和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

プクプク。

2014-12-18 | 他生の縁
年の暮れで、ついつい
本を買っております。
そのなかに、
谷川俊太郎(正津勉編)「悼む詩」(東洋出版)。
そういえば、

(或はネリリし、キルルし、ハララしているか)

というフレーズが
詩「二十億光年の孤独」にあったなあ。
その次の行は

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

そのあと、行あけして
有名なあの言葉

 万有引力とは
 ひき合う孤独の力である



うん。この二行の「たしかさ」を
確認したくって、「悼む詩」を注文。
はたして、谷川俊太郎氏の
「ひき合う孤独の力」は、
どんなだったのだろう。
うん。読むのがこわい。

「ネリリ・キルル・ハララ」
なんて、ブログの題名にいいなあ。
ということを、以前思ったりしました。


今日はプクプク。

読んだあとに、積んでおくと、
一度、記憶の水底へと沈んでゆく本たち。
そして、本の隙間からプクプクと、
気泡が、水面に浮き上がってくる。
そのパッと消えるまでのプクプク(笑)。

今回のプクプクは
「漢字文化を考える」(大修館書店)の
山本七平氏の講演のフレーズでした。

ということで、講演なら読みやすい。
プクプクの箇所を、さがすたのしみ。
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コナン・湖南。

2014-11-22 | 他生の縁
渡部昇一・林望「知的生活楽しみのヒント」(PHP)。
を段ボール箱から取り出してくる。
線引きの箇所をパラパラとめくっていると、

渡部】 さて、書いたものの質、おもしろさと
いう点に目を向けますと、学者の書いた文章で
おもしろいものは圧倒的に昔の学者によるもの
のほうが多いと思います。・・・昔の学者は
『業績をつくらなければならない』という
強迫観念がなかった。ものを書く学者というのは、
自分の中に『しゃべりたいこと』『書きたいこと』
がある人でした。だから、読むに耐えるものが
多いのだろうと思います。
文化史のジャンルで言えば内藤湖南はシナの歴史に
ついても国史についても本当に書きたいから書いて
いる。また、彼の『近世文学史論』などは芭蕉も
出てこないような変わった江戸文学史なのですが、
それでいておもしろいのだからすごいものがあり
ます。そもそも『おもしろさ』というのは内発的、
自発的なところから出てくるものです。・・・
(p80~81)

そうか、内藤湖南の『近世文学史論』か。
なんか、コナンがすごそう。
前回は、歯が立たなかったけれど、
今回はどうかと、チャレンジ。
コナン・湖南・こなん。なんて
お気楽だと、また、駄目かなあ(笑)。
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ロイヤル・タイラーさん。

2014-11-15 | 他生の縁
ドナルド・キーン著「わたしの日本語修行」(白水社)。
そこに、「教え子の思い出を聞かせてください。」
という質問に、キーン氏が答えており印象に残ります。

「一番に思い出されるのは、
ロイヤル・タイラーさんのことです。・・
タイラーさんは、わたしが56年間コロンビア大学
で教えた中でも最も優れた学生ですが、別の意味で
も忘れがたい印象を残しています。ある日突然、
彼はあらゆる過去のこと、自分の祖先や家族が
嫌になったのです。彼はニューヨークを離れ、
ニューメキシコの50人ほどしか人の住んでいない
砂漠の村で生活を始めました。使われなくなった
古い列車の車両の中で、奥さんと二人で暮らし
始めたのです。25歳ぐらいだったでしょうか。
彼はわたしにすさまじい手紙を寄こしました。
『お前は学問をすばらしいものだと思っている
ようだが、我々はそうは思わない』というような
調子です。びっくりしたでしょう。本当のことです。
そして彼はどこかの工場で働いたり、ガソリンスタンド
で働いたりして、『これが本当の生活だ』などと
言い出しました。自分の祖先や学問の伝統を否定した
のです。わたしは何度も彼に手紙を書きました。
どんなにひどい手紙が来ても、わたしは彼に
『帰ってきてください、帰ってきてください』と
言い続けました。タイラーさんは、まだ博士論文を
書いていませんでしたが、その資格は十分にあり
ました。そして、やっとのことで、彼は少しずつ
心を開くようになったのです。わたしはかろうじて
彼を説得し、あの『謡曲二十選』の共著者として、
ニューヨークに戻ってもらいました。彼は『松風』
とか『江口』といった幽玄の能を読んで感動しました。
そうして、だんだんわたしの世界に再び近づいて
きてくれたのです。今、彼はわたしの教え子の中で
最もたくさん手紙をくれます。」(p299~230)
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未発表講演速記録。

