8/23(火)と9/6(火)、4回目と5回目の「古事記を読もう会」を開催した。この会は、「奈良まほろばソムリエ検定」のソムリエ合格者有志6人で立ち上げた勉強会である。岩波文庫版の古事記中つ巻の初代「神武天皇」(P79)から、第11代「垂仁天皇」(P115)まで(中つ巻の前半分)を勉強した。
1.神武天皇P79~P91
まずは、
一ノ瀬武志氏のHPからあらすじを引用する。《カムヤマトイワレヒコ(神伊波禮毘古=神武天皇)は、兄のイツセ(五瀬命、彦五瀬命)と高千穂の宮殿で相談し、東の国に行くことに決めた(神武東征)。道中の住民を従えながら、筑紫(つくし)・安芸(あき)・吉備(きび)・浪速(なにわ)と、船を進めていった。そこに鳥見(とみ)のナガスネヒコ(那賀須泥毘古)が軍勢を率いて待ち構えていて、イツセは矢に当たって死んでしまった。カムヤマトイワレヒコは、そこから敗走して熊野に上陸したが、そこで天の神々から刀を受け取り、やたの烏(からす)を道案内としてもらい受けた。やたの烏に導かれ、住民たちを次々と屈服させながら進んでゆくと、天からニギハヤヒの神(邇藝速日命)も駆けつけて従った。ニギハヤヒは、のちの物部(もののべ)氏の祖先になった》。
《やがてカムヤマトイワレヒコは国を平定し、大和(やまと)の畝傍(うねび)の橿原(かしはら)で神武天皇として天下を治めた。この神武天皇には妻子があったが、さらに三輪山のオオモノヌシの神の娘、イスケヨリ姫を妻に迎え、カムヌナカワミミなどの子を生んだ。カムヌナカワミミは綏靖(すいぜい)天皇となり、このあと安寧(あんねい)天皇、懿徳(いとく)天皇、孝昭(こうしょう)天皇、孝安(こうあん)天皇、孝霊(こうれい)天皇、孝元(こうげん)天皇、開化(かいか)天皇と続く》。
神武天皇P79
Wikipediaによると《庚午年1月1日(紀元前711年2月13日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?))は、日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇である(古事記、日本書紀による)》《『古事記』では神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)》《神武天皇という呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船が歴代天皇の漢風諡号を一括撰進したときに付されたとされる。天皇が即位した年月日は、西暦紀元前660年2月11日と比定される。これにより、2月11日は日本が建国された日として、明治6年(1873年)に祭日(紀元節)と定められた。紀元節は昭和23年(1948年)に廃止されたものの、昭和42年(1967年)には建国記念の日として、祝日とされた》。
那賀須泥毘古、長髄彦(ナガスネヒコ)P80
Wikipediaによると《『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる》。
《饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。旧添下郡鳥貝郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている》。
竃山(かまやま)P81
Wikipedia「竈山神社(かまやまじんじゃ)」によると《和歌山市内に鎮座する神社である。式内社で、旧社格は官幣大社。釜山神社と表記されることもあった。神武天皇の長兄である彦五瀬命を祀る。本殿の裏に彦五瀬命のものとされる墓がある。彦五瀬命は神武天皇ら弟たちとともに東征に向かったが、難波の白肩津での長髄彦との戦闘で負傷した。太陽に向って戦うのは良くないとして、東から回り込むために一行は南下したが、その傷が元で、紀国の男之水門に着いたところで彦五瀬命は亡くなった。紀伊国竈山に墓が作られたと『古事記』にある。『紀伊続風土記』によれば、当所がその竈山の地であり、墓が作られてすぐに、側に神社が作られたとある。延喜式神名帳では「紀伊国名草郡 竈山神社」と記載され、小社に列している》。
《江戸時代を通して寺社奉行の支配下に置かれ、氏子も社領もなく衰微していた。明治に入り、宮内省管轄の彦五瀬命墓と、竈山神社は正式に区分され、近代社格制度のもとで明治14年(1881年)に村社に列格したが、神武天皇の兄を祀るという由緒をもって社殿が整備され、明治18年(1885年)には官幣中社に、大正4年(1915年)にはついに官幣大社に進むという異例の昇格をした。村社から官幣大社まで昇格したのは当神社が唯一の例である。現在は神社本庁の別表神社となっている》。
八咫烏(やたがらす)P82
Wikipediaによると《日本神話で、神武東征の際に、高皇産霊尊によって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる烏である。一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている。熊野三山において烏はミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)として信仰されており、日本神話に登場する八咫烏は単なる烏ではなく太陽の化身と考えられ、信仰に関連するものと考えられている。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)には烏が描かれている》。
