前回(8/21)のNHK大河ドラマ「真田丸」は、「第33回 動乱」だった。NHKのHP「あらすじ」によると、
秀吉の遺言をことごとく無視し、自らの影響力を強めていく家康。三成は家康を討つため伏見城下の徳川屋敷を急襲することを決意するが、暗殺計画は本多正信に漏れてしまう。正信は諸大名に危機を訴え屋敷の守備に駆けつけるよう呼びかけ、徳川につくかどうかを試す。一気に形勢不利となった三成を救うため、信繁は、昌幸のもとを訪ね、思いもよらぬ提案を行う。
今回はお待ちかね、平群町出身の武将・島左近が槍を振り回しながら登場。島氏は平群町(奈良県生駒郡)周辺の在地領主で、椿井城・西宮城を本拠にしていたといわれる。左近は俗に「治部少(石田三成)に過ぎたるものが2つあり。島の左近と佐和山の城」といわれるほどの逸材だった。
NHKのHPにも《玉置孝匡さん演じる島左近が登場。三成には過ぎたるものと謡われた知勇兼備の重臣が、主君を支え、家康に挑む》とある。同町の平群史蹟を守る会は『「平群谷の驍将 嶋左近【改訂版】」』1,000円を刊行していて、これは島左近を知るのにうってつけの一書である。
さて、「動乱」である。秀吉による天下統一で平和な時代が来たはずが、またまた「動乱」の世に戻る、という話である。秀吉の死後、家康は勝手な振る舞いを始め三成は我慢がならない。三成は秀吉の死の間際「家康を殺せ」と命じられていた。三成は「家康を生かしてはおけぬ」と、徳川屋敷を襲撃し、家康を討つことを決意し作戦を練る。しかし、この企ては徳川側に漏れてしまった。
しかも三成が家康暗殺で動いても、豊臣家の重臣たちは家康側につく。とりわけ三成の親友で、ともいうべき大谷吉継(真田信繁の正室の父)さえも徳川方について、家康の守りにまわる。大谷は重病(ハンセン病とも)を押して徳川屋敷に乗り込んだのである。結局、三成は徳川屋敷襲撃をあきらめる。これが「関ヶ原の戦い」の前哨戦ともいうべき「徳川屋敷襲撃」の一部始終である。
三成の人望のなさが見て取れるような筋書きだが、実際の三成は優秀な人であったのだろう。関ヶ原後の徳川プロパガンダにより、悪者にされているように思えてならない。藤丸タダアキさんも「豊臣政権の安定のために統制する側の人間として役割を全うしたのではないでしょうか。そんな三成が報われないのはその時代の事情ですね。今の時代に三成が生まれていれば、官僚から政治家となり、そして総理大臣でもできたかもしれないなと思います」と締めくくっている。
この回で信繁は、三成から「家康に対抗するため上杉を味方につけよ」との命を受け上杉景勝のもとを訪れる。しかし徳川を敵に回しては上杉が危うい。結局、上杉景勝は信繁の頼みには応じなかった。ところが次回「(34)挙兵」(8/28)では、家康は景勝を討つために挙兵、いよいよ関ヶ原の戦いが始まる、という皮肉なことになる。
さて最後は、いつものように藤丸タダアキさんに締めていただく。ブログ「地域活性局」から。
今回の大河ドラマでは徳川家康と本多正信の掛け合いがポイントです。実際は家康は話し相手程度に正信を使っていたでしょう。正信は真田信繁最後の大坂の陣でまた暗躍します。
真田丸33話動乱では、島左近、板部岡紅雪斎が登場しました。大坂の陣で活躍した武将が信繁であれば、関ケ原で活躍したのは島左近ですね。島左近は三成の股肱の臣で猛将です。三成と豊臣家官僚の戦争のキャリアを支えました。板部岡紅雪斎は北条家滅亡後、秀吉のお伽衆となっていました。そして家康の方に内応していました。
三成は利家を説得して豊臣家全体として家康を討とうとしました。しかし、家康方の方がすでに人数が多くなっていました。諸将の集まる居間の掛け軸は「八幡大菩薩」でした。徳川家は源氏を標榜しています。その源氏の戦いの神様は「八幡さま」ですね。
