tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

「天誅組 志士たちの肖像」展は7月28日(日)まで!(2013Topic)

2013年06月25日 | 天誅組
今、市立五條文化博物館(五條市北山町930-2)で、「志士たちの肖像」という特別展が開催されている。毎日新聞奈良版(6/19付)《「志士たちの肖像」展 明治維新、先駆け体感 天誅組、幹部と五條出身者ら9人を中心に紹介 文化博物館》によると、

150年前、幕府五條代官所を襲い、明治維新の先駆けとなった天誅組について、幹部と五條出身者ら9人を中心に紹介する「志士たちの肖像」展が五條市北山町の市立五條文化博物館(0747・24・2011)で開かれている。3総裁の1人、吉村虎太郎が負傷した時に着ていた血染めの襦袢(じゅばん)、同じく総裁・松本奎堂(けいどう)の兜(かぶと)、那須信吾が東吉野村・鷲家口で戦死した時に所持していた小旗、志士たちの手紙など31点を展示している。7月28日まで。



天誅組は1863(文久3)年8月に挙兵。高取城を攻撃するが失敗、吉野山中を転戦し約40日で崩壊した。他に取り上げた志士は主将の中山忠光、3総裁の1人で紀州藩脇本陣に切り込んで死んだ藤本鉄石、後に獄中で組の記録「南山踏雲録」を書き残した伴林光平(ともばやしみつひら)、共に五條の医者だった乾十郎と井澤宜庵(ぎあん)、乾らの師だった儒学者の森田節斎。

虎太郎が挙兵に参加した丹生川上神社下社(下市町)の神官、橋本若狭(五條市出身)に出した陣中書、画家でもあった鉄石の絵なども展示。十郎が宜庵に出した手紙には吉野川を下る筏(いかだ)の税撤廃を紀州藩に掛け合った報告があり、奈良盆地への吉野川分水まで考えた事業手腕をうかがわせる。午前9時~午後5時。月曜休館。入館料は高校・大学生200円、一般300円。


吉村虎(寅)太郎の血染めの襦袢に松本奎堂の兜とは、ぜひ見てみたいものである。お帰りにはぜひ、駅前商店街の金時堂で「寅太郎饅頭」をお買い求めいただきたい。「天誅組挙兵150年」の今年は、このような催しが続々と開催される。県庁のエレベーター内にも、大きな告知ポスターが貼ってあった。当ブログでも、これからどんどん紹介してまいります!



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天誅組入門(奈良女子大学「地域公開講座」)が無事終了!

2013年06月24日 | 天誅組
昨年(2012年)末、旧知の藤野千代さん(奈良女子大学社会連携センター特任教授)から、「公開講座で何か講話をしてもらえませんか」というお話しをいただいた。1年に1回で5年間連続、ということだったので「年に1度なら何とかなるかな」と、軽い気持ちでお引き受けした。全5回共通のタイトルは「奈良にまつわるエトセトラ」とし、1回めは6月22(土)に設定した。
※写真は、すべて藤野特任教授の撮影。とても上手にお撮りいただいた



「初回のテーマは何にされますか?」と聞かれたので「“天誅組入門”で行きます」とお答えした。今年(2013年)が「天誅組挙兵150年」の年だったので、すでに勉強を始めていたのである。半年あれば何とかなるだろう、と考えた。



昨年の6月には仲間うちで五條市で天誅組の史跡を訪ねる(第10回古社寺を歩こう会)というウォーキングツアーを実施した(64人参加)。天誅組研究家の舟久保藍さん(「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協特別理事)の90分の講話も3回、お聞きした。関連本も何冊か読んだ。今月(6月)には天誅組終焉の地・東吉野村を巡る(第12回古社寺を歩こう会)というバスツアーも実施した(39人参加)。

実録 天誅組の変
舟久保 藍
淡交社

今年の3月、舟久保さんは『実録 天誅組の変』(淡交社刊 2,300円)というご著書を刊行された。これは天誅組研究書の決定版ともいうべき労作で、隅から隅まで、熟読させていただいた。そのあと4月頃からPower Pointで資料を作り始めたが、これがなかなか進まない。



いきなり天誅組の話に入ると聞く人は戸惑うだろうから、やはり「アヘン戦争」とか「ペリー来航」など、当時の時代背景から入らなければならない。「尊皇攘夷」と「公武合体」の違いなども説明しないといけないし、「和宮降嫁」や「生麦事件」にも触れなければならない。講演場所が奈良女子大(奈良奉行所跡)なので、名奉行として知られる「川路聖謨(かわじ・としあきら)」にも触れなければならない…。と、天誅組の話に入る前に、13枚ものスライドを作ることになってしまった。



