tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

修験道と現代日本 by 田中利典師(UBrainTV Japan)

2016年01月26日 | 田中利典師曰く
修験本山金峯山寺長臈(ちょうろう=長老)の田中利典師が「UBrainTV Japan」に出演された。師のブログ「山人のあるがままに」によると、

必見!!「インタビュー:修験道と現代日本 ~by UBrainTV」
一昨年秋にUBrainTV Japan(イギリスのUBrainTVというネット配信会社の日本支社)という会社からの取材で、修験道と自然環境問題についてのインタビューを受け、それがようやく映像になり、今日から公式サイトのアップされました。日本文化を紹介するという番組です。以下です。是非ご覧下さい。
http://www.ubraintv-jp.com/watch.php?id=447

日本独特の宗教である修験道を紹介した映像ですが、とりわけ自然環境との問題に視点をあてて、質問されました。インタビューの説明では


「日本は近代以降、グローバル化が推し進められ経済的に豊かになる一方で「何か」を失いつつあると人々は感じ、近年、ローカルな日本を見直そうとする動きが生まれています。 精霊、神、仏を分け隔てなく敬う日本人の宗教観に裏打ちされた、グローバルとローカルを融合させうる「和」の精神は、世界的にも注目される思想です。 飛鳥時代に発祥し、神仏習合の形態を今に残す日本独自の宗教、修験道から見た現代日本とはどんな姿なのか、修験本山金峯山寺の田中長臈に話を伺いました。」

とあります。実は、リハなし、原稿なしのぶっつけ本番でのインタビューで、冷や汗たらたらで応答したのですが、そのわりにはちゃんとお話が出来ていて、我ながらなかなかの出来だと思っています・・・相変わらず、ちょっと顔が怖いですが(笑)。真剣に考えて話すとどうしても、こわ顔になってしまいます。その分真剣に話をしているということで、ご寛恕ください。これからの私自身が進むべき活動を示唆したインタビューだったと思います。

約15分の番組だが、示唆に富んだ内容だった。手元のメモによると、
●世界の宗教の最初はアニミズム。日本は昔からアニミズムの国で、子供がお茶碗を叩くと、母親は「そんなことをするとお茶碗が痛るでしょ」と教え諭した。
●日本は四季が豊かで自然も豊か。日本の国土の7割は山林。山の霊気が人間を作った。
●ヨーロッパでは「山には悪魔が住む」、日本では「山には神仏が坐(いま)す」「神と仏が山で出会う」。そこで修験道に先鞭をつけたのが役行者。
●日本では自然災害が多い。自然からは脅威も受けるし恩恵も受ける。人間は自然の中で生かされていることを一番大事にしてきた。

●近代の原理は一神教。「神が作った自然は、どのように切り取っても良い」と教えてきた。つまり自然は制御できると考えた。
●欧米では「唯一絶対の神は人間とは同心円上にいない」、超越したもの。日本では「人間の同心円上に神・仏・自然がいる」
●東日本大震災では「想定外」と言った。もともと自然は「想定」できるものではない。津波も台風も豪雨も。しかし自然は「悪」ではない。自然には善も悪もない。あるがままにある。我々はその中で生かされている。

●産業革命以来の近代は、国民国家。国家が国民を管理する。
●もともと日本には「国家」というものはなく、せいぜい藩とか地域共同体(ムラ)。そこで神まつり、仏まつり、先祖まつりを行ってきた。つまり地域の風土の中で一生を終えた。近代の国民国家は、神仏を切り離した。
●日本はもともと八百万(やおよろず)の神、八万四千の法門から生ずる仏。
●明治の近代国家になっても、日本人は明治以前の遺産を引き継いできたが、第二次大戦後になって、明治以前のものを捨て去った。「近代以前のものは意味がない」となってしまった。
●今は「近代の災い」が目につく。宗教の衝突・文明間の軋轢。近代以前の価値観を学び直すことが大切。

●仏教はグローバルなもの、神道はローカルなもの。神仏習合はグローバルとローカルの融合。そこから修験道が生まれた。
●今の若い人は、グローバリゼーションだけを教わってきた。これからはローカルの中でグローバルとどう付き合うか、どう棲み分けるかが大切。「日本らしさ」取り戻すべきである。

