tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

纒向遺跡出土の桃の種、卑弥呼の時代と一致!/「邪馬台国畿内説」を裏付け

2018年05月21日 | 奈良にこだわる
紹介するのが遅くなった。5月14日(月)付の夕刊および15日(火)付の朝刊に、桜井市の纒向(まきむく)遺跡から出土した桃の種が卑弥呼の時代と一致した、という記事が出た。これで「邪馬台国畿内説」(纒向説)の信憑性が一層強まった! ということになり、奈良県民としては嬉しい話である。

桃の種は135~230年のものだった。『魏志倭人伝』には《卑弥呼は239年、魏に使いをおくり、皇帝から「親魏倭王」の称号と印綬などをあたえられ、その使者たちもすべて称号と印綬をさずけられた》(『もういちど読む 山川日本史』)とあるからこの年代と符合する。箸墓古墳の築造時期(240~260年)にも近い。これで大型建物(桃の種が発見された纒向遺跡で建物跡が見つかっている)も、その頃(3世紀前半)だと推定できる。なお最近になって、大型建物の柱が復元されている。

纒向遺跡 柱復元で建物の規模再現


桃の種は2,765個も出土している(2010年の調査)。これが発表されたとき「昔の人って、そんなにたくさん桃を食べたの?」という質問を受けたが、これは食用ではなく祭祀用、つまりお供えとかお呪(まじな)いに使われたのだ、というのが一般的な解釈である。古代の桃は、硬くて酸っぱくて小さくて、食用には向かなかったのだそうだ。

桃が食用として広まるのは明治以降、中国から輸入された桃を品種改良されたものだ。桃は「桃源郷」(異界)という文字に使われたり、おとぎ話「桃太郎」にも登場する。『古事記』では、黄泉の国から脱出したイザナギノミコトは、桃の実を投げつけて黄泉醜女(よもつしこめ)から逃れたと書かれている。霊力のある果物とされたのだろう。

ともあれ、これで「卑弥呼の生没年―桃の種・大型建物跡―箸墓古墳」が一直線でつながったということになるのだ!もっとも九州説の高島忠平さんは「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」(朝日新聞)と反論しているのだが…。では最後に朝日新聞夕刊(5/14付)の記事全文を紹介しておく。

卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石
女王卑弥呼(ひみこ)がおさめた邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦135~230年とみられることがわかった。市纒向学研究センターの最新紀要で報告された。種は遺跡の中枢部とみられる大型建物跡(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。卑弥呼が君臨したとされる時代の可能性が高まった。

特集:纒向(まきむく)遺跡
センターによれば、桃の種は2010年に大型建物跡(南北19・2メートル、東西12・4メートル)の南約5メートルにある穴から約2800個みつかった。祭祀(さいし)で使われた後に捨てられた可能性などが指摘されている。

中村俊夫・名古屋大学名誉教授と、近藤玲(りょう)・徳島県教育委員会社会教育主事が、それぞれ加速器質量分析(AMS)による放射性炭素年代測定を実施し、測定結果を、18年の纒向学研究センター研究紀要「纒向学研究第6号」で発表した。中村さんは15個を測定し、数値の読み取れなかった3個を除いた12個について、135~230年と分析。近藤さんも桃の種2個で同様の結果が出たほか、土器に付着した炭化物やウリの種も分析し、100~250年の範囲に収まる可能性が高いとした。

邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録され、その時代は卑弥呼が倭(日本)王に共立され、死去するまでの2世紀末~3世紀前半とされる。邪馬台国の所在地をめぐっては、主に九州説と近畿説が対立してきた。

大型建物の年代は、センターが土器形式など考古学の手法で3世紀前半とみてきた一方で、九州説を唱える専門家を中心に4世紀以降とみて、邪馬台国とは無関係との見方もあった。今回の分析結果は所在地論争に影響を与えそうだ。

市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「科学的な分析で我々の考える範囲内に収まった。土器の年代など考古学的な見方も加え、大型建物が3世紀前半と裏付けられた」と話す。

一方、九州説を主張する高島忠平・佐賀女子短大元学長(考古学)は「放射性炭素のデータが建物の実年代を指しているのかどうかは、まだ確実とは言えない。仮に正しい年代としても邪馬台国とは別の連合勢力がヤマトにいた、ということにしかならないのではないか」と反論する。

