深く解説されており、大伴家持の死後、罪が回復されてからとされています。桓武天皇の死(806年)以降としています。十分な説得力があります。古今和歌集に紀貫之の書いた序文にもそのヒントが示されていること、梅原猛によっても示されています。
水底の歌―柿本人麿論 (上) (新潮文庫) | |
梅原猛 | |
新潮社 |
では以下、第3章「『万葉集』と言霊編―誰が何の目的で編纂したのか」から引用しつつ紹介する。140ページから要所をすべて引用するので相当長くなる、悪しからず。
■本名と通称を使い分けさせた“名前のタブー”
『万葉集』をされも最も早く成立した原万葉集ともいうべき巻1・巻2の目次を見て頂きたい。とんでもないことに気づくはずである。巻1には長屋王、巻2には大津皇子、有間皇子ら悲運の最期を遂げた人々の歌が収められている。
確かに全体の量から見れば、ほんの一部分と言えるかもしれない。しかし、仮に一首だけだったとしても、コトダマの世界ではこういうものは決して載せてはいけないのだ。ましてや人の詠じた歌というのは、コトダマの世界では、その人そのものである。また長屋王、大津皇子、有間皇子は、無実の罪を着せられ死に追いやられ憤死した人々ではないか。
無実といっても、その罪は公式に取り消されたのではない。だからあくまでも彼等は「犯罪者」である。「犯罪者」で「化けて出そうな」人々の歌を歌集に載せること、こんなことが世界の常識で有り得るかどうか。これでは「反政府歌集」だ。だが、『万葉集』は連綿と語り継がれてきているのだ。しかも次の時代に天皇の命令で作られた『古今和歌集』は『万葉集』を継ぐ歌集であることを宣言している。「反政府詩集」をどうして国家が公認するのか。
■「原万葉集」に犯罪者の歌が掲載された謎
「敗者」オオクニヌシの神殿つまり出雲大社が今に残されていることと、「犯罪者」の皇子たちの歌すなわち『万葉集』が今に残されていること――これが実は同じ原理に基づくことだ。
『万葉集』のそもそもの編者は誰かは不明である。しかし、それを現在の20巻きの形式に最終的にまとめ上げたのは大伴家持である可能性が高い。
家持は、桓武天皇の皇太子早良(さわら)親王の春宮大夫(とうぐうのだいぶ)であった。桓武が、「無実の罪」で死に追いやり、その怨霊に散々悩まされたあの早良である。
家持は、「早良皇太子反逆事件」の首謀者の1人として、桓武によって早良と共に「極刑」に処せられている。
■「正史」に記載されなかった『万葉集』の成立事情
だが、家持は幸運(?)にも、当時兼任していた「陸奥按察使(むつあぜち)」の任を果たすため東北の地にあり、しかも種継暗殺のほぼ1か月前に任地で病死していた。
巻1・巻2には、長屋王、有間皇子、大津皇子など「国家的犯罪者」の歌が載せられている。特に問題なのは大津皇子だ。大津は、持統によって無実の罪を着せられ処刑されたのである。その持統の命令によって作られた歌集に、編纂を命ぜられた撰者が大津の歌を採るはずがないではないか。長屋王についても同様だ。長屋王は持統王朝ではやはり「犯罪者」なのである。
だから『万葉集』は、仮に巻1・巻2の部分が飛鳥・奈良時代に完成していたとしても、あくまでそれは私的に秘密裡に作られたものであって、世に出ることはなかったと考えられるのである。ところが天武・持統王朝は奈良の都をもって終わった。天智系が復活したのである。これ以後、つまり光仁即位(770)以降なら、こういう歌集も公表は可能だ。
このあたりは完全な推測だが、おそらく「原万葉集」にあたるものは、当時著名な歌人でもあった家持の手に入り、家持はこれに自分や一族の歌、さらに地方で採集した歌などを加えて、一大歌集として完成させたのではないか。
そういう歌集が、いつ世に出たか。これについて確実に言えることが1つある。それは桓武の死つまり806年以降でなければならないということだ。なぜそんなことが言えるか。この年まで、家持は「犯罪者」だったからである。
『万葉集』はその成立から見て、「犯罪者」の私家版だったのである。だからこそ成立の事情は正史に載せられていないのだ。
■『古今和歌集』に記された“成立時期”を否定する不合理
「原万葉集」の全体の4割はこの人麻呂の歌もそうだが、「挽歌(ばんか)」すなわち「人の死を悲しむ歌」なのだ。
こういう死者たちの、あるいは死を悲しむ人々の歌を載せる目的は、1つしかない。死者の鎮魂である。
「鎮魂」とは古代では「長寿を祈る呪術」のことだから、「鎮魂歌集」が「万歳を言祝(ことほ)ぐ歌集」であってもかまわない。すなわち「鎮魂」と「天皇賛歌」は相反するものではない。
■有間皇子、柿本人麻呂が「自傷歌」を詠んだ謎
有間皇子は処刑された。有間は自らの運命を悲しんで死の直前「自傷歌」を作った。これが事実なら、柿本人麻呂も処刑された。だから「自傷歌」を作ったのだ、と考える方がはるかに妥当だと思う。
水底の歌―柿本人麿論 (下) (新潮文庫) | |
梅原猛 | |
新潮社 |
※tetsuda注 これから登場する「鴨山(かもやま)五首」とは、以下の歌のことである(223が「自傷歌」)。従来、万葉学者の間からは「鴨山五首虚構説」が出されている。しかし梅原猛氏はそれを否定し、これらの歌をもとに「人麻呂水死刑説」を提起した(『水底の歌』)。井沢元彦も基本的に梅原説を支持している。
柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の 岩根しまける 我れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ<鴨山の 岩を枕に伏している 私なのに 知らずに妻は 待っていることであろうか><いつもなら妻を抱いて寝ているはずなのに鴨山で岩を抱いて寝ている私のことを知らずに妻は待っているのだろう>
