透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「水立方」

2006-12-17 | A あれこれ

2008年8月8日午後8時

北京オリンピック開幕の日時、中国では「8」が大変縁起のいい数字とされていて、このように決まったと以前雑誌で読みました。

オリンピック施設の話題をときどき目にします。「建築技術」という雑誌にも載っていました(06年12月号)。メインスタジアムはユニークな外観から「鳥の巣」の愛称で呼ばれています(以前ブログに書きました)。

そして、水泳会場の愛称が「ウォーターキューブ」。両方の施設に日本のメーカーが開発したフッ素樹脂フィルムが大量に使用されるとのことです。

http://www.agc.co.jp/news/2006/1004.html

このようなデザイン、大変ユニークだとは思いますが、どうも「美しい」とは思えません。オリンピック期間中だけの仮的な施設ならいいのでしょうが、その後長年使用するとなると、それに相応しいデザインかどうか、この地域に特異な景観を創り出しそうで気になります・・・。

オリンピック施設というと、1964年の東京オリンピックに備えて造られた代々木体育館を想起します。斬新で大胆なデザインだと思いますが、良好な都市景観の形成に大いに寄与していると思います。やはり丹下さんの造形力は天才的だった、そう思います。丹下さんが常に都市との関係を考えていたということはよく指摘されていますが、あの体育館を見るとそう実感します。

「ウォーターキューブ(水立方)」や「鳥の巣」に限らず最近の建築はなぜか自己完結的なものが多いと思います。内藤さんの表現を借りれば「世界中どこにでも降り立つ宇宙船のような建築」。

そろそろこのような均質な(と表現すべきか画一的なとすべきか)建築を卒業しなければ・・・。確かに雑誌などで見る最近の建築デザインは斬新で個性的ではありますが、単に奇を衒っただけのものが多いように思います。

地域性、場所性、都市などの文脈上に建築をどう位置付けるか。是非とも考えなくてはならないテーマですが、難しくて簡単に書くことはできません。じっくり論考しなくては・・・。ま、論文を書くわけではありませんから、気楽にいつか書いてもいいとも思いますが。

機会があれば、と先送りしておきます。 

 


街並みの魅力

2006-12-15 | A あれこれ

代官山ヒルサイドテラスの魅力を解くカギは公的な(街に開かれた)空間と私的な空間の巧みな構成、相互の建築・空間を関係付ける「リンケージ」という概念、それによって創出されるグループフォーム(群造形)としての全体のまとまりということでした。機会があれば代官山を再訪してじっくり観察してから魅力の分析をしたいと思います。

安藤さんの表参道ヒルズがこのような考え方によって設計されていたら・・・。大きな建築ではなくていくつかに分節して、お互いをリンケージさせて全体としてまとまりのある空間として構成する・・・。そうすれば全く異なる雰囲気のヒルズが出現したでしょう、きっと。

表参道はさながら現代建築の見本街といった様相を呈しています。個々の建築は創意に満ちているかも知れませんが、美しくて魅力的な街並み形成に貢献しているといえるかどうか・・・。あの通りが魅力的なのはケヤキ並木に因るところが大きいと思います。もし「緑の回廊」が無かったら、あれほど人が集まる街になっていたかどうか。どうも答えは否、私にはそう思えます。

代官山ヒルサイドテラスはあの辺一体の地主だった朝倉家の「良質な生活環境の創出」という願いを槇さんが30年以上もかけてじっくり実現してきた街、極めて稀で幸運な事例ということなのかも知れません。

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新潮社から新しい雑誌が創刊されました。
この創刊号に川上弘美さんの小説が載ってますよ、と友人に教えてもらいました。


グループフォーム 本編

2006-12-14 | A あれこれ



「知的で上品」 建築家槇文彦の風貌にも建築作品にも当て嵌まる。

このブログを始めてまもなく、「顔文一致」というタイトルで書いた(06/04/23)。その中で、「建築作品はその設計者の体型に似る」という自説を披露しておいた。ドイツの精神病理学者、クレッチマーは体型と気質との間には相関性が見られる、と唱えたがそれに倣って私はそのように考えていたのだが、どうやら「建築作品はその設計者の風貌に似る」と修正した方がよさそうだ。