《『新撰姓氏録』では、八咫烏は高皇産霊尊の曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。奈良県宇陀市榛原区の八咫烏神社は賀茂建角身命を祭神としている》《八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』には、やはり神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が登場する。金鵄は、長髄彦との戦いで神武天皇を助けたとされる。八咫烏と金鵄は、しばしば同一視ないし混同される》。
井氷鹿(いひか)P83
HP「神々の坐す杜」の「井光(いかり)神社」によると《祭神:井氷鹿》《「古事記」のなかで、神武天皇が日向から海を渡り熊野を経て、八咫烏の案内で吉野に入ったところ、吉野豪族の祖とされる「井氷鹿」という人物に出合ったとあります。井氷鹿は光る井戸から現われ、尾を持った姿であったとか。この井氷鹿は”井光”とも表現できることから、ここ井光の地に井氷鹿が住んでいたとされています。有名な神武天皇東征は約2,700年も昔のことといいます。現在、井光には井氷鹿を祀る祠と、現われた井戸の跡といわれるものがあり、伝説ゆかりの地らしさを漂わせています》。
道臣命(みちのおみのみこと)P84
Wikipediaによると《記紀に登場する人物。初名は日臣命(ひのおみのみこと)。天忍日命(あまのおしひのみこと)の後裔。大伴氏の祖。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた。神武東征において、八咫烏の先導により久米部を率いて菟田(宇陀)への道を開いた。その功績により神武天皇から名を改めて道臣と名乗るよう言われる》。
《兄猾(兄宇迦斯、えうかし)が神武天皇に押機(おし)という罠を仕掛けた際、道臣は兄猾に「おまえが作った屋敷には、貴様自身が入れ」と述べ、剣の柄を握り、弓に矢をつがえ追い込み、兄猾は自身の罠に押しつぶされて死んだ。道臣はその死体を切り刻み、その地は宇陀の血原と呼ばれる。国見岳で八十梟帥が討たれた後、天皇の密命によりその残党を討ち取った。まず忍坂の邑に大室を造り、精鋭を率いて残党と酒宴を開き、宴も酣になったとき道臣の久米歌を合図に兵たちは剣を抜き、残党を殲滅した》。
《その前に、神武天皇自ら高皇産霊尊を顕斎するときにその斎主に任じられ「厳媛(いづひめ)」の号を授けられた(道臣命は男性であるが、女性の名をつけたのは、神を祀るのは女性の役目であったことの名残とみられる)。神武天皇即位後はじめて政務を行う日、道臣命は諷歌(そえうた)・倒語(さかさご)をもって妖気を払った。神武天皇即位の翌年、東征の論幸行賞として築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わり、特に目をかけられたと記されている》。
土雲・土蜘蛛(つちぐも)P85
Wikipedia「土蜘蛛」によると《古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称。『古事記』『日本書紀』に「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ、陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている》《一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた》 。
《土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。大和国(現奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、有尾人として描かれていることにもある》。
《『日本書紀』では、吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている。『古事記』においても、忍坂(おさか・現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している。一般に土蜘蛛は、背が低く、手足が長く、洞穴で生活していたといわれる。これは縄文人の体形と、農耕ではなく狩猟や採集を主とする穴居生活から連想されたものらしく、このような生活習慣の違いなどが人々からさげすまれた原因とも考えられている》。
邇藝速日命、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)P86
Wikipediaによると《『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った》。
《『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある》。