福島正則が三成を説得に来ました。三谷幸喜さんの演出では豊臣の子飼いは一応は仲の良い演出ですね。しかし、このころ既に子飼いのほとんどが家康についていました。細川忠興は三成の説得を跳ね除けます。細川はこの時迷ったでしょう。細川は実は前田家との紐帯を厚くしていました。細川忠興の長男忠隆の妻は前田利家の娘です。また、加藤清正にも罵倒されたことがあったようですね。
しかし、細川家は計算高さで時代を乗り切った家です。前田利家の死後、細川家は家康に従いました。大谷吉継は三成とも親しかったのですが、実は家康とも親しい関係でした。三成方で終始最後まで強力な味方は宇喜多秀家だけでした。
小早川金吾秀秋も出てきます。しかし、この金吾秀秋は三成に恨みがあります。三成は秀吉の命令で秀秋の所領の没収を主導します。なので、最後(関ケ原)まで曖昧なままでした。
真田丸33話動乱。動乱とは動き乱れることです。真田信繁のキャリアのハイは最後の大坂の陣です。33話にして動乱です。この後、どのようにまとめていくのでしょうか。
三成は結局、襲撃を諦めます。秀吉の死から少しずつ政権がぶれ始めました。三成は必死に動き回ります。しかし、三成は19万石、家康は250万石です。一度、戦国の世が太閤秀吉のもとに平和になりました。それが戦乱に戻ろうとしています。
諸将は強力なリーダーのもとで生き残りたいんですね。そして、三成は秀吉の意向に沿った政権運営の犠牲を引き受けていました。荒くれの大名たちを統制するための嫌われ役。それが三成だったのですね。
私は三成は日常における性格的な問題はなかったのではないかと思っています。むしろ、豊臣政権の安定のために統制する側の人間として役割を全うしたのではないでしょうか。そんな三成が報われないのはその時代の事情ですね。今の時代に三成が生まれていれば、官僚から政治家となり、そして総理大臣でもできたかもしれないなと思います。真田丸33話動乱の感想を書きました。
秀吉の遺言をことごとく無視し、自らの影響力を強めていく家康。三成は家康を討つため伏見城下の徳川屋敷を急襲することを決意するが、暗殺計画は本多正信に漏れてしまう。正信は諸大名に危機を訴え屋敷の守備に駆けつけるよう呼びかけ、徳川につくかどうかを試す。一気に形勢不利となった三成を救うため、信繁は、昌幸のもとを訪ね、思いもよらぬ提案を行う。
今回はお待ちかね、平群町出身の武将・島左近が槍を振り回しながら登場。島氏は平群町(奈良県生駒郡)周辺の在地領主で、椿井城・西宮城を本拠にしていたといわれる。左近は俗に「治部少(石田三成)に過ぎたるものが2つあり。島の左近と佐和山の城」といわれるほどの逸材だった。
NHKのHPにも《玉置孝匡さん演じる島左近が登場。三成には過ぎたるものと謡われた知勇兼備の重臣が、主君を支え、家康に挑む》とある。同町の平群史蹟を守る会は『「平群谷の驍将 嶋左近【改訂版】」』1,000円を刊行していて、これは島左近を知るのにうってつけの一書である。
さて、「動乱」である。秀吉による天下統一で平和な時代が来たはずが、またまた「動乱」の世に戻る、という話である。秀吉の死後、家康は勝手な振る舞いを始め三成は我慢がならない。三成は秀吉の死の間際「家康を殺せ」と命じられていた。三成は「家康を生かしてはおけぬ」と、徳川屋敷を襲撃し、家康を討つことを決意し作戦を練る。しかし、この企ては徳川側に漏れてしまった。
しかも三成が家康暗殺で動いても、豊臣家の重臣たちは家康側につく。とりわけ三成の親友で、ともいうべき大谷吉継(真田信繁の正室の父)さえも徳川方について、家康の守りにまわる。大谷は重病(ハンセン病とも)を押して徳川屋敷に乗り込んだのである。結局、三成は徳川屋敷襲撃をあきらめる。これが「関ヶ原の戦い」の前哨戦ともいうべき「徳川屋敷襲撃」の一部始終である。