槇さんの作品はどれも実に知的で端正で美しい。今から20年以上も前のこと、1983年の9月にYKKのゲストハウスを見学したが、それが槇さんの作品をじっくり見た最初の機会だったように思う。京都国立近代美術館もその後見学しているが、美しい階段が印象に残っている。

槇さんには秀作が多いが、代表作品として代官山の一連のプロジェクトを挙げる人が多いのではあるまいか、私も同作品を挙げる。↓
http://www.hillsideterrace.com/history/index.html

前稿に載せた『現代建築の軌跡』で槇さんは代官山ヒルサイドテラスを例に挙げて、「グループフォーム(群造形)」について語っている。

**同じフォームとかタイプを変形しながら連続するのではなく、時代とその場所に適合することをもっと大切にする。「グループフォーム」を、もう少しゆるやかに解釈して、多少変形するにせよ一つの形態を繰り返すのではなくて、多様な「リンケージ」でつなぐことを重視すれば、形態に厳密な一貫性がなくても、あるまとまった集合をつくることができる。**

ヒルサイドテラス全体の空間構成を読み解くポイントは、「グループフォーム」と「リンケージ」。

**ヒルサイドテラスでの「リンケージ」は、人の動きを誘うような仕掛けあるいは構成要素で、たとえば樹木のグリーンも、大小の違った形であちこちに現れるとか、広場も大小のものが連鎖すると、歩いているだけで、なんとなく、まとまりを感じます。(中略)外の風景と内の風景を一緒に体験することができ、絶えず街の一部だという感覚を失わないで済む。いずれも、形こそ違え原則をリピートすることによって、「リンケージ」を何気なく連鎖させ、それによって、一つの集合体としての全体性が表れてくることを狙っているのです。** linkage  結節、結合、つながり

引用が長くなったが、要するにゆるやかな同調、統合によって全体を一つのまとまりとしてイメージさせている、ということ。林雅子の建築展を観るために久しぶりに代官山を訪れたのは2002年の9月のことだった。駅の周辺はすっかり様変わりして、随分俗っぽい街になってしまっていた。 機会があれば再訪してヒルサイドテラスをじっくり観察したい。『記憶の形象』も再読しなくては・・・。

 


グループフォーム

2006-12-13 | A 読書日記



『現代建築の軌跡』川向正人/鹿島出版会 のサブタイトルは「建築と都市をつなぐ思想と手法」です。2002年から2004年にかけて開催された公開対談をまとめたものです。川向さんの対談の相手は上の写真で分かる15人の建築家達でした。

過日、安藤さん設計の「表参道ヒルズ」が都市との関係を断ち切った自己完結的な建築だと書きました。内部にショッピングストリートをスパイラル状に詰め込んだ建築だとも書きました。

ところで表参道から程近い青山に「スパイラル」という名前の建築があります。設計したのは槇文彦さん。

その槇さんとの対談もこの本に収録されています。建築と都市との関係を考える上で大変興味深い内容です。そのことについて書こうと思います・・・。
タイトルはグループフォーム(群造形)、福祉施設のグループホームとは違います。

今回はその予告、次回書くことにします。


○『空間の詩学』ガストン・バシュラールは、現在ちくま学芸文庫に収められています。


武士の一分 映画と原作

2006-12-12 | A 読書日記


アルコールなブログ。

「武士の一分」の原作の『盲目剣谺返し』は文春文庫に収録されている(写真)。確か前にも書いたが、文春文庫の背表紙はピンク、藤沢周平のイメージではないのであまり手してこなかった。久しぶりに、ピンクの背表紙を購入。今日の昼休みに読んだ。映画はかなり原作に忠実につくられていることが分かったが、もちろん異なるところもある。今夜はその辺について書いてみよう。

映画では桃井かおりがキムタク(新之丞)のオバちゃん役で登場するが、原作ではふたつ年上のいとこになっている。キムタクに好意を寄せていて結婚を望んでいたが、別の男と結婚して今では子どもがふたりいる。

彼女の台詞を私なりに「ちょっと、うちのダンナが染川町で加世ちゃんが男と一緒のところを見かけたらしいんだけど、しんちゃん、大丈夫なの?」

映画でもキムタクは視力を失ってからも木剣を振ってトレーニングしているが、原作はすごい。飛来する虫を気配で察知して木剣で打ち落とす!!ことができるようになるのだから。