2014-11-02 | 他生の縁
WILL12月号の蒟蒻問答で
久保紘之氏が語っている箇所が
気になりました。

「・・井沢元彦が『週刊ポスト』で
『昔陸軍、今朝日。なぜバカがトップになって
しまうのか』と書いていましたが、朝日の場合
は独裁者じゃなく、指導者はみんな記者出身の
【雇われマダム】。かつて山本七平が
『指導者の条件』で指摘したような、
【無目的世話人】ばかりです。
つまり井沢の言うように、末期の旧帝国陸軍
大本営と同じ、『何一つ決定的な決断が下せず、
状況の変化や特異な刺激に反射的に反応するだけ』
の無能な人間ばかりで、『おそらく帝国陸軍にも、
(旧)国鉄にも、多くの倒産企業にも、また噂に
のぼる大企業にも、ほぼ共通する原則』(山本)
なのです。・・・・
僕がここで指摘したのは、いま朝日で進行している
事態はそれとは異なることです。【誤報】事件が
朝日新聞の存続のみではなく、
日本の尊厳にかかわる大問題であることを直視し、
有効な解決策を見出そうと努力するどころか、
上から下まで組織防衛のために社内の
【和】を最優先して【真実】に目をつぶり、
朝日攻撃に対して新たな反転攻勢に出ようと
しているのではないか、という点です。」
(p105)

気になった箇所なので、
さっそく文芸春秋社の山本七平ライブラリー5に
はいっている『指導者の条件』をひらく。
その最後にはこうあります。
「『指導者の条件』は山本七平氏の未発表の
講演速記録、雑誌原稿等を、
ご遺族の了解を得て、編集部が再編集
したものです。」とあります。

あれ。この本の解説はというと、
何と、久保紘之氏じゃありませんか。
この機会に、この本を読まなきゃ(笑)。
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よし、みんなに配ろう!

2014-06-30 | 他生の縁
萩尾望都対談集2000年代編
「愛するあなた・恋するわたし」(河出書房新社)

対談相手がおもに漫画家なので、
対談という活字と漫画で、まるで、
現代版大人の絵本をパラパラと開く感覚。

対談の中ですが、
美智子様、浩宮殿下も登場します。

ということで、その箇所を引用。

――萩尾先生はかなり早い段階で、
『テルマエ・ロマエ』を絶賛されていたと聞きます。
あの作品との出会いは、衝撃的でしたか?

萩尾】 面白いと思う本は、
みんなに買って配っちゃうんですよね。
『テルマエ』も1巻目が出てすぐに読んで、
すごく面白かったから、
『よし、みんなに配ろう!』って。

ヤマザキ】 配っていただいたんですか(笑)

萩尾】 ええ、みんなに配ってますよ。
マンガ好きな人、私の周りにいろいろいますから。

ヤマザキ】 嬉しいです。憧れの萩尾望都先生に
本を配っていただくなんて・・・。
ちなみに浩宮殿下も配ってらっしゃるそうです。
爆笑していただいたみたいで。

萩尾】 私も爆笑ですよ。・・・(p178)


これがヤマザキマリとの対談のはじまりでした。
よしながふみ、との対談からも引用。

よしなが】 ・・・美智子皇后が
児童書について講演した記録の『橋をかける』、
という本があるんですが、
そこで美智子様が好きだったと語っている
日本の神話の話は印象的でした。
いけにえとなって死ぬその姫と夫との
『任務を分かち合う』ような関係性を
美しいと思ったと、美智子様が語っていて、
『ほら、同じじゃないですか』って(笑)。
女の人はこういう同志的な関係が好きなんですよね。

萩尾】 私が学生時代から20代の頃に読んだ
本には、男の人が友情について書くと
『女性同士の友情は成立しない』と
書いていましたね。
最近はさすがになくなりましたけれど。
私、いつもそいうのをじっと見ながら、
女性だって人間である以上、
友情が成立しないなんてあり得ないのに
どうしてこんな意見が出てくるのだろうと、
そのことが不思議でしたね。
 