●(吉野大峯の)世界遺産登録を導いた。この地の自然を守ろうとしたからだが、逆に世界遺産になってから多くの人が来て、自然の破壊が進んだ。これを申し訳なく思っていたが、それも自然な流れであることに気がついた。
●共生は共死。人間は自然の中で生かされている。自然が死ぬことは我々人間が死ぬことだ。

わずか15分の中に、利典師の思いが凝縮されている。吉野大峯の素晴らしい映像もふんだんに盛り込まれている。ぜひ皆さん、この番組をご覧ください!
コメント (2)
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梅香語録(2)オレはチンドン屋になる

2016年01月25日 | 奈良にこだわる
うかうかしているうちに、半年が経ってしまった。昨年(2015年)7月10日、「梅香語録(1)今井は日本の「まちづくり」発祥の地や」という記事を当ブログに掲載し、大きな反響をいただいた。これは、今井町町並み保存会会長の若林稔(雅号:若林梅香)さんへのロングラン・インタビューの記録である。
※写真は「中世の町・今井の心を学ぶ」(奈良まほろばソムリエの会・啓発グループ)で撮影(2015.12.19)

若林さんは、1940年(昭和15年)橿原市今井町生まれ・在住。1959年に近畿日本鉄道株式会社に入社、乗務員経験を経て広報・企画などの仕事に携わる。近鉄を定年退職された2000年(平成12年)から、本格的に今井町のまちづくりに関わっておられる。

2011年(平成23年)、眞柄翔多郎(まがら・しょうたろう)さんが修士論文(千葉大学工学部北原研究室)執筆のために行った若林さんへの膨大なインタビュー記録(テープ起こし)を入手した。A4版で約80ページという資料で、若林さんのお宅に滞在し、1年をかけて録音されたものだ。最小限の加除修正を加えた上で、これを順次当ブログで紹介させていただくことにした。



前回記事を掲載すると、私のFacebookには「素晴らしい企画、歴史はこうやって残すものかと学ばせて頂きました。シェア致します」(Yさん)、「3回読み返しました。若林さんの言葉がじわじわきますね。今後の連載をとても楽しみにしています。写真もステキです」(Gさん)。

そして当の若林さんからは「もう4年たちましたね、学生たちに夜ごと語り続けてきた町づくりへの思い、まさかテープを録っていたとは思いませんでしたが、1年間撮りためていてくれてたんですからすごいですね 録音を気にしていなかったので素のまま喋っているのがいい、反面社会風刺も厳しいのでこれからはひやひやしながら見ていきます 大事に記録していきます!」とのメッセージをいただいた。

素(す)のままの言葉のテープ起こしなので特に今回は判読に苦労したが、若林さんのご助力を得て達意の文章に仕上げることができた。
これは若林さんが後半生を賭けて取り組む、今井町まちづくりの貴重な記録である(文責は私)。

 今井町 甦る自治都市―町並み保存とまちづくり
 八甫谷邦明
 今井町町並み保存会

■全国町並み保存連盟が発足
今井町が、妻籠(長野県木曽郡南木曽町)と有松(名古屋市緑区)の人たちと「立ち上げましょうか、集まりましょうか」いうて集まって、それが「全国町並み保存連盟」のルーツや。言いだしっぺが今井やったいうことで、ルーツは今井。で、これができた頃には、オレはまだまだ蚊帳の外。当時のことは『今井町 甦る自治都市―町並み保存とまちづくり』(八甫谷邦明著・今井町町並み保存会刊)に書いてあるが、はっきり言うて、ここに書いてある今井の行事の後半、人の動くような行事はオレが仕掛けた。だけど1行も載せてもらえんかった。それくらいオレの考え方って、理解しにくかったのかな!

■重要伝統的建造物群保存地区に
重要文化財が、そして今井町が歴史の中で認知されていく、学者通じて世間にね。そしてこの町を守ろうと、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)制度ができるわけや(昭和50年)。これは今井町を守ろうとするためにできた制度や。しかしそのとき、町を2分して賛成・反対が起こった。調停に入りながら「保存しよう」という方向に傾いて行った。ただ保存する条件のなかで「外は残すけど、中はそのまま残しませんよ。観光客は受け入れませんよ」という方向に向かっていくんや。行政は反対に観光客をどんどん入れたい雰囲気やが、町民の合意が「静かなたたずまい」なんで、なかなか入れんわな。