三成の人望のなさが見て取れるような筋書きだが、実際の三成は優秀な人であったのだろう。関ヶ原後の徳川プロパガンダにより、悪者にされているように思えてならない。藤丸タダアキさんも「豊臣政権の安定のために統制する側の人間として役割を全うしたのではないでしょうか。そんな三成が報われないのはその時代の事情ですね。今の時代に三成が生まれていれば、官僚から政治家となり、そして総理大臣でもできたかもしれないなと思います」と締めくくっている。
この回で信繁は、三成から「家康に対抗するため上杉を味方につけよ」との命を受け上杉景勝のもとを訪れる。しかし徳川を敵に回しては上杉が危うい。結局、上杉景勝は信繁の頼みには応じなかった。ところが次回「(34)挙兵」(8/28)では、家康は景勝を討つために挙兵、いよいよ関ヶ原の戦いが始まる、という皮肉なことになる。
さて最後は、いつものように藤丸タダアキさんに締めていただく。ブログ「地域活性局」から。
今回の大河ドラマでは徳川家康と本多正信の掛け合いがポイントです。実際は家康は話し相手程度に正信を使っていたでしょう。正信は真田信繁最後の大坂の陣でまた暗躍します。
真田丸33話動乱では、島左近、板部岡紅雪斎が登場しました。大坂の陣で活躍した武将が信繁であれば、関ケ原で活躍したのは島左近ですね。島左近は三成の股肱の臣で猛将です。三成と豊臣家官僚の戦争のキャリアを支えました。板部岡紅雪斎は北条家滅亡後、秀吉のお伽衆となっていました。そして家康の方に内応していました。
三成は利家を説得して豊臣家全体として家康を討とうとしました。しかし、家康方の方がすでに人数が多くなっていました。諸将の集まる居間の掛け軸は「八幡大菩薩」でした。徳川家は源氏を標榜しています。その源氏の戦いの神様は「八幡さま」ですね。
福島正則が三成を説得に来ました。三谷幸喜さんの演出では豊臣の子飼いは一応は仲の良い演出ですね。しかし、このころ既に子飼いのほとんどが家康についていました。細川忠興は三成の説得を跳ね除けます。細川はこの時迷ったでしょう。細川は実は前田家との紐帯を厚くしていました。細川忠興の長男忠隆の妻は前田利家の娘です。また、加藤清正にも罵倒されたことがあったようですね。
しかし、細川家は計算高さで時代を乗り切った家です。前田利家の死後、細川家は家康に従いました。大谷吉継は三成とも親しかったのですが、実は家康とも親しい関係でした。三成方で終始最後まで強力な味方は宇喜多秀家だけでした。
小早川金吾秀秋も出てきます。しかし、この金吾秀秋は三成に恨みがあります。三成は秀吉の命令で秀秋の所領の没収を主導します。なので、最後(関ケ原)まで曖昧なままでした。
真田丸33話動乱。動乱とは動き乱れることです。真田信繁のキャリアのハイは最後の大坂の陣です。33話にして動乱です。この後、どのようにまとめていくのでしょうか。
三成は結局、襲撃を諦めます。秀吉の死から少しずつ政権がぶれ始めました。三成は必死に動き回ります。しかし、三成は19万石、家康は250万石です。一度、戦国の世が太閤秀吉のもとに平和になりました。それが戦乱に戻ろうとしています。
諸将は強力なリーダーのもとで生き残りたいんですね。そして、三成は秀吉の意向に沿った政権運営の犠牲を引き受けていました。荒くれの大名たちを統制するための嫌われ役。それが三成だったのですね。
私は三成は日常における性格的な問題はなかったのではないかと思っています。むしろ、豊臣政権の安定のために統制する側の人間として役割を全うしたのではないでしょうか。そんな三成が報われないのはその時代の事情ですね。今の時代に三成が生まれていれば、官僚から政治家となり、そして総理大臣でもできたかもしれないなと思います。真田丸33話動乱の感想を書きました。