研究紀要は16日から、桜井市立埋蔵文化財センターで販売する。1冊千円。問い合わせは桜井市文化財協会(0744・42・6005)。(渡義人、田中祐也)

〈纒向遺跡〉 奈良盆地東南部の三輪山西側に広がる東西約2キロ、南北約1・5キロの弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡。卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳など最古級の前方後円墳が点在し、ほぼ東西に方位をそろえて並ぶ神殿のような建物跡も出土。関東から九州まで各地の土器が出土し、運河が縦横に走るなど都市機能を備えていたとされる。
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南都銀行OB・OGによる美術展(第5回)/6月6日(水)~10日(日)、奈良市美術館(「ミ・ナーラ」5階)で開催!(2018 Topic)

2018年05月20日 | お知らせ
「なんとぎんこうOB美術展」は、南都銀行のOB・OG有志で、腕に覚えのある方々が自信作を持ち寄って出展する展示会である。美術分野に限らず、写真や書、陶芸、木工、ガラス工芸などの展示がある。2009年に始まり、これまで4回開催されてきた。
※トップ画像は、南都銀行の社内報(2018年春号)から拝借した

今回も奈良市美術館で開催され、6月6日(水)~10日(日)10:00~17:30(入館は17:00まで)最終日は15:00まで、入場無料。お世話役(実行委員)は、私のもと上司・吉村好正さん(奈良市五条町)である。いただいたパンフレットからご挨拶文を抜粋すると、

なんとぎんこうOB美術展は、おかげさまで回を重ね第5回を迎えることができました。これもひとえに皆様のおかげと感謝申し上げます。今回の美術展は出展者55名、32ジャンル、出品数162点になりました。

オール南都の文化活動として、退職者の交流の場として、南都銀行と共に発展いたしたく存じます。今後ともこの美術展を継続いたしたいと考えております。時間の許す限り、ごゆっくりとご高覧賜りますよう、お願い申し上げます。




今回、吉村好正さんは「奈良一刀彫」を展示される。吉村さんの作品は、南都銀行大阪中央営業部のショーウインドーでも展示されているので、これを拝見してきた(美術展への出品作とは別の作品)ので、紹介しておく。なお「一刀彫」とは、『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』によると、



素彫りの木彫に金箔や岩絵具で極彩色をほどこした人形。稜角と面を強調する切り味鋭い刀法に特徴をもつ。『大日本名産図会』が「銘物はさっと彫たる奈良人形 これそ春日の作といふべし」と紹介するように、「奈良人形」が伝統的な名称。檜材を用いるが、大きな作品には楠や桂、朴なども使う。



作品は、春日社の祭神を乗せたところから「神鹿[しんろく]」として尊崇されてきた春日野の鹿、高砂や猩々[しょうじょう]・熊野[ゆや]などの能・狂言、蘭陵王[らんりょうおう]や万歳楽などの舞楽などに題材をとったものが多い。



奈良人形の成立は、室町時代に遡る。春日若宮社の祭礼(おん祭)に参列する田楽法師が頭上につける花笠の台座と饗応用の島台を飾る小さな人形(尉[じょう]と姥[うば])がそのはじまりとされる。岡野松寿家の代々は、江戸時代を通じて、よく知られた奈良人形師であった。また幕末から明治期には、森川杜園[もりかわ・とえん]が活躍した。


このような力作がずらり登場する美術展、ぜひお訪ねください!
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高校の修学旅行先、断トツは「四国」!?/四国が25%、関西は17%とか…

2018年05月19日 | 観光にまつわるエトセトラ
驚きの調査結果が発表された!Jタウン研究所の「高校の修学旅行の行き先」調査によると、なんと約4分の1が「四国」と答えたというのだ。2位の関西は17%、3位の九州は12%。しかも、東京都と沖縄県以外のすべての都道府県で「1位=四国」だというのだ。JタウンネットのHPによると、

高校の修学旅行、まさかのエリアが無双(無敵)状態だった
2018年3月18日から5月14日までJタウン研究所で行われた「高校の修学旅行の行き先、どこだった?」。その結果が出そろった。東京出身の筆者は、「まあ京都、大阪あたりがテッパンだろ…」と思っていたところ、東京都以外の結果を見ると、1位に並んだのはなんと、四国地方だったのである―。