オレはというと、家の中も大事な文化財や、そして優れた機能を持っとる。今でいう「バリアフリー」はニセモノで、今井の民家こそ深ーい意味でのバリアフリーを持っとる。観光もそうや、まず外の人に見てもらわんとな。けど、ぞろぞろ連れ歩くツアーはごめんや。歴史だけでなく、民家で手作りのうまいもん食ってもらって、保存の意義を語り合えるような「教育観光」をやりたいんや、これは将来に向けての人づくりや。この考え方が、なかなか行政や町の人と合いにくいとこや。

今井町が重伝建に踏み切ったとき(平成5年)は、全国で37番目やった。重伝建という制度は今井町のためにできたけど、今井町はまっぷたつに意見が割れたから。そやから先に角館(かくのだて=秋田県)、妻籠とかどんどん選定されていくけれども、今井町は37番目。重伝建に選定されるにあたって、今井町住民協議会ができた。その協議会が今井町町並み保存会の前身ということになっとる。

(注:昭和53年2月「今井町保存問題に関する総合調査対策協議会」がスタート。その後、今井町住民による組織として「今井町住民協議会」を結成。昭和63年5月には住民の意思が町並み保存へ向けてまとまり、「今井町町並み保存会」に名称変更。「静かなたたずまい」として町並みを保存し、住環境を整備していく方向を打ち出し活動している。)

■各地で保存運動
六斎市(今井町並み散歩)で、ある程度人は来ていたけれど、もっと町民が多く動かなあかん、人を動かそうと仕掛けて行った。町並み保存が「補助金への依存に走っている」と感じたんで、「補助金から脱皮せなあかん」と。(重伝建に)選定された時分から補助金を取りに走った。

「ここを保存しなさいよ!」、当初の町並み保存連盟は、そういうとこやねん。政府とか行政が、本来の古い町並みを認めてないから「我々民間で、この貴重さを訴えて行こう」という団体が、今井町から立ち上げた全国町並み保存連盟や。
しかし今、保存連盟も行政も変な方向へ行っとる。「これ、文化的価値があるから、残さないと町が崩れて行くんや」と、必死でやっても限界があるから行政に陳情する団体であったり、「保存するために、これしてくれ」いうために起こったのが全国町並み保存連盟や。次第に連盟の力が強うなり、うまく時流に乗って保存運動が方々で起こるわけや。

それまで、古い町は朽ちて行くのが宿命やった。それを救うために立ち上げた住民運動が、いつの間にか、行政が主体になって再建基金を設けて動き始めとる。大量の補助金が投入されていくんや。カネが欲しいのは分かるけど、まずオノレ(己)が働かんなあかんわな! 働く前に「補助金くれ」言うとるわ、今は。そこがあかんと言うとるねん まず精一杯働けと。

一生懸命に働いて補助金もろてんのに「何ゆうとんねん」と馬鹿にされてたのがこの頃や。
行政にしても「こんな大金注入してるのに、有り難いたいとも思わんと、何やねん」と相手にもしてくれんかった時期かな。オレとしたら、こんな大金舞い込んできて、何もせんでも町が甦(よみが)えっていくのが、たまらんくらい嫌やってん。



■年に1度の一般公開
今井では重要文化財が9件指定された。重要文化財の義務の中に「一般公開せなあかん」ということがある。しかし住んでる家やから、四六時中は開けられへん。それで「年に1回だけこの日に決めて開けますよ」というのが一般公開や。

オレは第1回、町並み散歩の1回目から、「語りの書展」いうので、自分の思いを発表してきた。「この町は茶人・今井宗久の故郷や!」という思いや。語りの書展で、オレは「言葉」ばっかり書いてるでしょ。それを一個人として、ギャラリーを借りてやったんや。それが「銘工の館」のルーツになるんや。

ギャラリーにテーブルを置いて、そこに茶道具を展示する。「今井宗久の故郷ですから、お茶を復興させたいんです」いうのをうちに来てくれるお客さんに言い続けてたわけや。ギャラリーは個人で一軒の民家を借りて「個展」を開いたわけや。第1回目から。あのギャラリーを借りて、ずうっと六斎市(今井町並み散歩)の日にあそこを借りてな。

六斎市は一軒について2,500 円取るやろ? そのカネを払って町家を借りて、あそこでやった。言葉で訴えながら、作品で訴えながら、机にお茶の道具を並べてもろて。「この向かいのお寺は今井宗久ゆかりのお寺です、宗久いう茶人です」いうのを言い続けてきたわけや。それで、自分で今井の「お茶(茶道)を起こさんなんあかん」言い続けてたわけや。宗久のお茶の復興やな!