加世の不倫相手はキムタクの上司、近習組頭の島村籐弥という男だった。女癖が悪くてどうしようもない男だが、頭脳明晰、剣の腕もたつという設定。原作では歳が三十四となっているが映画では、中年のオッサンだった(何歳の設定かは不明)。

さて、スケベなオッサン島村との果し合い。原作ではキムタクが島村の頚の血脈を一撃で断つが、映画では腕に重症を負わせるだけ、翌日島村は自害して果てる。

そして、こらえきれずに涙したラストシーン、具体的には書かないでおく。映画は山田監督のオリジナルな演出かと思ったが、原作と細部は異なるがほぼ同じだった。
広島は呉の地ビールが効いて来た・・・。この辺で、オシマイ。


空間の詩学

2006-12-11 | A 読書日記



前々稿「テンプレート」で構造家の佐々木睦朗さんの書名『構造設計の詩法』をなぜか間違えて『空間の詩法』としてしまった(今日訂正しておいたが)。 よく似た書名に『空間の詩学』がある。哲学者で詩人のガストン・バシュラールのこの著作は建築を志す者の必読書といわれていた(一応、過去形にしておく)。

メモによると30年以上も前、75年の5月に読んでいる。所々にサイドラインがひいてあるから読んだとは思うが内容を全く忘れている(今は線をひく替わりに付箋紙を貼ることにしている)。書名を間違えたのは、この本を再読せよ、ということなのかも知れない・・・。次から次へと読みたい本が出てくるがいつか再読してみようと思う。



ところで、先日夜きれいなスポットとして「まつもと市民芸術館」のあわあわな光の壁を挙げたが、ここも挙げておきたい。

適度に「暗い」照明、内部が立体的に浮かび上がっている。コードペンダント他、照明計画がいいのだろう(この写真では分かりにくいが)。サッシのフレームの縦長の割り付けもなかなかいい。グリーンの文字が都会的でおしゃれ。
ここは昼より夜の方が断然きれいだ。別にスタバのファンというわけではない、ただ夜景がきれいだ、と思うだけ。

ここの2階は落ち着いて本を読むことができる空間。休日に『空間の詩学』を持って出かけよう・・・。


武士の一分

2006-12-10 | E 週末には映画を観よう

昨日(9日)「硫黄島からの手紙」が封切りされました。「007 カジノ・ロワイヤル」も公開中、そして「トゥモロー・ワールド」も。

山田洋次監督の映画は「寅さん」でもそうですが、「情」とか「絆」をうまく描いていますね。この「武士の一分」もやはりテーマは「情」そして「絆」。

藤沢周平の小説によく登場する海坂藩。藩主の食事の毒見役のキムタク、新之丞が貝の毒にあたって失明してしまいます。それまでの幸せな生活が一変。再び幸せな生活を取り戻すことはできるのか・・・。物語はシンプルですが、これから観る方のために紹介はしないでおきます。

笹野高史さんが実に渋くていいです。キムタクと美しい妻役の檀れい、ふたりの演技を映画での役柄同様にうまくまとめています。

以前S君(知人、友人には頭文字がSの人が何人もいます)から借りた藤沢周平の短篇を朗読したCDでも笹野さんはいい味を出していました。

新之丞が妻の密通を知るのは別の方法で、住まいのセットにはもっと生活のにおいが欲しかった、果し合いのシーンにはもっと迫力が欲しかった、美しい鶴岡の自然が見たかった、時代劇に特有のなんと表現すればいいのか、「深み」かな、それが欲しかった・・・。

挙げていけばいろいろ出てきますが、そのことはこの際置いておいて、なかなかの映画だったと思います。キムタクは時代劇でもキムタク、そのことに拍手です。特に失明してからの彼の目、キムタクファンにはたまらないでしょうね。

藤沢周平の作品は新潮文庫でかなり読みましたが、この映画の原作となった短篇は未読です。文春文庫『隠し剣秋風抄』に収録されている短篇、さっそく読んでみようと思います。

今回はいつもの建築(A)、本(B)ではなくて映画(C)の話題でした。


テンプレート

2006-12-10 | A あれこれ


写真はこの椅子を扱っている会社のHPから転載しました。

20世紀を代表する建築家の一人、ミース・ファン・デル・ローエが1929年にバルセロナ国際博覧会のドイツ館(ミース自身が設計)の為にデザインしたのがバルセロナチェアです。有名な椅子です。デザインが美しく今でも愛用しているファンが多いと聞きます。