まず、総得票数は2375票。最多得票となったのが「四国」で588票(24.8%)、2位が「関西」で400票(16.8%)、3位は「九州」で279票(11.7%)となった。最少得票数だったのが88票(3.7%)を獲得した北陸だった。

次に都道府県別にみると、なんと「関西」が1位となった東京都と、「沖縄」が首位の沖縄県を除いた45道府県で「四国」が1位に。沖縄県でも2位には「四国」が入っており、そのシェアの高さは特筆される。なお、東京では「関西」「九州」「北海道」と続き、「四国」は下から2番目の得票数(20票・2.2%)となり低調だった。

2014年に行った「結果発表!地方別『修学旅行の行き先』、あなたはどこだった?」では、「関西」や「東京」、「九州」の3地方で全体の7割を占める結果となったが、高校の修学旅行となると面白いほどに「四国」に集中。同僚記者などに聞いても「修学旅行で四国に行った」という人はおらず、これはもしや四国に愛のある人による陰謀ではあるまいか、と一瞬疑ったほどだった。

ただ、少しネットで調べてみると、「おいでんか四国・松山」というサイトを見つけた。四国を含めた修学旅行のルートなどを紹介する、愛媛県松山市が作ったサイトのようである。これによると、市内には正岡子規の博物館や松山城、坂の上の雲ミュージアムなど、さまざまな観光施設・学習素材が中心部にあることから、「短い時間でも内容の濃い体験」ができるとしている。

他にも、香川県では金刀比羅宮やうどん体験が出来たり、徳島県では阿波おどり、観潮船があったり、高知県ではカツオのわら焼き体験が出来たり、桂浜があったりと、盛りだくさんの魅力に満ちていることをサイトではアピールしている。

瀬戸内海に面しており、修学旅行の少し寒い時期でも比較的過ごしやすい気候で、あえてメジャーな関西圏、九州圏からハズした独特の魅力があるからこそ、四国がこんなにも高校の修学旅行の行先に選ばれるのかも―?


かつて松下幸之助翁は、瀬戸内海を「天与の尊い宝物」と絶賛していた。今は本四連絡橋からの眺めもいい。四国は年配者もお遍路としてたくさん訪れるが、高校の修学旅行とは、盲点だった。「おいでんか四国・松山」(愛媛県松山市への修学教育旅行のご案内)には、児童や生徒たちが楽しめる体験メニューが満載だ。

奈良も社寺という「天与の尊い宝物」はたくさんある。これらに楽しい体験メニューを付け加えて、ぜひトップの座を挽回してほしいものだ。

※5月23日(水)追記 「四国が断トツ」がどうも腑に落ちないのでヒアリングしました。
1.香川県高松市(私のヒアリング)
Jタウン研究所の調査結果は地元紙でも報道され話題になったが、高松市を見ている限り、そのような現象は全く見られない。高松の観光名所というと、栗林公園や高松城、少し足を伸ばすと金刀比羅宮、ということになるが、高校生の集団の姿を見たことがない。松山市が頑張っている話は聞くが、それで断トツになるとも思えない。
2.徳島市(知人のYくんのヒアリング)
そのような話は聞いたことがない。松山市が広島市とタッグを組んで誘客しているという話は聞くが、それで全国から高校生が来るとは思えない。
3.愛媛県松山市(知人のYくんのヒアリング)
県外で修学旅行の営業をかけた結果、小中高の修学旅行が増えている。関西、中部・東海地方が特に多く、リピーターになっている学校もある。
4.知人のMくんの話
調査に偏りがあるのではないか。東京における「四国」の得票数は20で、これが2.2%になるということは、東京の総数(=東京在住の回答者数)は909票ということになる(20÷2.2×100=909)。909票という数字は、全体の約4割を占める(909÷2375×100=38.3%)。
総得票数は2375票で「四国」の得票数は588票なので、東京を除く46道府県の総得票数は1466票(=2375-909)。このうち「四国」の得票数は568票(=588-20)。ここから東京を除く46道府県の「四国」の得票率をはじくと38.7%(=568÷1466×100)とあまりにも高い。つまり、
・サンプルのうちの東京在住者のシェアが38.3%と異常に高い。
・「四国」との回答は東京在住者は2.2%なのに、東京以外の在住者は38.7%と異常に高い。これは通常ありえない乖離である。
・従って、どこかで計算を間違っているか、信頼度の低い調査であるということになる。
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吉野町・龍門岳のふもと龍門寺跡/岡寺と並び称された古刹(毎日新聞「ディスカバー!奈良」第65回)