■茶行列体験
そんなわしの行動に当時の今井町町並み保存会の事務局長だった井上康二くんが「茶行列」の提案を持ち込んで、成立した。企画をすっかり任せてくれた。それが平成14 年で、「今井町並み散歩」の7 回目やった。今年は平成23 年で10 回目、町並み散歩は16 回目や(昨年=平成27年は20回目)。当初10 回は「茶人」をテーマにしてきた。10 年前にできた体験プログラムが「茶行列体験」。重文の家の公開と六斎市は、当初からあったんや。重文の民家公開と、今井六斎市と2つだけは16 年の歴史や。

町並み散歩の発想は「全部、人が動かんなんあかん」。大和茶の紹介、町角ギャラリー、パネル展、童謡を歌う会、今井茶屋、銘工の館、こんなん全部くっ付けていった。人手がいるものばっかりを付けて行った、それは人を動かすためや。

■お茶の発祥は大和
井上くんがウチにきて「若林さんいつも改革やと言い続けてきてはるけど、保存会も何かしようと思いますが、どうしたらいいんですか?」いうから「まぁ、いっぺん茶行列をしようや」と言うた。井上くんはずっと事務局長をしながら、会長補佐もしてたんや。彼がウチへきて「100 万円ほど補助金が出ますねん。若林さん言うてはるのんしようと思います、どないしたら良いんですか?」と。だからオレ、プログラムを書いた。

お茶は中国から日本に伝来した。京都や言われてるけれど、空海が持ち帰って、最初が大和や。室生のお茶へ、大和高原のお茶へと。そして今井町に今井宗久がいる。最盛期の宗久の茶室があって、各家にも茶室がいっぱいあんねん。欠けてるのは「茶の文化」や。

昔は交流・交際をお茶でやった。当時栄えとる交流を。お茶で信長も秀吉も、抑えることができた。その参謀格の宗久が今井の出身や。だから宗久を中心に茶行列したい言うた。「ほんならやりましょか」いう話になった。

■オレはチンドン屋になる
それが、10 日ほどの夢やった。ちょうどバブルがはじけはじめた頃やった。10 日ほどしたら「100 万円、取れないようになってしもたんです」と。そやけどオレも言い出して乗っかってしもたから「何とかするわ」と。捨てるようなボロ布で、今オレが着てるカーキ色の服を嫁さんに作らせた。「オレはこれで笑い者になるわ」いうて。

当時の茶行列の「札」(看板)いうたら、ベニヤ板に紙を貼っただけや。そやけどお茶はほんまもんにしたいから銘工の館に、奈良県のお茶道具つくる名人たち(久保左文、川邊庄造、西條一斎、竹村沙佳映、川崎鳳嶽)に来てもろて、そのかわり重文の家で展示してもろた。売れもせえへんのや。売れる売れないじゃなしに「奈良県にはこんな名工がいます、今井は茶道ゆかりの地です」いうのを広めるために。行列で歩く言うて、また嫁さんにハギレで衣装縫わしたん。それを奈良商工会議所が聞きつけて、「そんなええことするんやったら」いうて300 万円、ポンと出してくれた!

「300 万円出してくれるんやったら、ほんまもんの衣装作ろう」いうことで、関西テレビの衣装部にコンタクトとった。すると「京都の業者紹介するけど、今年には間に合いません。まずはウチの衣装を使って下さい」いうて、1年目は関テレの衣装を借りて、着付けも教えてもろた。その間に京都の業者に作らして、出来上がった衣装を今、着てるわけや。2 年目からや。

「オレたちはチンドン屋やけど、ほんまもんもある」いうことで、名工たちに入ってもろた。全国的に有名な名工ばかりや。茶筅(ちゃせん)の人やとか、茶釜の人やとか。東京の三越で展示会をやったりする連中ばっかしや。全部声かけに言って「お願いできませんか」いうて来てもろた。それが今も続いてるわけや。そうして行列を何とか作った。

■今井の町民にええかっこはささん、黒子になれ
あんたたち学生は着物着て行列に入ってるけど、今井の人は着てへんでしょ? 「なんで今井の人らは、着られへんのや?」て言われるけど、今井の町民は、その日は何十人何百人という人が黒子で動いてる。「たとえ1人でも、今井の人にええかっこはささん」いうのがオレのやり方や。

