産経新聞奈良版・三重版などに好評連載中の「なら再発見」、今朝(6/15)のタイトルは「暗越(くらがりごえ)奈良街道 難波(なにわ)と大和を結ぶ古代の道」。執筆されたのはNPO法人奈良まほろばソムリエの会・理事長の小北博孝さんである。小北理事長は東大阪市にお住まいなので、まさに「地元ネタ」である。以下、全文を紹介する。
※写真は、小北理事長が撮影されたもの
暗峠(くらがりとうげ)は、奈良と大阪を結ぶ国道308号「暗越(くらがりごえ)奈良街道」の最高所(標高455メートル)、生駒山頂から南に下った鞍部(あんぶ)にある。生駒市西畑町と東大阪市東豊浦町との境にあり、信貴生駒山系の縦走コースと交わる。
起源は古く、今から約1300年前の奈良時代、難波(なにわ)と奈良の都を最短距離で結ぶ道として設置されたことに始まる。
古代から難波と大和を結ぶ道は、盆地の西に立ちはだかる生駒・葛城の山々を越えなければならないため、竹ノ内越や竜田越など「○○越」と呼ばれてきた。
暗越奈良街道は生駒山を越えて最短距離で難波に通じる道として整備され、「直越(ただごえ)」とも呼ばれた。まっすぐ山道を登って峠を越える直越は、険しいが一番の近道になる。
奈良時代には遣唐使一行や西国へ赴任する官人がこの直越を通り難波津から出立し、また鑑真和上はこの道を通って平城京に入ったともいわれる。
「直越えのこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも」(万葉集巻6-977)は遣唐使に随行した官人の歌で、直越から照り返す難波の海を見たときの想いを詠んだものだ。
また江戸時代の国学者・本居宣長の「古事記伝」にも、暗峠を「この道は近いから直越という」と記されている。
* * *
暗峠は江戸時代には大阪から奈良・伊勢方面への往来でにぎわい,数軒の宿屋と茶屋があったが、明治中期から大正初期にかけての鉄道の開通以後、急速にさびれた。
峠の路面には江戸時代に郡山藩が敷設した石畳が残り、「日本の道100選」にも選ばれている。
「暗がり」の名は樹木がうっそうと繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」「鞍換え」が訛って「暗がり」となったという説もある。
元禄7(1694)年9月9日、松尾芭蕉が大坂へ向かう途中、この峠を通った。このとき「菊の香にくらがり登る節句かな」という重陽の節句(9月9日)にちなんだ句が詠まれた。
暗越奈良街道は、生駒山麓からほぼ真西にまっすぐ峠を越え、東大阪市に下る。しかし国道とは名ばかりで、急坂の上峠付近では道幅2メートル以下のところもあり、「酷道」(こくどう)と呼ばれている。
それだけに車の通行が少なく、今も古道の風情を残し、峠付近には旧跡も数多く点在する。
* * *
周辺を歩くと青葉がまぶしく光る。峠付近の西畑町には、以前から街道沿いに石垣積みの棚田や段々畑が耕作されており、「西畑の棚田」として知られてきた。しかし近年は農家の高齢化と後継者不足で、休耕田が増えてきたようだ。
この素晴らしい景観を後世に残そうと約10年前から、有志が下草刈りや田畑の手入れなどのボランティア活動を続けきた。おかげで今も美しい棚田の風景を見ることができる。有難いことだ。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事長 小北博孝)
暗峠の写真は、最初は高いアングルからの写真だったので、「ローアングルで撮り直していただけませんか」とお願いして、わざわざ撮り直していただいた。お手間をかけてしまったが、これでグンと良くなった。国土交通省近畿地方整備局のサイト「日本の道100選」によると、奈良県からは
65 暗越奈良街道(生駒市)
・平城京の道。生駒山地を越え、難波と平城京を最短距離で結ぶ歴史のある道。
66 県道畝傍御陵前停車場四条線・橿原神宮公苑線(橿原市)
・畝傍山山麓の市民の憩いの場。国家的事業として、昭和15年、全国120万人の奉仕員の人々によって建設された。
の2つの道が選ばれている。ちなみに京都府や大阪府からは以下の道が選ばれていて、これには納得する。
57 哲学の道(京都市左京区)
・東山山麓を若王子橋から銀閣寺橋まで琵琶湖疎水沿いに続く約1.5kmの道。
58 天橋立線(宮津市)
・名勝天橋立の道。日本三景の一つ天橋立を走る道。周囲の景観と調和を保つため砂利道にしてある。
59 御堂筋(大阪市)
・緑と散策の大通り。幅員44m、4列に並ぶ銀杏。昭和初期に完成された近代大阪の記念碑的存在である。
60 フェニックス通り(堺市)
・大浜北町から翁橋町までの約1.7km。名称は中央分離帯に植栽されたフェニックスに由来する。
61 富田林寺内町(富田林市)
・近世の自治都市。富田林市の寺内町は近世の町割をほぼそのまま残している。
なおトリビアであるが、国交省が選定した「100選」は、実は「104つ」選ばれている。雑学の館によると
「日本の道100選」は昭和61年(1986年)8月10日の「道の日」制定を記念して「道路に対する国民の関心と愛護の精神を高める」ことを目的として選定されたもの。国土交通省によると、当初各都道府県から2つの道を選ぶことは決まっていたが、これでは47都道府県から選ぶと94個で届かないことに気づき、どこかの都道府県から3つ以上選ばなければなりませんでした。しかし、どの道も素晴らしく100個に絞れなかったため、最終的に104個選ばれることになりました。
「どうせなら、108つ(煩悩の数)選んでおけば良かったのに」とツッコミを入れたいところであるが、20年近く前のことなので、これはまぁ仕方がない。今年は梅雨だというのに雨が少ないが、雨に濡れた石畳はまた格別の趣がある。いちど、雨上がりにでも訪ねていただきたい。
小北理事長、良いお話を有難うございました!