14枚めから天誅組の話に入り「十津川郷士」とか「鷲家のおかつ」の話も入れて18枚。結局、合計32枚ものスライドを作ってしまった(配付資料は1ページにスライド4画面を載せるので、スライド枚数は4の倍数にしなければならない)。4月から作り始め、途中、NPO法人の発会式とかツアーガイドとか神社検定の受験とかに阻まれながら、何とか講話の4日前にスライドを完成させてCDに納め、五條市や東吉野村からいただいたパンフレットとともに、無事、藤野さんに手渡すことができた。



藤野さんからは「写真で見る奈良の四季」のようなスライドも準備してほしい、とのリクエストもいただいたので、こちらも矢田寺や喜光寺の花の写真ばかりを10枚(印刷なし)。過去に撮影した写真から簡単に作って、電子メールで送信した。



私はこれまで、「奈良にうまいものあり!」「奈良検定2級必勝講座」「観光立県・奈良の課題」「観光まちづくりの事例研究」「90分でわかる古事記」「広報入門」「人脈の作り方」など、いろんなテーマの講話をお引き受けし、すべてPower Pointで資料を作ってきたが、こんなに時間をかけたのは初めてである。幕末の時代背景から入らなければならなかったので、幕末本を読み返したことに加え、資料によって微妙に記述が違う(集結した十津川郷士の人数とか、諸藩の兵力数など)ので、これらを最も信頼できる『実録 天誅組の変』に基づいて、再チェックしなければならなかったからである。



講話では、主催者がアンケートを取っておられたので、あとでお聞きすると、概ね好評だったとのことで、安心した。「入門編」なので、天誅組に詳しい方には退屈だっただろうが、予備知識のない方には、ちょうど良いレベルだったことだろう。なかには「連続シリーズとして(頻繁に)開催してほしい」という声もあったそうだ。「天誅組入門」は、年内にあと2回、それぞれ別の場所でお話しする予定が入っている。Power Point資料にはどんどん手を入れて、磨き上げていくつもりである。



奈良女子大学社会連携センター「地域公開講座」にお越しいただいた70人の皆さん、ご清聴有難うございました。藤野さん、細部にまでお気遣いいただき、またきれいな写真をたくさんお撮りいただき、有難うございました!

天誅組についてご教示いただきました舟久保藍さん、東吉野村教育委員会教育長の阪本基義さん、天誅組150年顕彰記念実行委員会事務局の上辻元治さん、お世話をおかけいたしました。おかげさまで無事、講話を終えることができました。天誅組150年の今年、五條市や東吉野村にたくさんの人が訪れ、天誅組の熱い「志」に思いを致されますよう、心よりお祈りいたします。
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国宝級の復元品展と岡本権宮司の講座が、県立美術館で開催!(2013Topic)

2013年06月23日 | お知らせ
本年(2013年)7月21日まで、奈良県立美術館で特別展「正倉院宝物と近代奈良の工芸」が開催中である。正倉院宝物を当時の技術で再現した逸品(国宝級の復元品)の数々が、展示されている。同館の観覧料(入場料)は1,000円だが、この割引引換券をプリントして持参すると、800円になる。今日(6/23)は午後2時から、春日大社権宮司・岡本彰夫氏の90分の講話「奈良の匠たち」も実施される(電話予約要 0742-23-3968)。同館のHPによると

2013年6月15日(土)~7月21日(日)
休館日 月曜日(ただし7月15日(月)は開館し、翌16日(火)は休館)
開館時間 午前9時~午後5時(金・土曜日は午後7時に閉館。入館は閉館の30分前まで。)

当美術館では、正倉院宝物を「いつでも鑑賞したい」という多くの皆様のご要望にお応えして、今回模造復元品の展覧会を開催することといたしました。東大寺の旧境内にある奈良時代の宝庫「正倉院」には、今も美術工芸品など9千件以上の貴重な文化遺産が大切に守られており、これらは世界に誇る奈良・日本の宝です。

秋の恒例行事として奈良国立博物館で開催される「正倉院展」には、毎年全国から多くのファンが訪れ、華やかな天平文化を感じ、奈良の賑わいを演出しています。本展覧会では、正倉院宝物を極力忠実に再現した質の高い作品を多数展示し、工芸家の高い技術とともに、奈良時代のデザインの粋をご鑑賞いただけます。