茶行列の日は、「今井の人は黒子になれ」と。あんたたちはお客さんやから体験さしてあげてるけども、(行列に出る人たちは)募集で成り立ってるんや。そやからいつもそこに募集してますって書いてある。行列を見物する人たちは、今井の人が着てると思ってるから「もっと笑顔を作れ」とか「ちょっとスタンドプレイやってもらえ」って言うけど、実情を知ったら、言わはらへんで。始めからスタッフを決めてて歩かすんなら「おまえらもうちょっと笑えよ」て言えるけど、初対面の(町外の)人らに着せるわけや。その点でもヨソと変わってるやろ。

その裏に何があるか言うたら、ヨソの人に見せるだけじゃなしに「(ヨソの人に)体験してもらう」いうのが1つと、町民は全部その日は黒子になって「スターを作らせない」と言うことや。「ええかっこは、さしませんよ」と。1人だけは行列の先導せなあかんから、町民は1人いるけど、それは道を順番に歩かなあかんから。



■茶人たちの里帰り
今井宗久という茶道の名人と関わった茶人(茶道に通じた人)たちを、今井につれて里帰りしてきた。約500 年の時を隔てて里帰りしてきたいう行列やねん、あれは。織田信長も茶人、秀吉も茶人。そして今井と関わりのある人や。武士としての関わりでは呼んでない。茶人として関わりのある人が、たまたま武士であったわけで、そこは徹底してこだわっている。

「何で、そこまでこだわらなあかんの」と言われるくらいこだわっている。お粥さんひとつにしても、思いきりこだわる。そこまでこだわる人づくりしないと、この町は残らんいうことや。並じゃ残らん。そうやろ、違う?

世の中を見ても、残ってる人って、全部こだわってる人ばかりでしょ。底抜けにこだわってる人だけが残ってるでしょ? そやから、こだわらなあかん。普通にしてて普通の生活ができるなら、こだわる必要はない。今井がかつて中世に築いてきた「普通」いうのは、超特級品や。今井の歴史の中で室町時代の今井ゆうたら超特級品でしょ?これが今井の「普通」なんでしょ?

あの時代に比べたら今は乞食ですよ、違う? 「再興」とか「復活」とか言うんやったら、その町の「頂点」を復興せな。町おこしとは違う。どんな方法とってもかまへん、かけるエネルギーが同じなら、どの方法とってもええけど、今井町はこんな「遺産」を「残されてしもた」んやから、そして住民が「保存」を選択したんやから。今井町を遺産に持つオレらのめざす再興・復興は、ここで働き、ここを守った中世の先人に近づくことや。

■勝手に残った町
だったら残されたんじゃなしに、「残してくれた町」という意識に変えて活用せなあかんいうのが、オレの原点や。この町はね「残した」のと違うんです。「残った」のですよ。「勝手に残った」んですよ。「意識して残した」ような町とは違うんです。まずそこに気がつかなあかん。廃藩置県(明治維新)なかったら、武士がそのまま居てたら、この町なんてそのままずーっと続いて、どえらい町になっとんで。こんな町にこんな家残さへんやろ。

今頃、超高層ビルここに立っとんで。外国ともどんどん行き来しとるで。それくらい当時は海外と、あえて商いしてた町やんか。そやろ? そやから僕が重伝建どうのこうの言う段階では単に古い町やから残してもええし、残さへんのやったらそれもええ。

オレが小学5年生のとき、橿原考古学研究所の所長さんから「この町は若林くんの町、残さんといかん古い町や」と聞いたけど、当時はそんなに意識していなかった。でも、今は違う、保存の価値が分かってしもたわ。



■保存の旗印にせなあかん
オレかて新しいの欲しいがってたからな。しかし「これにしよう」(保存しよう)と(町民が)決めたんやったら、そう決めた方に全力投球せなあかんのちゃうんか、いうだけの話や。たまたま重伝建で「この町を保存しよう」という気が生まれて、保存の方向に決定したんなら、保存を武器に思いきり活躍せなあかん。保存の旗印にせなあかん。

いらんのやったら重伝建をやめなさい。中途半端に取り組んだら、中途半端な残りかたしかしません。中途半端に残すんやったら、こんな重たい荷物を背負わなくてもええやんか。もっと楽にすっきり裸にして、そこそこ生活できる快適な家を作ったらええやないかい。そのかわり重伝建という肩書きを捨てて補助金ももらわない。