※写真は、小北理事長が撮影されたもの
暗峠(くらがりとうげ)は、奈良と大阪を結ぶ国道308号「暗越(くらがりごえ)奈良街道」の最高所(標高455メートル)、生駒山頂から南に下った鞍部(あんぶ)にある。生駒市西畑町と東大阪市東豊浦町との境にあり、信貴生駒山系の縦走コースと交わる。
起源は古く、今から約1300年前の奈良時代、難波(なにわ)と奈良の都を最短距離で結ぶ道として設置されたことに始まる。
古代から難波と大和を結ぶ道は、盆地の西に立ちはだかる生駒・葛城の山々を越えなければならないため、竹ノ内越や竜田越など「○○越」と呼ばれてきた。
暗越奈良街道は生駒山を越えて最短距離で難波に通じる道として整備され、「直越(ただごえ)」とも呼ばれた。まっすぐ山道を登って峠を越える直越は、険しいが一番の近道になる。
奈良時代には遣唐使一行や西国へ赴任する官人がこの直越を通り難波津から出立し、また鑑真和上はこの道を通って平城京に入ったともいわれる。
「直越えのこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも」(万葉集巻6-977)は遣唐使に随行した官人の歌で、直越から照り返す難波の海を見たときの想いを詠んだものだ。
また江戸時代の国学者・本居宣長の「古事記伝」にも、暗峠を「この道は近いから直越という」と記されている。
* * *
暗峠は江戸時代には大阪から奈良・伊勢方面への往来でにぎわい,数軒の宿屋と茶屋があったが、明治中期から大正初期にかけての鉄道の開通以後、急速にさびれた。
峠の路面には江戸時代に郡山藩が敷設した石畳が残り、「日本の道100選」にも選ばれている。
「暗がり」の名は樹木がうっそうと繁り、昼間も暗い山越えの道であったことに由来している。 また、「鞍借り」「鞍換え」が訛って「暗がり」となったという説もある。
元禄7(1694)年9月9日、松尾芭蕉が大坂へ向かう途中、この峠を通った。このとき「菊の香にくらがり登る節句かな」という重陽の節句(9月9日)にちなんだ句が詠まれた。
暗越奈良街道は、生駒山麓からほぼ真西にまっすぐ峠を越え、東大阪市に下る。しかし国道とは名ばかりで、急坂の上峠付近では道幅2メートル以下のところもあり、「酷道」(こくどう)と呼ばれている。
それだけに車の通行が少なく、今も古道の風情を残し、峠付近には旧跡も数多く点在する。
* * *
周辺を歩くと青葉がまぶしく光る。峠付近の西畑町には、以前から街道沿いに石垣積みの棚田や段々畑が耕作されており、「西畑の棚田」として知られてきた。しかし近年は農家の高齢化と後継者不足で、休耕田が増えてきたようだ。
この素晴らしい景観を後世に残そうと約10年前から、有志が下草刈りや田畑の手入れなどのボランティア活動を続けきた。おかげで今も美しい棚田の風景を見ることができる。有難いことだ。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事長 小北博孝)
暗峠の写真は、最初は高いアングルからの写真だったので、「ローアングルで撮り直していただけませんか」とお願いして、わざわざ撮り直していただいた。お手間をかけてしまったが、これでグンと良くなった。国土交通省近畿地方整備局のサイト「日本の道100選」によると、奈良県からは
65 暗越奈良街道(生駒市)
・平城京の道。生駒山地を越え、難波と平城京を最短距離で結ぶ歴史のある道。
66 県道畝傍御陵前停車場四条線・橿原神宮公苑線(橿原市)
・畝傍山山麓の市民の憩いの場。国家的事業として、昭和15年、全国120万人の奉仕員の人々によって建設された。
の2つの道が選ばれている。ちなみに京都府や大阪府からは以下の道が選ばれていて、これには納得する。
57 哲学の道(京都市左京区)
・東山山麓を若王子橋から銀閣寺橋まで琵琶湖疎水沿いに続く約1.5kmの道。
58 天橋立線(宮津市)
・名勝天橋立の道。日本三景の一つ天橋立を走る道。周囲の景観と調和を保つため砂利道にしてある。
59 御堂筋(大阪市)
・緑と散策の大通り。幅員44m、4列に並ぶ銀杏。昭和初期に完成された近代大阪の記念碑的存在である。
60 フェニックス通り(堺市)
・大浜北町から翁橋町までの約1.7km。名称は中央分離帯に植栽されたフェニックスに由来する。
61 富田林寺内町(富田林市)
・近世の自治都市。富田林市の寺内町は近世の町割をほぼそのまま残している。
なおトリビアであるが、国交省が選定した「100選」は、実は「104つ」選ばれている。雑学の館によると
「日本の道100選」は昭和61年(1986年)8月10日の「道の日」制定を記念して「道路に対する国民の関心と愛護の精神を高める」ことを目的として選定されたもの。国土交通省によると、当初各都道府県から2つの道を選ぶことは決まっていたが、これでは47都道府県から選ぶと94個で届かないことに気づき、どこかの都道府県から3つ以上選ばなければなりませんでした。しかし、どの道も素晴らしく100個に絞れなかったため、最終的に104個選ばれることになりました。
「どうせなら、108つ(煩悩の数)選んでおけば良かったのに」とツッコミを入れたいところであるが、20年近く前のことなので、これはまぁ仕方がない。今年は梅雨だというのに雨が少ないが、雨に濡れた石畳はまた格別の趣がある。いちど、雨上がりにでも訪ねていただきたい。
小北理事長、良いお話を有難うございました!