柿本朝臣人麻呂が死にし時に、妻依羅娘子が作る歌二首
224 今日今日と わが待つ君は 石川の 貝(一に云ふ、「谷に」)に 交じりて ありといはずやも<今日か今日かと私が待ち焦がれているお方は、石川の貝に(谷に)混じっているというではないか>
225 直に逢はば 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つ偲はむ
<直に逢うのは とてもできないだろう 石川に 雲よ立ちわたれ せめて眺めてあの方を偲ぼう>
丹比真人 名欠けたり、柿本朝臣人麻呂が心に擬して、報ふる歌一首
226 荒波に 寄り来る玉を 枕に置き 我ここにありと 誰か告げけむ
<荒波に打ち寄せられて来る玉を 枕に置き わたしがここに伏せっていると 誰が知らせてくれたのであろうか>
ある本の歌に曰く(作者未詳)
227 天(あま)ざかる鄙(ひな)の荒野(あらの)に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし(②227)
<田舎の寂しい野の中に君を残して来てしまい、恋い焦れているうちは生きる気力も起こらない>
■柿本人麻呂「水死刑」説の根拠
「刑死説」(梅原説)の大きな弱点の1つに、当時の律(刑法)では、死刑の方法に「絞(こう)」(絞首刑)と「斬(ざん)」(斬首刑)しか無く、梅原氏の主張するような水死刑(水に落とし溺死させる)が無い、という点である。だが、この点は次のように考えればいいのではないか。
人麻呂は死して後、その遺体が海(あるいは河口に近い川)に放り込まれたのだ、と。こう考えれば、「鴨山五首」にある「石川の貝に交じりて」という言葉も「荒波に寄り来る玉を枕に置き」という言葉も、すべて不可解ではなくなる。遺体が川から海に流され、浜辺に打ち上げられたと考えれば、この状況は決して不可能でもない。そして、人麻呂は鴨山で死んだはずなのに、なぜ遺体が「水底」にあるのか、という謎も明らかになる。
ところで人麻呂が単なる歌の名人ではなく、怨霊だったということは、『古今集』の「仮名序」と「真名序」の比較によっても証明できる。
■紀貫之が『古今集』序文に記した不可解な一文
「人麻呂が歌聖とされるのは、決して作歌が優れていただけではない。非業の死を遂げたからである」
何もこれは私の発見ではない。既に民俗学の大先達柳田国男が示唆している。そして、この「柳田の法則」を当てはめれば、勝者の神アマテラスよりも敗者の神オオクニヌシの方が「大きな神殿」に祀られていることも、平安京を築いた大政治家桓武天皇よりも、その弟で「憤死」した早良皇太子の方が、「崇道(すどう)天皇」として礼拝の対象になっていることも説明できる。
人麻呂も、まぎれもなく天才であり、優れた歌をいくつも残したことは事実だ。しし、私が主張していることは、日本において「歌聖」になるためには、それだけではダメで、必ず「非業の死」つまり「怨霊化するかもしれない不幸な死に様」を遂げなければならないということだ。そういう死に方をした人間が怨霊になることを恐れるあまりに、それを「聖」として「祀り上げる」ということなのである。
「仮名序」において筆者つまり紀貫之は「人麻呂は歌聖だ」と述べている。そして、それに続く部分で「人麻呂と赤人(の歌の技量は)甲乙つけがたい」とも言っている。では聞こう。なぜ歌の技量は同じなのに、人麻呂は「聖」であって赤人は「人」に過ぎないのか。
これは、「歌聖」になるための条件が「歌の技量」以外にあるという、何よりの証拠ではないのか。もし、私の主張に反対なら、なぜ赤人は「歌聖」になれないのか。つまり貫之が赤人を認めない理由を、別な形で証明して頂かねばなるまい。
■外国製フィルターで日本史を見る“病気”
日本人は科学というと、すぐ宗教と対立するものだと考えがちだが、キリスト教社会ではしばしばそうではない。「協調」もある。そして、こういう中から、ちょうど数学で厳密に数式を書くように、歴史で厳正に記録(史料)を書く、という態度が生まれてくる。これは神の「照覧(しょうらん)」の下に、事実を記録していくべきだ、という考えでもある。古代中国人が歴史において真実の記録を尊重していたのとは別の思想だが、西洋人にもそれに似たものがあるということだ。
では、日本にはそういう伝統があるか?実は、まったくないのである。歴史そのものを尊重するという態度も、実はあまりない。なぜならば過去の、特に失敗例をケガレと考え「水に流し」て新たにやり直そう、というのが日本人の性向だからだ。まして、その歴史において、真実を記録するということに、われわれは決して重きを置かない民族なのである。
猿丸幻視行 (講談社文庫) | |
井沢元彦し | |
講談社 |
いかがだろう。言霊や怨霊という観点から万葉集を見るとこんな具合に、見えなかったものが見えてくるのである。私も以前から「なぜ万葉集には、あんなにたくさんの挽歌が載っているのだろう」と不思議に思っていたが、これでスッキリ理解できたし、学生時代に愛読した梅原猛著『水底の歌』が評価されていて安心した(依然、学会からは評価されていないが)。「鴨山五首虚構説」は、どう考えても乱暴な話だ。
井沢は梅原説をもとにデビュー作『猿丸幻視行』を書き、第26回江戸川乱歩賞を受賞した。だから、人麻呂には相当思い入れが強いのである。今回の記事を読んで興味を持たれた方は、『水底の歌』や『猿丸幻視行』もお薦めしたい。