《『日本書紀』と『古事記』によると、神武天皇(イワレビコ)と饒速日命(ニギハヤヒ)の出会いのあらすじは次の通り。「神武天皇(イワレビコ)は塩土老翁から、東方に美しい土地があり、天磐船で先に降りたものがいると聞く。そして彼の地へ赴いて都を造ろうと、一族を引き連れ南九州から瀬戸内海を経て東へ向かい、難波碕(現代の大阪)へたどり着く。その後河内国草香邑から生駒山を目指す。そこに土着の長髄彦(ナガスネヒコ)が現れたため戦うが苦戦する。神武は「日(東)に向って敵を討つのは天の道に反す」として、熊野(紀伊半島南端部)へ迂回し北上することにした》。
《菟田(奈良)に到達し高倉山に登ってあたりを見渡すと、八十梟帥が軍陣を構えているのが見えた。その晩神武の夢に天神が現れ「天神地祇を敬い祀れ」と告げる。その通りにすると敵陣を退治でき、続いて長髄彦を攻める。すると長髄彦は「我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか?」と問うたところ、神武は「天神の子は多い。あなたの君が天神の子であるならそれを証明してみよ」と返す。長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢と歩靫を見せる。すると神武も同じものを見せた。長髄彦はそれでも戦いを止めなかった。饒速日命(ニギハヤヒ)は天神と人は違うのだと長髄彦を諌めたが、長髄彦の性格がひねくれたため殺し、神武天皇に帰順して忠誠を誓った」》。
神武天皇聖蹟(せいせき)顕彰碑
HP「いこまかんなびの杜」によると、《神武天皇東征の聖蹟を顕彰するために建てられた顕彰碑は、大分・福岡・広島・岡山・大阪・和歌山・奈良の府県に点在します。聖蹟顕彰碑は、紀元二千六百年奉祝の事業として、「紀元二千六百年奉祝会」が文部省へ委嘱し、「神武天皇聖蹟調査委員会」による推考・答申にもとづいて、すでに明白であった橿原宮・竈山の聖蹟以外の地、計19個所の聖蹟が選定され、花崗岩製の同一規格・設計により、総工費25万円により、聖蹟所在地の府県に依頼して建設・施工されたようです》。19か所のうち、奈良県下には最多の7か所がある。紹介すると
1.菟田穿邑(うだのうかちのむら)宇陀市菟田野区宇賀志
2.菟田高倉山(うだのたかくらやま) 宇陀市大宇陀区守道高倉山頂
3.丹生川上(にふのかわかみ)東吉野村(丹生川上神社中社摂社 丹生神社北側)
4.磐余邑(いわれのむら)桜井市吉備(春日神社の北側)
5.鵄邑(とびのむら)生駒市上町 出垣内バス停東南の丘
6.狭井河之上(さいがわのほとり)桜井市茅原(狭井神社の北)
7.鳥見山中霊畤(とみやまなかのまつりのにわ)桜井市(等弥神社の南側)
比賣多多良伊須氣余理比賣(ヒメタタライスケヨリヒメ)P87
神武天皇の皇后で、別名「富登多多良伊須岐比賣」(ホトタタライスキヒメ)。
Wikipediaによると《神武天皇は、東征以前の日向ですでに吾平津姫を娶り子供も二人いたが、大和征服後、在地の豪族の娘を正妃とすることで、在地豪族を懐柔しようとした。天照大神の子孫である神武天皇とヒメタタライスズヒメが結婚することで、天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた1つに統合されることになる》《皇后の名の中にある「タタラ」とは、たたら吹き製鉄の時に用いられる道具であり、このことは、皇后の出身氏族が、製鉄と深い関係がある出雲(現;島根県安来地方)地域であったことを物語っていると考えられている(加藤義成著「古事記参究」素行会(1986年)など)》。
《『古事記』では、三輪大物主神(スサノオの子孫大国主の和魂とされる)と勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)の娘である。勢夜陀多良比売が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。大物主は赤い矢に姿を変え、勢夜陀多良比売が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子がヒメタタライスズヒメである。ホトを突かれてびっくりして生まれた子であるということでホトタタライスキヒメと名づけ、後に「ホト」を嫌ってヒメタタライスケヨリヒメに名を変えた》。
2.欠史八代(けっしはちだい)P91~98
Wikipediaによると《『古事記』および『日本書紀』において、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。これらの天皇は実在せず後に創作された架空のものだとする考えが史学界で支配的であるが、一方で実在説もある》。
非実在説《そもそもこれらの八代の天皇については、中国の革命思想(辛酉革命)に合わせ、また皇室のルーツがかなり古いところにあると思わせるべく、系譜上の天皇を偽作したため生まれたのであろうとする》《第10代崇神天皇は別名ハツクニシラススメラミコトといい、すなわち初めて天下を治めた天皇であることを名称で物語っている。これは本来の系図では、崇神天皇が初代天皇とされたもので、それ以前はある時期に加えられたものであろうことを推察させる》《4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、記紀のより確実な史料による限り、和風諡号の制度ができたのは6世紀半ばごろであるし、神武・綏靖のように、伝えられる名が実名であるとすると、それに「神」がつくのも考え難く、やはり神話的ないし和風諡号的なものであるので、これらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと推定できる》。