2018年05月18日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。先週(5/10)掲載されたのは「神仙境の名刹 吉野町の龍門寺跡」、執筆されたのは、姫路から来た優等生こと池内力(ちから)さんである。姫路市出身・在住ながら、頻繁に奈良に足を運んで下さっている。龍門寺跡は、「スマイルバスで行くディープな吉野の旅」でお訪ねになったのだろうか。
※トップ写真は龍門寺の下乗石(聖域との結界を示した石標)

龍門といえば「公益財団法人 阪本龍門文庫」が思い浮かぶ。龍門に生まれた阪本猷(さかもと・ゆう)氏が収集された和漢の古典籍を集めたライブラリーである。猷氏のお父上の阪本仙次氏は、吉野の大実業家で吉野銀行頭取だったし、ご親戚の阪本龍兒氏(龍門のご出身)は、長らく南都銀行(吉野銀行など4行が合併してできた銀行)の頭取をお務めになった。

ところで龍門寺である。『日本国語大辞典』の「龍門寺」によると、「奈良県吉野郡吉野町、龍門岳(904メートル)の南側のふもとにあった寺。義淵の創建で、久米仙人が修行したと伝えられる」。『世界大百科事典』の「岡寺」には「(岡寺は)義淵僧正が草壁皇子の岡宮(岡本宮)を天智天皇より授けられて寺としたと伝えられる。(中略)吉野郡にあった竜門寺と共に興福寺別当の兼帯の重要寺院とされてきた」とある。ともに義淵僧正が創建した寺で、西国三十三所の一つである岡寺と並び称される大寺だったのだ。では、池内さんの記事全文を紹介する。


龍門の滝

神仙境の名刹 吉野町の龍門寺跡
龍門寺(りゅうもんじ)は奈良盆地と吉野を隔てる龍門岳の南麓(なんろく)にあり、奈良時代に義淵(ぎえん)僧正が創建したと言われています。平安時代には藤原道長も参詣した名刹(めいさつ)ですが、戦国時代に廃寺になってしまいました。

集落から近畿自然歩道を北に進めば、金剛界四方仏が彫られ、1333(元弘3)年の銘がある下乗石(げじょういし)が迎えてくれます。さらに登ると、県指定史跡である塔跡があり、ほぼ完全な形で礎石が残っています。心礎と隅礎石に円い穴が彫られているのが特徴です。奥には本堂、六角堂、宿坊の跡とされる場所がありますが、谷間なので宮都の寺院とは違う伽藍(がらん)配置だったと考えられています。

途中には龍門の滝があり、江戸時代に訪れた松尾芭蕉は「龍門の花や上戸(じょうご)の土産(つと)にせむ」などの句を残しています。吉野が神仙境とされていたことが実感できる地であり、吉野町森林セラピーも行われています。
 
【メモ】近鉄大和上市駅からコミュニティバスで「山口」下車、北へ徒歩約15分(奈良まほろばソムリエの会 池内力)。


奈良はミナミが面白い。皆さん、奥深い吉野をぜひお訪ねください!

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にゃらまち猫祭り2018/6月1日(金)~7月1日(日)開催!

2018年05月17日 | お知らせ
今年も恒例の「にゃらまち猫祭り」(主催:にゃらまち猫アート実行委員会)が開催される。JAPAN ATTRACTIONSのサイトには、

猿沢池から南に広がる奈良町。町屋が軒を連ねる、この古い町で10年以上続く「にゃら町猫祭り」がスタートします。参加店50店、お食事、雑貨、お菓子、美容室、着物の着付け、本屋、猫カフェ。所狭しと多種多様なお店が、猫達のアイテム満載で皆様のお越しをお待ちしております。

ぜひ今年も、「にゃらまち猫祭り」に足をお運びください!



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