「補助金を渡しましょう」言わはる限り、補助金に見合う生活を自分たちがしないといかん。そこからどう(自分たちの生活の)快適を求めるかいうたら、自分たちが自立して自分らで経済と戦わなかったらしゃあない。

■建物を昔風に活用
「町並み保存」と言う限りは、復興する、建物を昔風に活用するのが一番と違うんか。それをどう活用したらええのか。ここは店先で商いしてきた(小売業の)町と違う。かつては商社でしょ?今も商社やったら一室だけあったら、商社としての仕事、できるんと違うの? そしたらその一室の値打ちを上げたらいいでしょ?

「今井ってすごい町や」と。すごい町やねん、あこに本店を置いてんねん。イコール信用があんねん。信用を付けんのには最高のもてなしをして、あの町は馬鹿正直やねんと。本当にもてなしてくれるねん、信用があんねんと。これ全部揃ってるのと違う?今の時代の暖簾いうのは、人づての「信用」。「今井ってすごい町や」という暖簾を掛けなあかんねん。

■今井はほんまもん
「箱物のすごい町が残ってんねん」。これは遺物が残っとるだけや。そやけど「町の人がすごいんや」いうようになったら、企業が動くわけや。なんで東京に本社置くのかいうのは「東京いうレッテルがなかったら、世界に通用せん」ゆうて東京へ行きよんねん。生産工場を方々においているのに、なんで本社だけ東京へ置くねん。東京というネームバリューでしょ。

いま「今井ってすごいねん、もてなしの町やねん、今井ってホンマもんやねん」っていうのが広がりつつある。そしたら「ほんまもんのところやから、来てくれ」いうたら(企業も)来やすいやんか。

■10 年かかってお礼返し
これ裏千家の本やねん。淡交社の編集者に、ウチ家に泊まってもらって書いてもらってん。こうして今井の建物を写し、今井の商品を写し、宗久いう名前を入れて、そしてお茶の道具師たちをここに載せてあげたとたん、向こう(道具師たち)から、今度は「ありがとう」いうて、これお礼返しや。

名工の館に無料奉仕で出展してもらってきたのを、10 年かかってお礼返しができたわけや。10 年間辛抱して、売れもせえへんのに出展してくれて…。この道具1つ、70 万円も80 万円もするわけや。そんなん誰が買えるの、あんな今井町並み散歩の市で。それが飽きもせんと出してくれて、今井の信用を高めてくれたから、この本に載せたわけや。

オレを通じて、今井で知り合ったお客さんに東京で茶釜を買ってもろたり、お茶筅を大量に注文してもろたり。「若林さんのおかげです」言うてくれた。これで恩返しできたわけや。恩返しできたと同時に、この人たち(道具師たち)は、今井を「ええ所や」とPR してくれるわけや。

■それは都市計画
一級品の人たちが「ええ所や」と言ってくれたら、今井がええ所になる。その次に「今井のこの空家で商いしたらどうですか」となる。そうなったら言いやすいわけや。そこまで先をじっくり待たないかんということや。だから一過性のイベントとは違う。亀井由紀子ちゃん(奈良女子大・東大大学院在学中から今井町をテーマに研究している)が、あんたみたいに勉強しにきてる時「若林さん、それはまちづくりちゃうな」って言ってた、それはまちづくりと違う。

「それは都市計画ですよ」って。「地域づくりですよ」と、「町超えてますよ」て。それくらい今井ってスケール大きいんや。ヨソみたいに、保存するたんびに、その場所を通り過ぎるだけで済むような経済(一過性のイベントや観光集客)と違うんや。それくらいスケールが大きいんや。


今井町がここまで知られるようになるまで、大変な陰のご苦労があったのだ。皆さん、続編をお楽しみに。若林さん、引き続き、今井をよろしくお願いします!
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鶴瓶の家族に乾杯に九度山町が登場(後編)、月曜夜8時から!(2016 Topic)

2016年01月24日 | 九度山町
先日(1/18)、NHK総合テレビ「鶴瓶の家族に乾杯」で「木村佳乃 和歌山県九度山町(くどやまちょう)ぶっつけ本番旅」(前編)が放送されることをお知らせした。いよいよ明日(1/25)は「後編」が放送される(午後8時00分~43分)。なお「前編」を見逃された方には同日(午後2時05分~2時50分)、再放送があるので、ぜひご覧いただきたい。
※写真はいずれも、番組のホームページから拝借した