《総て父子相続となっており、兄弟相続は否定されている。父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、歴史に逆行していることにもなってしまう。陵墓に関しても欠史八代の天皇群には矛盾が存在している。第10代崇神天皇以降は、多くの場合その陵墓の所在地には、考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳が存在する。だが、第9代開化天皇以前は、考古学的に見て後世になって築造された古墳か、自然丘陵のいずれかが存在している。その上、そういった当時(古墳時代前~中期頃)に築造された可能性のある古墳もなければ、さりとて弥生時代の墳丘墓と見られるものもない》。
実在説(葛城王朝説)《初代神武天皇と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定する説である。この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力で、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族であったとされる第10代崇神天皇に踏襲されたとこの説は結論付けている。この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており、邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国(くなこく 邪馬台国の南にあったとされる国)にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国であるとする説などがある》。
3.崇神(すじん)天皇P99
Wikipediaによると、『古事記』では《御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている》《記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない》《諡号(しごう)から、崇神天皇を初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある》。
《欠史八代を史実の反映と見る立場からは、書紀の記述によると、神武天皇が畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している》。
意富多多泥古(おほたたねこ)P100
HP「神のやしろを想う」(崇神・三輪)によると《崇神天皇の時、疫病が大流行して多くの人々が亡くなったという。天皇はこの事態を愁き嘆いて、床にお休みになった。その夜に大物主大神が夢の中に現れていうには、「この疫病は私の意志によるものだ。意富多泥多古をして私を祭らせるなら、神の祟りによる病も起こらず、国もまた安らかになるだろう」と神託をくだされた(夢での神託=夢託)》。
《そこで崇神天皇は早馬を四方に遣わして意富多泥多古を探し求めたところ、河内にいることがわかり、天皇のもとに呼ばれた。天皇が「お前は誰の子か」とお尋ねになると、意富多泥多古は「私は大物主大神が陶津耳命の娘である活玉依毘賣(イクタマヨリビメ)を娶って産んだ子、名は櫛御片命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子で、私は意富多多泥古です」と申し上げた(つまり大物主神の五代目の後裔)。天皇は大いに喜んで「これで天下は安らかになり、人民は栄えるだろう」とおっしゃって、早速、意富多泥多古を祭り主として、三輪山の大物主神を拝み祭った》。
意富多多泥古の母、活玉依毘賣については、こんな逸話が残る。《活玉依毘売は容姿がたいそう美しかったという。そこに一人の若者がやってきた。この若者の容姿や身なりも当時比類なきほど立派だった。その男が夜中突然に、乙女のもとにおとずれ、そのまま互いに愛し合い結ばれて、男が乙女のもとに通うようになった。そしていくらも時がたたないうちに、その姫は身ごもってしまった。それをみた乙女の両親が不思議に思って「お前はひとりで身ごもっている。夫もいないのにどうゆうわけで身ごもったのだ」と尋ねた。乙女は「姓名はわかりませぬが美しい若者がいて、夜毎にやってきて一緒にいるうちに、自然と身ごもったのです」と言った》。
《両親は、その男の素性を知ろうと思って、娘に「紡いだ麻糸を針に通して、それを男の着物の裾に刺しなさい」といった。そこで娘は夜にやってきた若者の裾に糸を縫いつけると、翌朝には麻糸が戸の鍵穴から抜けており、糸は三巻しか残っていなかった。そこで男は鍵穴から出ていったことを知り、糸をたよりにたどると三輪山に着いて神の社のところで終わっていた。それで孕んだ子供は神の子であると知ったという》。三巻(輪)だけ残っていたので、その地を三輪(美和)と名付けたということだ。
4.垂仁(すいにん)天皇P105