ミースは近代建築を代表するふたつの素材、鉄とガラスによって抽象的で美しい建築を創りました。とにかくミースは「美しい」ということを最優先していたかのようです。

そのミースがデザインした「バルセロナチェア」、美しいですね。ミースについては『構造設計の詩法』で佐々木睦朗さんがガウディと共にとり上げている建築家です。伊東さんの「せんだいメディアテーク」を卓越した構造センスによって具現化した佐々木さんが対照的なふたりの建築家をとり上げている。興味深いです。「せんだい」は先日書いたようにミースをガウディが貫いた構造なのですから。

藤森さんが建築家を赤派と白派に分けてみせたということも書きましたが、赤派の祖はル・コルビュジエ、そして白派の祖がこのミースだと説明しています。

前置きが長くなりました。そろそろ雰囲気を変えようとテンプレートを探していたところ、バルセロナチェアを見つけたのです。

「ミース」、ガウディの「バルセロナ」 ブログに書いたばかりでした。「ちょうどいい!」と思ってこのシンプルなデザインのテンプレートにしました。

ま、本当は来年からとか301回目からとか変更のタイミングも考えましたが特に意味もなく昨日変更しました。

ミースは建築より先に家具製作や装飾について勉強したそうですね。佐々木さんの本によると現在のドイツ館は1986年にミースの生誕100年を記念して同じ場所に復元されたものだそうです(そのことは知りませんでした)。

端正で美しいプロポーション、佐々木さんはミースの作品のなかでも最も好きなもの、と書いています。

最近よくとり上げている伊東さんの作品、知的で、すばらしいとは思いますが、私はミースの作品のように「美」をそれほど感じることはありません。それはなぜか・・・機会があれば書こうと思います。


符合

2006-12-09 | A 読書日記


伊東さんが「ガウディを目ざす」と何かの席で言った・・・。藤森さんの本でそのことを知ったと前稿に書きました。

そういえば伊東さんのパートナーで構造家の佐々木睦朗さんも『構造設計の詩法』住まいの図書館出版局 で最初にガウディをとり上げていました。

ガウディか・・・

偶々手元にあった『不思議な建築 甦ったガウディ』下村純一/講談社現代新書 をぱらぱらと見ていると・・・

**人工の丘に地下鉄のコンクリート・チューブが滑り込む**
**ホームの構造を並木に見たてたクロールのスケッチ**
写真やスケッチにこんな説明がつけられています。

目次を見ると
第一章 自然と生物  
第二章 洞穴 
第三章 肉体 
第四章 樹木  
第五章 物の魂 などとあります。

このまま伊東さんの本の目次に使えそうです。
伊東さんは「新しいリアル展」に際して 現代建築に物質(もの)の力を回復するために というタイトルで文章を書いています。その点で第五章の「物の魂」というタイトルは伊東さんのこれからの方向性を表現しているかのようです。

ガウディは建築の構造や形を自然から直接学び、自然の美や合理性を建築に再構成しました。そして伊東さんはピューター・テクノロジーを駆使して自然に近い建築を創造しようとしているのでしょう。

静的で幾何学的な造形で自然との際立った対比を生み出した近代建築から自然への回帰を目指す新しい建築。 ガウディとは全く違う方法によるアプローチ、でも到達点は案外近接しているのかも知れない、そう思います。

伊東さんは**藤森さん、教えて下さい。近代建築の矛盾を見てしまった建築家に、でも頼るべき田舎も自然も無いことを知ってしまった建築家に、この先あるべき建築を・・・・・。**と問いかけました(『ザ・藤森建築』)。

その問いかけに対する自分なりの回答を見いだし、その方向に向って歩き出した。そしてその到達点を「台中」で早くも提示しようとしている。伊東さん、このような理解でOKでしょうか・・・。


チューブな建築(前稿のつづき)

2006-12-09 | A あれこれ

前稿を補っておく。

チューブな建築で最も有名なもの、といえばガウディの「サグラダ・ファミリア大聖堂」だろう。バルセロナでオリンピックが開催されてから、町のシンボルはすっかり有名になった。

しばらく前にとり上げた『ザ・藤森照信』を再読していて**伊東さんが「ガウディを目ざす」と何かの席で言った時には周りが驚いていた。**と藤森さんが書いていることに気が付いた。