奈良の地に伝わる数多の文化財は大きな魅力ですが、それは昔も同様でした。例えば明治8(1875)年から開催された奈良博覧会では正倉院宝物をはじめとする文化財が公開され、多くの観覧者を集めました。しかしこの催しの背景には、奈良県の文化財の全容を調査すること、これらの文化財に学んで奈良に新たな産業を興すという、明治という時代ならではの要請がありました。奈良の工人たちは優れた文化財と対峙しながら、模写、模造、原品に学んでの産業振興に取り組んだのです。



明治時代以降の文化財調査・模造事業の流れを振り返りつつ、正倉院宝物などの模造事業が、近代奈良の工芸に何をもたらしたのかを探ります。あわせて、原宝物を極力忠実に復元した模造品の数々から、これらを手がけた工芸家の高度な技術と、その技法の伝承のありようをご覧いただければ幸いです。

主   催:奈良県立美術館 読売新聞社
後   援:読売テレビ NHK奈良放送局 奈良テレビ放送 奈良新聞社

そして今日(6/23)は、岡本権宮司の90分の講話が実施される。聴講は無料で、観覧券だけで聞けるが、電話予約(0742-23-3968)が必要である。残席は15人程度だそうなので、ぜひお早めに。

◇講座A
日時:2013年6月23日(日)
「奈良の匠たち」講師:岡本彰夫氏(春日大社権宮司)

特別展に関連して、一歩踏み込んだ内容でお届けする講座。展覧会をより深く味わう手引きとして、どうぞご参加下さい。
聴講無料(要観覧券)・60席 開演 午後2時から(開場 午後1時30分) 会場 当館1Fレクチャールーム


※講話は、上記のほか3つの講座(講座B~D。すべて90分)が今後開催される予定である。「講座B~D」は、往復ハガキで申し込まなければならない。詳しくは、こちら

私も昨日(6/22)、拝見してきた。 銀平脱鏡箱(吉田立斎 昭和8年)、紅牙撥鏤尺(吉田文之 昭和53年)、銀平脱合子(北村昭斎 平成4年)などのきらびやかなレプリカの数々には、息を呑む。何しろ、復元品といえども「国宝級」なのである。秋の正倉院展とは違い、ゆっくりと鑑賞できるのも、有り難い。ぜひ、足をお運びください!



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入鹿の首塚と茂古森[もうこのもり](産経新聞「なら再発見」第34回)

2013年06月22日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、34回めの今日(6/22)は「入鹿の首塚と茂古森 因縁を感じさせる首の行方」。執筆されたのは、NPO法人奈良まほろばソムリエの会の露木基勝さん(桜井市在住)である。露木さんは、ソムリエの会が誇る「ガイド名人」のお1人である。三輪のお住まいだが、飛鳥にはとても詳しい。だから今回のテーマも飛鳥である。では全文を紹介する。

 明日香村の飛鳥寺境内を西に通り抜けると、その先に「入鹿(いるか)の首塚」との言い伝えがある五輪塔が立つ。鎌倉時代または南北朝時代の造立とされ、花崗岩(かこうがん)製。高さは149センチある。
 下から2番目の球形の水輪(すいりん)が上下逆になっているという説があり、よく見てみるとややバランスが悪い。



 皇極(こうぎょく)天皇4(645)年、打倒蘇我(そが)氏をめざして、中臣鎌足(なかとみのかまたり 後の藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 後の天智天皇)が中心となり、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で入鹿の首を討(う)ち取った。おなじみの「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)である。伝承では、その切り落とされた首がこの五輪塔の地まで飛んできて、力尽きたといわれている。
 「多武峰縁起(とうのみねえんぎ)絵巻」には入鹿の殺害場面が描かれており、本当に遠くまで飛んできそうな勢いで首がはねられている。
      *   *   *
 入鹿の首塚付近は飛鳥寺の西門にあたる場所で、飛鳥時代には「槻(つき)の木の広場」が広がっていたと推定される。槻の木とは、ケヤキの古名。古地図を見ると、入鹿の首塚のある場所は「五輪」、その近くには「土木」と呼ばれている場所もある。「ツチノキ = ツキノキ」なのかもしれない。
 この広場で行われた蹴鞠(けまり)の会で、中臣鎌足と中大兄皇子が初めて出会ったとされる。蹴鞠をしていた皇子が誤って飛ばした靴を鎌足がひろったことがきっかけで、2人は急接近した。その後は、蘇我氏打倒の秘策を練るため、多武峰に登って打ち合わせをしたというエピソードも残る。
 飛鳥板蓋宮から600メートル以上離れたこの地まで人間の首が飛ぶはずもないが、乙巳の変の立役者の2人が初めて出会った場所に入鹿の首が飛んできたとは、何か因縁めいたものを感じる。
 石造美術としてみるならば、特筆すべきものではないかも知れないが、甘樫(あまかしの)丘や飛鳥寺をバックにすっかり周囲の風景に溶け込んでいる姿は、飛鳥にはなくてはならない存在といえる。