Wikipediaによると《崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)》《『古事記』には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)》《『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いと、その史実性を疑問視する説もある》。皇居は《『古事記』には「師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)」とあり、奈良県桜井市穴師周辺に比定されている》。
《『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かつての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない》。
沙本毘賣(さほひめ)と沙本毘古(さほひこ)P106
Wikipedia「狭穂姫命(さほひめのみこと)」によると《記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)で、皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母。同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物。『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命》《父は彦坐王(開化天皇の皇子)、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。同母の兄弟として狭穂彦王の他に袁邪本王(次兄。葛野別・近淡海蚊野別の祖)、室毘古王(弟。若狭耳別の祖)がいた(『古事記』)》。
よく知られているのが「沙本毘古(狭穂彦)の叛乱」の話である。《『古事記』中巻では倭建命の説話と共に叙情的説話として同書中の白眉とも評され、また同じく同母兄妹の悲恋を語る下巻の木梨之軽王と軽大郎女の説話と共に文学性に富む美しい物語とも評されている》《以下は『古事記』におけるあらすじで名前の表記も同書に従う。狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった》。
《反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった》。
多遅摩毛理、田道間守(タヂマモリ)P114
Wikipediaによると《日本の古墳時代の人物。菓子の神としても崇敬される》《新羅から渡ってきたアメノヒボコの曾孫である。11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世の国(祖先の国である新羅のこととも)に渡った。10年かかって葉附きの枝と果実附きの枝を日本に持ち帰ってきたが、垂仁天皇はすでに亡くなっていた。タヂマモリは半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵に捧げ、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという》。
《タヂマモリが持ち帰った「非時の香菓」は、記紀では現在の橘のこととしている。「タチバナ」という名前自体、タヂマバナ(田道間花)が転じたものとする説もある。当時「菓」といえば果物のことであったが、この説話からタヂマモリは菓子の神「菓祖」として信仰されている。果物や薬草を求めて異界に行く話は世界各地に伝わるもので、この説話は中国の神仙譚の影響を受けていると考えられる。例えば秦の徐福が蓬莱に不老不死の薬を求めに行く話がある》。
《タヂマモリは、菓子の神として中嶋神社(兵庫県豊岡市)に祀られている。中嶋神社の分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。佐賀県伊万里市には、常世の国から帰国したタヂマモリが上陸した地であるという伝承があり、伊萬里神社にはタヂマモリを祀る中嶋神社がある。和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は、タヂマモリが持ち帰った橘の木が初めて移植された地と伝えられる。内藤湖南は『卑彌呼考』にて、『魏志倭人伝』に記される邪馬台国が『記紀』に記されるヤマト王権であるとした上で、卑弥呼が魏に使わした大夫難升米はタヂマモリのことであるという説を唱えている》。
ざっと以上である。今回は2日分をまとめたので、文章だけで13,000字(400字詰原稿用紙32枚分)になってしまった。こういう堅い記事を書くと当ブログへのアクセスが減るのでいつも悩むのだが、古事記もやっと半ばを超えたので、気を取り直して続けることにする。
「神武天皇聖蹟顕彰碑」の話は、この会で初めて知った。会のメンバーで当ブログ読者のtenbouさんは写真入りで
「神武天皇東征の足跡1」、
「神武天皇東征の足跡2」、「神武天皇東征の足跡3」と、3回連載のブログ記事を書かれていた。1日で7か所の聖蹟を回るバスツアーなど、面白そうなので、ぜひソムリエ仲間で企画したいものである。
当記事も、きっと古事記完成1300年では、お役に立てることだろう。ここまでお読みいただいた皆さん、有難うございました。