前編では「高田金物店」が登場していて、ビックリ仰天した。ここはウチの親戚なのだ。美人の奥さんはずいぶんおトシを召していたが、やはり美人のおばあちゃんだった。イケメンのご主人とはお見合い結婚だったことも、初めて知った。このお店の前を川(丹生川=紀の川の支流)が流れていて、夏はよくここで泳いだ。


前編に登場された「九和楽」のご主人と奥さん

柿の葉ずしの「九和楽」(くわらく=苦は楽)のご主人(岡さん)と奥さんも登場していた。ここの柿の葉ずしは、とても美味しい。店頭販売は鯖のみだが、予約すれば鮭や椎茸(甘辛く煮たもの)も食べられる。椎茸は珍しいので、ぜひ予約してお召し上がりいただきたい。このお店は「真田庵」(真田父子が蟄居していた場所で、昌幸の墓もある)にも近い。真田庵の隣がそば処「幸村庵」で、私の小中学校の同級生が店長を務めている。信州・上田のそば粉を使っている。「後編」の予告が番組のHPに出ていた。

木村佳乃が和歌山県九度山町でぶっつけ本番旅を繰り広げる後編。木村は、静かに話しこむ2人の女性を発見。そこから不思議なガールズトークになってしまう。一方鶴瓶は、高野山を拝もうと山道を登っていると笑顔いっぱいの2人の女性に出会うことに。さらに道をすすめると、○○に出会えることになり幸せに包まれる。木村は柿畑を歩いていると男性に声を掛けられる。その後、あっという間にその人のお宅に伺う展開になるが…。

高野山をめざす鶴瓶は、女人高野「慈尊院」に立ち寄ったのだろうか、木村佳乃が立ち寄ったお家とは? これは期待が高まる。皆さん、ぜひ「鶴瓶の家族に乾杯」をご覧くださ~い!
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真田丸(2)決断

2016年01月23日 | 真田丸(NHK大河ドラマ)
日曜日(1/17)、NHK大河ドラマ「真田丸」第2話「決断」を見た。第1話同様、快調なテンポで話が進む。映像も音楽も、ドラマをうまく盛り立てている。堺雅人の口調は「半沢直樹」そのままで、これが堺流なのだろう。視聴率は関西地区では21.8%、関東でも20.1%をマークした、お見事!NHKのHPから「あらすじ」を拾うと、

信繁と信幸ら真田家一行は、甲斐の新府城を脱出し、父・昌幸の待つ上州・岩櫃城へと向かう。しかし、そこには野盗の群れが待ち構えていた。一方、勝頼は家臣たちの裏切りにあい、武田家は滅亡する。徳川家康ら織田方の大軍が、今まさに主家を失った真田家に襲いかかろうとしていた。真田家は、北条氏政につくか上杉景勝につくか決断を迫られる。

農民に変装して「落ち武者狩り」から逃れようとする信繁(幸村)一行のユーモラスなシーンが目を引いたが、一方、前回で主君・武田勝頼をあっさりと裏切って織田側に組した小山田信茂(おやまだ・のぶしげ)は「主君を裏切った不忠者」として、甲斐善光寺で織田信忠に斬首を命じられた。うーん、戦国の世とは、こんな世だったのだ。

念のため、コトバンク「小山田信茂」によると《戦国~織豊時代の武将。天文(てんぶん)8年生まれ。小山田出羽守(でわのかみ)信有の子。天文21年父の死で甲斐(かい)(山梨県)都留郡(つるぐん)谷村城主をつぐ。武田信玄の談合衆のひとりで,戦い上手でもあった。武田勝頼の滅亡のときうらぎったが,天正(てんしょう)10年3月24日織田信長に甲府善光寺で殺された。44歳。通称は弥三郎》。さて、第2話のあらすじを、「大河ドラマ特集 注目の見どころ応援サイト」から拾っておく。


第2話は、真田信幸と真田信繁は、母・薫と、祖母・とりらが、困難を乗り切って、岩櫃城へ逃れる話からとなります。史実でもこの逃避行は、苦労があったとされています。真田丸の話のなかでは、途中、百姓の落ち武者狩りにあいます。その頃、岩櫃城の真田昌幸のもとには、武田勝頼が小山田信茂の岩殿城へ向かったと言う知らせが届いていました。