よしなが】 男性で、男女の間にも
『友情は成立しない』と言う人もいますよね。
それを聞くたび、『それはあなたの場合でしょ』
って思う(笑)。
女性同士の友情は、昔は結婚すると
物理的に距離ができてしまいましたけれど、
いまは交通も通信手段もあって
そんなことがなくなっています。少女たちが
あんなにも『赤毛のアン』が好きなのも、
アンとダイアナの関係が結婚して
途切れながらもずっと続いている
ところが大きいのではないかな。
(p78~79)


うん。パラパラつまみ読みですが、
つい、他の方にも話したくなる一冊。



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丸谷才一年譜。

2014-06-22 | 他生の縁
集英社新書「書物の達人 丸谷才一」には、
気のきいた丸谷才一年譜をめくるような、
そんな愉しみ方もありました。

まずは、山形県

「丸谷さんは、山形県の鶴岡の生れです。
鶴岡というのは、藤沢周平が出たことで、
近年非常に有名になったところですが、
同時に満州事変を引き起こした石原莞爾の
故郷でもあり、東京裁判の時に東条英機の
頭をたたいたことで知られる大川周明の
育った地でもあります。大川周明は、
丸谷さんの『裏声で歌へ君が代』に出てくる
右翼的な人物(大田黒周道)のモデルですが、
そういう人間を生み出したところです。
けれども、丸谷さんの家は開業医で、
非常にリベラルな雰囲気の家庭であった。」(p39)

これは、1944年生れの川本三郎氏の講演での箇所。
岡野弘彦氏の講演では、はじめにこうあります。

「大正13(1924)年、僕は三重県の世襲の神主の
うちの長男に生まれました。丸谷さんは僕より一つ
遅れて鶴岡市にお医者さんの子供として生まれたわけです。」(p99)

岡野氏の講演をもうすこし続けます。

「國學院大學予科に入ったのが昭和18(1943)年、
例の学徒出陣の年です。典型的な戦中派
の年代です。入学したときに予科長が、
『今年入ってきた君たちは当然、途中で戦争に行く
だろう。そして、命を落とす人も多く出るだろう。
だから、この大学は君たち予科の学生にも今までに
ない最高の教授陣に講義をしていただくことになった』
・・しかし、大学でそういう講義がみっちりと聴けた
のは半年足らずだったような気がします。
すぐ軍需工場へ引っ張られて、銃を作ったり、
弾を作ったりさせられました。そして、
敗戦の年の昭和20(1945)年1月6日、
僕は軍隊に入ったのです。それより少し遅れて、
丸谷さんも軍隊に取られたと思います。」
(p100~101)

もどって、川本三郎氏の講演へ

「昭和20年3月に、
19歳の丸谷青年が兵隊に取られます。
青森の八戸の海岸にたこつぼを掘って、
その中に入って、もし米軍が上陸してきた
時には、それに立ち向かえという
訓練をさせられていた。・・・・・
丸谷さんは、昭和20年8月15日の玉音放送を、
一兵士として青森で聞いた。・・・
ところがほかの兵隊たちはよく理解できなかった。
そこで上官に『この放送は何を言っているんだ』と
聞かれて、丸谷さんが『この戦争は負けたと陛下が
おっしゃっている』と言った途端に、上官が
鋲(びょう)のついた靴で殴りつけた。
ひどい話です。これは『笹まくら』の中でも、
ある戦争体験をした助教授(桑野助教授)の
エピソードとして出てきます。」(p42~43)


このようにして戦後の國學院時代とか
毎日新聞の今週の本棚のエピソードとか
まるで、バトンをたぐりよせるようにして
他の方が語ってゆくのでした。
そんな年譜読みの愉しみも、兼ね備えた
貴重な新書一冊。
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近所にいた。

2014-03-04 | 他生の縁
谷沢永一著の
「人間の見分け方」(H&I)
「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書)
にこんな箇所。

「戦争中に爆撃でやられて疎開したあと、
大阪へ戻って阿倍野区に住んだ。
そこから開高健の家まで歩いて十五分ぐらいだった。
ちなみに、詩人の小野十三郎の家まで歩いて十分ぐらい、
河野多恵子の家は二分ぐらいと、
後に私の運命と関係を持つ人が近所にいた。
この手の運は選べるものではない。」
  (「人間の見分け方」p46)

