tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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神武天皇ゆかりの厳瓮(いつべ)最中(産経新聞「なら再発見」第31回)

2013年06月02日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかで好評連載中の「なら再発見」、第31回の昨日(6/1)のタイトルは「記紀・万葉プロジェクト 神武東遷伝承を今に伝える」で、私が執筆した。実はこの記事は半年以上前に仕上げていたのだが、何度書き直しても、やさしく書けなかった。そのまま「マイドキュメント」に埋もれていたのだが、今月、「古社寺を歩こう会」で東吉野村を訪ねることになって、この原稿のことを思いだした。

私は「なら再発見」の原稿チェック役の1人なので、これまで約30本の原稿に手を入れてきた。「慣れてきたので、そろそろやさしく書き直せるかも知れないな」と思い、手を入れて提出したのが今回の話である。『日本書紀』に出てくる厳瓮(いつべ)と、厳瓮をかたどった最中(もなか)のことを書いている。全文を掲載するので、ぜひ最後までお読みいただきたい。



昨年は古事記が完成してから1300年目の年だった。平成32年は日本書紀完成1300年。記紀が編纂(へんさん)され、多くの万葉歌が詠まれた奈良では、この9年の間に「記紀万葉プロジェクト」というキャンペーンが展開される。
 今年に入ってからも、古事記に登場する県内のゆかりの地63ヵ所を紹介したガイドブック「なら記紀・万葉名所図会―古事記・旅編」が発行された。
 記紀には、神武天皇(神日本磐余彦尊[かむやまといわれひこのみこと])が九州の日向から大和に攻のぼる「神武東遷」伝承が登場する。神武天皇は天照大神の6代目の子孫だ。
 東の方に青山が四周をめぐらした美しい場所がある。国の中心に位置しているそうなので、そこへ行って天下に君臨しようではないか、という壮大な計画である。
 神武天皇は地元の豪族に苦しめられ、兄を失いながらも国を平定し、橿原の地で初代天皇の位についた。
 この神武東遷を顕彰するため、全国19カ所に「神武天皇聖蹟顕彰碑」が建てられた。これは皇紀2600年(昭和15年)奉祝事業として、文部省(当時)の肝いりで建てられ、なかでも県内には最多の7カ所に碑がある。
 市町村別では、東吉野村(1カ所)▽宇陀市(2カ所)▽桜井市(3カ所)▽生駒市(1カ所)―となる。



 丹生川上顕彰碑は、東吉野村小(おむら)の丹生(にう)川上神社の近くにある。この碑には神武天皇がお神酒(みき)の器を作って天神地祇(ちぎ)を祭り、勝利を祈願したと刻まれている。その器は「厳瓮(いつべ)」と呼ばれ、お神酒を盛るなど、もっぱら祭祀(さいし)に用いる器だ。
 日本書紀(巻三)によると、熊野から軍を率いて北上した神日本磐余彦尊は、ここで厳瓮を使った祈(うけい)をした。
 祈とは戦勝祈願の占いのこと。厳瓮を川に沈める。大小の魚が酔って流れれば国を平定できる。そうでなければ事は成し遂げられない、というものだ。
 果たして厳瓮を川に沈めると、厳瓮の口は下を向き、しばらくすると魚は皆浮き上がって、口をパクパク開いた。これで尊は成功を確信したそうだ。
 占いに登場した魚はアユで、この故事にちなんで「鮎」と書かれるようになったという。
 神社を訪ね、厳瓮のレプリカを拝見した。優雅な丸みをもつ土器で、酒なら3合ほどは入りそうだ。
 帰り道、同村小川の老舗御菓子店「西善(にしぜん)」で「いつべ最中(もなか)」を見つけた。厳瓮をかたどった小ぶりの最中だ。甘さを抑えた粒あんがたっぷり入っている。記紀万葉プロジェクトにちなんで急ごしらえしたものではなく、以前からの人気商品なのだそうだ。いっそのこと、アユをかたどった菓子とセットにして出せば話題を呼びそうだ。
 今年は皇紀2673年。おいしい最中を味わいながら、太古の伝承に思いをはせるのも良い。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会専務理事 鉄田憲男)



写真は、西善さんのホームページから拝借

「tetsudaさんが書く『なら再発見』には、いつも食べ物が出てきますね」と言われるとおり、今回も最中が出てきた。先日、古社寺を歩こう会の下見でお邪魔したときは、西善さんの「杣づと」(945円)という栗羊羹をいただいた。さすがは看板商品、地栗の入った上品な甘さの羊羹だ。あー、また食べたくなった。

東吉野村は「記紀・万葉プロジェクト」だけでなく、今年は「天誅組決起150年」で沸いている。皆さん、ぜひ東吉野村をお訪ねください!

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