この発言がどんな文脈でなされたのか分からないので勝手に都合よく「やはり伊東さんはチューブを究めようとしているのだ」と解釈する。

「せんだい」はミースな空間(抽象的なキューブ)をガウディなチューブ(有機的な筒)が貫いているとも捉えることができる。

藤森さんは建築家を物の実在性を求める赤派と抽象性を求める白派とにスパッと分けてみせた。この表現を借りれば「せんだい」は白いキューブを赤いチューブが貫いているともとれる。面白い。実際はチューブの色は白だけど。

『住宅の射程』で伊東さんは、「せんだいメディアテーク」では垂直方向にだけチューブと呼ばれる空間があったが、「エマージンググリッド」(ゲント市文化フォーラムのコンペで初めて考え出され、台中メトロポリタンオペラハウスの空間構成システムとして採用されている)はチューブが水平方向にも垂直方向にも連続したものだと説明している。

建築の最先端を行く伊東さんは、キューブな20世紀から抜け出して、チューブな21世紀を創ろうとしているのかもしれない、ガウディの時代には無かったコンピュター・テクノロジーによって。

 


「チューブ」への回帰

2006-12-08 | A あれこれ

 確か川向正人さんとの対談で伊東さんは「中野本町の家」の内部空間 写真①は、諏訪の博物館 写真②でも「まつもと市民芸術館」でもくり返されていると説明していた。そしてそれは自分の内部にある、消しきれない空間なんでしょうね、と続けていた。





昨晩「まつもと市民芸術館」のあわあわな光を眺めながら考えていた。伊東さんが挙げたこの3つの空間に共通するものは一体なんだろう・・・、と。

ようやくそれがチューブだと分かった。チューブとは筒状の形状、構造のこと。端部が開いているか閉じているかは問題にしない。靴下は片方の端部が閉じたチューブ、飛行機は両端が閉じたチューブに翼を付けたものと捉えることができる。そして消化管は典型的なチューブだ。

諏訪の博物館は確かにチューブを横たえた構造だ。「中野本町の家」もU型のチューブと捉えることができるし、「まつもと市民芸術館」のメインホールへのアプローチ空間もなるほど、「中野本町の家」の内部空間と同じU型のチューブと言えなくもない。いや、「まつもと」はJ型か。


「せんだいメディアテーク」 写真③で「チューブ」な柱が有名になったが伊東さんは、実質的なデビュー作の「中野本町の家」で既にチューブな空間を創っていたのだ。


「せんだい」のイメージスケッチ 写真⑤にはチューブのアイデアがメモされているがスチールパイプの組み合わせ、つまり筒状の鋼管トラス構造の他に「鉄板に穴をあけていく」というアイデアも記されている。このアイデアは「MIKIMOTO Ginza2」写真④で具現化されている。この銀座のピンクのビルは内部に柱がないチューブ構造というわけだ。表参道の例のビルは鉄筋コンクリート造のチューブ。そして今世界的な注目を集めている「台中メトロポリタン・オペラハウス」は、洞窟の連続体のような空間と説明されるが、洞窟は典型的なチューブではないか!

ようやく見えてきた。既に指摘したように安藤さんは「表参道ヒルズ」で「住吉の長屋」に帰った。そして伊東さんは透明で薄い建築からチューブな「中野本町の家」に帰っていこうとしているのだ・・・。因みにふたつの住宅は共に1976年の作品。

『中野本町の家』住まいの図書館出版局 こんな本があることは知らなかった。 早速、注文した(注: 「中野本町の家」は既に取り壊されている)。


 


時は流れたが・・・

2006-12-06 | A 読書日記



 オウム真理教による一連の事件から既に10年以上の年月が流れた。

この本の著者の伊東乾さんと、地下鉄サリン事件の実行犯の一人とは東大の同級生。実行犯は大学院で素粒子理論を専攻していた。博士課程に進学した直後に「出家」したという。そんな「優秀な科学者」がなぜ荒唐無稽な教団に入り、あのような事件を起こしたのか・・・。

裁判では決して明らかにならない心の深層に潜む「何か」。
著者は学生時代を振り返り、勾留中の同級生と接見を重ねてその「何か」を思索する。同級生と著者を分けたものはなんなのか。ほとんど偶然のような小さな分岐点・・・。