「もう一つ、
これは非常に重要なことだが、
女性の悪口は気をつけなければいけない。
恨みの度合いが男と違う。
私は河野多恵子から
『女流作家の悪口だけは書いてはいけない。
末代までたたるから』と言われたことがある。
そのおかげというわけではないが、
私はついにいっぺんも書いたことがない。
野坂昭如が私の『紙つぶて』を読んで見つけたことは、
女流の悪口が一言もないことだった。」(同p177~178)

「それから、近くに藤本進治という、
無名で亡くなった哲学者ですが、
これが大変な物知りで、出身は関大の経済学部ですが、
哲学者のくせに、近代日本文学についても、
じつに詳しい人です。ところが、
世渡りの非常に下手な人でしたから、本は買えない。
コクヨの四百字詰めの原稿用紙に、
自分で勝手に発表のあてもなく論文を書いて、
今度はそれをまた裏返して、今度は半分に切って、
裏は真っ白ですね、そこへ読んだ本の抜き書きをするんですよ。
その抜き書きがたくさんありました。
ほんとに博学多識といいますか、
そういう先生と知り合うことができました。
全部ほんとに近所にいた。」
(「運を引き寄せる十の心得」p72)

このすぐあとに、
小野十三郎氏の家へ出かけて、
ごく自然に、コラムを書き始めるという、
顛末が出て来て読ませます。

藤田進治氏については、
他の本でも、登場していたはずなのですが、
さて、どこだったか(笑)。
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S・齋藤十一。

2013-09-30 | 他生の縁
文春文庫「吉村昭が伝えたかったこと」に
「津村節子ロング・インタビュー」という箇所があり、
そこで、「新潮社の重役のSさん」が話題にあがっておりました。

「『戦艦武蔵』については猛烈に悩んでいましたね。
新潮社の重役のSさんが、小冊子に連載した
『戦艦武蔵ノート』を読まれて、これを小説に、
と何度も強く要望されたのですが、断り続けていました。
小説って人間を描くものなのに、なにしろ相手は艦(ふね)ですからね。
でも、取り掛かってみると、艦が次第に人間に思えてきたといいます。
艦首を振りながら進むなんて、人間みたいに描いている。
完成間近くなって、工員に
『お誕生が近いぞ』といわせていますね。
人間に思えてきたのでしょうね。
八月発売の九月号に間に合せるために、
最後は精根が尽きて、立てなくなって
笑いながら這っていましたよ。
脱稿したあとまる一日寝続けました。
あのころは文芸誌に長編の一挙掲載などありえなかった。
それも新人の原稿四百二十枚ですよ。
重役の指示とはいいながら、
直接の『新潮』誌の担当編集者であるTさんは、
あの作品は嫌いだったでしょうね。だって、
Tさんは私小説しか認めないという人だったんですから、
実にいやそうに来ていた(笑)。
あの作品について『堕落しましたね』と
新宿のバーで酒ぐせの悪い編集者に吉村が
絡まれるのを私は目撃しています。
でも、本は売れました。
三千とか五千部を考えていた私たちは、
万という部数に驚いたんです。
初版二万が翌日三万に訂正され、
十月には十一万六千ですって・・・・。
なにしろその前の一年間の吉村の収入は、
PR誌に書いた原稿用紙四枚分の四千円、
税金分引かれて三千六百円だけだったんですから。
―――賛否が真っ二つに分かれたそうですね。
それでむしろ安心したと吉村さんはいっています。
ああいう調べて書いたものが小説として
認知される風土がまだなかった。  」(p238~239)
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グレン・グールドの草枕。

2013-09-15 | 他生の縁
グレン・グールドの演奏を、たまに聴きます。
グールドのエピソードとして、
夏目漱石「草枕」のファンだという指摘があります。
「そうかなあ」と私は、何だか
ひっかかって思っておりました。