実は明日香村には、もう一カ所、入鹿の首が飛んできたとの伝承の残る場所がある。それが「茂古森(もうこのもり)」だ。
 石舞台古墳から冬野川に沿って東に向かうと、細川谷の奥に上(かむら)という集落がある。そこに気都和既(きつわき)神社が鎮座しており、その境内一帯が、茂古森と呼ばれている。
 この一風変わった地名は、乙巳の変で入鹿を殺害した鎌足が、入鹿の首に追われてこの森に逃げ込み「もう来ぬだろう」といったことに由来するそうだ。境内には、鎌足が腰かけたという石もある。
 飛鳥時代には、絶大な権力を掌握していた蘇我入鹿。そんな入鹿だからこそ、人々はその超人的な怨念を恐れて、このような伝承を語り継いだに違いない。やはり飛鳥は奥が深い。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 露木基勝)


入鹿殺害に、こんな後日談があったとは、初めて知った。NPO法人奈良まほろばソムリエの会では、「まほろばソムリエと巡る大和路」というウォーキングツアー(参加費は1人300円)を実施していて、露木さんもガイドのメンバーである。その「飛鳥ミステリアス・ストーンズ巡り」は、露木さんが起案されたコースなので、本人がガイドしてくれるかも知れない。ぜひ、ご利用いただきたい。

露木さん、興味深いお話しを有難うございました!

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船宿寺の船路井櫻(葛城三十八景詩集)

2013年06月20日 | 奈良にこだわる
御所市五百家(いうか)に、船宿寺(せんしゅくじ)という古刹がある。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社)によると、

神亀年間(七二四~七二九)に当地を訪れた行基が夢で老人の託宣を聞き、東の山中にある舟形の大岩に薬師如来を祀ったことに始まるといい、平安時代には空海が留錫したといわれる。行基が発見したという岩場に巌舟権現像が祀られている。寺は関西花の寺第二十二番札所であり、ヒラドツツジの寺として知られる。

昨年末(2012.12.20)、船宿寺の参道に石碑が建った。江戸時代に成立した『葛城三十八景詩集』に登場する漢詩を刻んでいる。先日、福田泰さん(船路自治会会長)、菅原正光さん(船宿寺住職)、前川博さん(菩提寺檀家総代)にお会いして、初めてお聞きした。同日いただいた資料によると、それは第19番の「船路井櫻(せんじいおう)」のくだりで、

山名船路意如何 名義尋来在古歌
幾世井清櫻発処 看花玩水惜春過


(書き下し文)
山名船路の意如何(いかん)。名義(みょうぎ)を尋ね来れば古歌に在り。幾世(いくよ)も井清き桜発する処(ところ)。看花玩水(かんかがんすい)春過ぐるを惜しむ。

(現代語訳)
船路という地名には、どのような意味があるのだろうと思い、その地を尋ねると、それは古い歌の中に詠まれてありました。船路の山には老桜があり、その付近からきれいな水がこんこんと湧き出ていました。桜の花を眺め湧き出る水に手を浸し過ぎゆく春を惜しみました。

(場所の説明)
船路(ふなじ)山は、幽邃(ゆうすい)の地なり。堂後の巌下(がんか)には清泉湧き出で、井の辺りには老桜有り。遊子は目を楽しみ、古人は和歌を留(とど)む。村老曰く、西行之を詠む。


写真はいずれも福田泰(とおる)さんからいただいた。この写真は看板ができる前に撮られたもの

「船路山」という名前の由来は、西行の歌に出てくるということだが、それがどんな歌なのかは分からない。西行は桜を愛でたから、おそらく桜の歌だったのだろう。船路の東には「サクラ峠」という峠もあるそうだ。福田さんからは、『葛城三十八景詩集』のコピーもいただいたが、「1.一言神祠(一言主神社)」から「38.倭川遠帆(大和川)」まで、御所市から葛城市に及ぶ広い範囲にわたっている。

「24.秋津宮池(孝安天皇の室秋津嶋宮)」のように場所がピンポイントで特定できるものもあれば、「29.三室川蛍(三室川)」のように範囲の広いものもある。「25.橿原故都(神武天皇の橿原宮)」(御所市柏原)も登場し、やはり当時は本居宣長(&白洲正子)と同じく、橿原宮は、御所市柏原の地とされていたことがわかって興味深い。

福田さんたちは「三十八景」すべてを特定し、碑を建てたいと意気込んでいて、これは意義のある活動である。どなたか、ご協力いただける方はいませんか~!
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