実行犯は中目黒駅で地下鉄日比谷線の先頭車両に乗り込む。新聞紙に包んだサリン入りのナイロン袋を足元にそっと置く。恵比寿駅に停車する直前にビニール傘の先端を袋に突き刺す・・・。

著者は中目黒から地下鉄に乗るところから本書をスタートさせている、十年前、同級生がとった行動をトレースするように。

『さよなら、サイレント・ネイビー  地下鉄に乗った同級生』伊東乾/集英社  
第4回開高健ノンフィクション賞受賞作


ブックレビュー

2006-12-05 | A ブックレビュー



○今年最後の満月、きれいです。
♪月がとってもあおいから、遠回りして帰~えろ、と思うこともなく早く帰宅。

何回目かのブックレビューです。ブログでふれた「本」が20冊になったところでアップしています。来年からはこのルールを改めようと思っています。「真鶴」が24日のNHK衛星第2「週刊ブックレビュー」でとり上げられます。3人のゲストの書評が楽しみです。今夜はあっさりこの辺で、また次回。


「みちの家」を読み解く

2006-12-04 | A あれこれ



 しばらくA(建築)モードを続けましたのですぐにB(本)モードには切り替りません。ということで今回はこの本について。

この子ども向けの絵本は建築家や作家により「家」について書かれたもので、シリーズ化されています。既に益子義弘さん、妹島和世さん、みかんぐみなどの建築家達がこのテーマで絵本を書いています。

子ども向けということで伊東さんは平易な文章で代表的なプロジェクトについて書いています。この絵本では「中野本町の家(ホワイトU)」「せんだいメディアテーク」巻貝のような形をした「リラクゼーション・パーク・イン・トーレヴィエハ」福岡の「ぐりんぐりん」台中のオペラハウスと同じ考え方で設計されたコンペ案「ゲント市文化フォーラム」などがとり上げられています。

伊東さんは建築理念を、そしてそれを具現化するための方法論を、きちんと説明してくれる建築家です。一方、安藤さんはおそらく直感的に建築の最終的な形がイメージできて、それを美的な感性を頼りに具現化している建築家だと思います。だから安藤さんは方法論をあまり語りません。

話を絵本に戻します。「せんだいメディアテーク」には「チューブの家」というタイトルが付けられています。その書き出しは**この家には大きな木の幹のような柱が13本も立っていました。**となっています。

「せんだい」のコンペの初期のイメージスケッチは繰り返しあちこちに掲載されていますからよく知られていますが、そこには海草のような柱というメモが書かれています。

ゆらゆらとして存在感の希薄な海草のような柱から物としての圧倒的な存在感が感じられる木の幹のような柱という、チューブと呼ばれる鋼管トラス構造の柱の捉え方の変化。これは伊東さんの建築観の変化を端的に示しています。

以前も書きましたが、透明で存在感の希薄な建築など出来ない・・・。「せんだい」で鉄と格闘する溶接工達の姿を目の当たりにして伊東さんはそう気が付いたのです。そのことは伊東さん自身が書いています。

なんだかすっかりAモードですね。で、伊東さんはチューブを樹に喩えるようになりました。絵本では**各階の床はの間にかけ渡されています。中にいる人は森の中の大きな木の上に住んでいるみたいです。**と書いています。「せんだい」のガラスのスクリーンのファサード、あれはもはや「水槽」のイメージではないのです。「有機的な樹間」に「抽象的なフラットスラブ」を架け渡した構造(伊東さん自身) あるいは キューブをチューブが貫いた構造(長谷川堯)  せんだいメディアテークの構造はこのように捉えることができる、というわけなんですね。

「せんだい」直後の作品、「まつもと市民芸術館」の外壁はコンペの段階では「透明」でしたが(建築展では透明な外壁のパースが展示されていました)、途中で壁としてきちんと存在感のある、あわあわなパネル(ガラスを象嵌したGRCパネル)に変更されています。これも伊東さんの建築観の変化の反映、そう考えてよさそうです。

「幾何学的な建築、抽象的な建築から有機的な建築、自然に近い建築へ」

建築展の会場外のショップで購入したこの絵本を読んで、伊東さんの建築理論の復習をしました。

**さあ、道から未知の家への冒険にでかけよう。**絵本の帯にはそう書かれています。これは伊東さん自身の決意表明のようにも思えます。