真田信繁の一行には、命を受けた小山田八左衛門が現れて、捕えようとします。一方、小山田信茂に裏切られた武田勝頼一行は、田野にて最後の力を振り絞って滝川一益勢と戦うも、すでに40名ほどしかおらず、自刃して果てました。その夜、武田信玄の亡霊が真田昌幸のもとに現れますが、何も言わずに消え、佐助が悪い知らせを届けにきました。

真田信繁の一行に同行していた小山田八左衛門は、ついに刀を真田信幸らに向けますが、そこに手勢を率いた真田昌幸が到着し、小山田八左衛門らは逃走します。甲斐善光寺にて織田信忠に臣従を誓った小山田信茂は「主君を裏切った不忠者」として斬首を言い渡されます。岩櫃城に戻った真田昌幸らは、上杉景勝を頼るか、北条氏直につくか、思案しますが最終的に織田家に臣従する道を選びます。


うーん、今度の日曜(1/24)の第3話が楽しみだ!
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王寺駅周辺活性化研究会(27年度第1回)を開催! 観光地奈良の勝ち残り戦略(105)

2016年01月22日 | 観光地奈良の勝ち残り戦略
昨日(1/21)「平成27年度第1回 王寺駅周辺活性化研究会」が「王寺町地域交流センター」(リーベル王寺東館5階)で開催された。出席者は王寺町、奈良県立大学、近隣の観光協会(王寺町、三郷町、信貴山)、南都銀行などから総勢約30名。各メンバーの意思表明のあと、南都経済研究所による基調講演「奈良県の観光 現状と課題」が行われた。


まずは王寺町・平井町長の開会挨拶

今回の研究会をアレンジしたのは、南都銀行だ。同行は「まち・ひと・しごと創生総合戦略」への協力など、地域の課題解決や活性化をめざしており、その一環として、王寺町の雇用拡大や地域の活性化に取り組んでいる。


今回の研究会の仕掛人、南都銀行王寺支店・西元支店長による経緯説明

王寺町は面積がわずか7km2と狭く、大規模な企業誘致が困難なことから、地元の資源と資金を結びつけて事業化し、雇用の創出を図る必要に迫られている。そのため周辺地域に点在する聖徳太子ゆかりの観光スポットなどを活用した「観光振興による地域経済の活性化」が課題となっている。


南都銀行公務・地域活力創造部の西副部長

その課題解決のため今回、同行は王寺町および奈良県立大学と「官・学・金」連携を行い、「王寺駅を起点とした観光周遊ルートを策定」し、観光客の増加を図り、地域経済の活性化に努めることになり、それを「王寺駅周辺活性化研究会」の平成27年度のテーマとして取り上げることになった。


県立大学の大和(やまと)准教授。お隣は同・高津准教授

プロジェクトの名称は「聖徳太子ゆかりの地をめぐる広域観光開発プロジェクト」(仮称)。これからプランニングに取り組み、2017年10月からのプラン実施をめざしている。要は、多様な主体が連携し、広域観光の将来的な目標を定め、インバウンド対策も踏まえながら広域観光の課題を解決しつつ「聖徳太子ゆかりの地をめぐる広域観光圏の形成」を図ろう、という壮大な構想なのである。


県立大の学生たち。女子2人は、王寺町出身

参加者からは、県立大学の学生たちの「若くて柔軟な発想」に期待する声がたくさん聞かれたが、観光振興はプロが何年かけて取り組んでも解決困難なテーマ。学生たちに過度に期待を寄せるのではなく、研究会メンバー(多様な主体)がそれぞれの立場から、それぞれの強みを発揮し、会を挙げて「観光振興による地域経済の活性化」に取り組まねばならない。


南都経済研究所の丸尾主席研究員。良い話だった。また機会があれば紹介させていただきたい

王寺町や三郷町周辺には史跡が点在している。ゆかりは聖徳太子や達磨大師だけではなく、中世には松永久秀(信貴山城)も出た。古今集に詠われた三室山もある。かつての国鉄王寺駅の駅弁・柿の葉ずしは、美味しいと評判だった。

観光開発は地元をよく知ることから始まる。地元の観光資源を掘り起こし、それらを線でつなぎ面に広げることにより、魅力ある広域観光圏を作り上げてほしいものである。皆さん、大いに期待していますよ!
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