そうすると最近
こんな箇所を読むことができました。

「昭和56年のクリスマスの日にはこんなこともあった。
ヴァンクーヴァーでCBC放送を聞いていると
突然『草枕』の放送が始った。
最初の紹介の発音が『ナテューミー・ソーシーキー』式
の読み方をしていたので、
それと気づかずに聞いていたのだが、
中味は間違いなく『草枕』である。
朗読者は内容をよく摑んで語っているらしく、
『草枕』の感じがそのまま英語で
伝わってくるのに驚いた。
シェリーの引用が上手に決っているのは
全文が英文に化しているからだろう。
陶淵明の漢詩英訳は漢語のもつ
視覚的な喚起力は失われたにせよ、
前後関係の中でたくみに処を得ている。
それに、知的なお喋りに過ぎるとかねがね感じていた
『草枕』の主人公の引用癖や議論が、
イギリス系カナダ人の口調を借りてぽんぽん飛び出すと、
イギリスの知識人が二十世紀文明の
行きづまりを議論しているような錯覚すら与える。
――だが考えてみると、
夏目漱石はその知識の質や量においても、
またその思考の深さにおいても、
優に二十世紀イギリス知識人に匹敵する
頭脳と感受性の持主であった。
・・・・・・・
ひとしお感興の湧くのを覚えて私はこの
Three Cornered World と訳された
英訳『草枕』の朗読を聞いた。
アラン・ターニー氏の訳ででもあろうか。」

以上は
平川祐弘著「漱石の師マードック先生」(講談社学術文庫)
のあとがき「内と外から見た夏目漱石」にあります(p274)。

「うん、そうなのか」と
ちょっとした疑問が、解けたような気分。

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齋藤十一と竹山道雄。

2013-09-12 | 他生の縁
平川祐弘著「開国の作法」(東京大学出版会)をパラパラとめくっていたら、一箇所、齋藤十一氏の名前が登場しておりました。そのことについて書きます。


本の最後に、二つの文があります。
1984年8月号「新潮」に掲載の「竹山先生のこと」。
1985年1月号「新潮」に掲載の「『ビルマの竪琴』余聞」。

ちなみに、
1984(昭和59)年6月15日に、竹山道雄氏死去(80歳)。


その「竹山先生のこと」の文中に、
齋藤十一の名前が登場しておりました。

「・・・昭和21年3月『新潮』に出た『失はれた青春』で竹山道雄の文壇でのイメージは作られたということでもあろう。竹山氏は戦後の論壇の一方の雄であった。戦時中に軍部やナチズムを批判したと同様、戦後は左翼や唯物史観を平然としかも巧みに批判した。その風当りの強い『危険な思想家』の竹山氏に発言の場を与えてくれた新潮社の齋藤十一氏以下への謝意を繰返し家人に洩していたことをここに記させていただく。」(p265)

そうそう、「ビルマの竪琴」に関連してこんな箇所もありました。

「・・戦時中、軍部を批判し、ナチスを敵視した竹山氏であったからこそ、戦後の日本で軍の罪悪を罵倒する声のみが聞かれた時代に、『義務を守って命をおとした』若い人びとを弔う鎮魂の書を著し得たのだろう。氏はその生涯の節目節目で一番大切な問題を毅然として取りあげた人であった。・・」(p263)

もどって、齋藤十一の追悼集「編集者齋藤十一」(冬花社)に、竹山道雄の名前が登場する箇所をみてみますと、

追悼集の最後の方に、齋藤美和夫人の談話が掲載されております。

「・・・齋藤は、戦後しばらく論壇や文壇から追放されていた保田與重郎さんや、やはり執筆の場から遠ざかっていた河上徹太郎さんたちに、初めて『新潮』誌面に登場してもらいました。・・・・すでに活躍していた作家たちとも親しくお付き合いしていました。舟橋聖一さんと一緒に岐阜の鵜飼いを見に行ったり、大岡昇平さんとゴルフをしたり、竹山道雄さんや今東光さんとお酒を呑みながら談論に興じたり・・・。大佛次郎さんとは、私たちの住まい近くの明月院に出かけたりしています。・・・・」(p277)

木下靖枝さんの追悼文は、

「『週刊新潮』編集部と出版部のある三階から、『新潮』『芸術新潮』編集部と校閲部のある四階へ、齋藤さんがコツコツと靴音も高く上っていらっしゃると・・・」こうはじまる文、その文章の最後にこうありました。

「編集会議には参加なさらなかったが、五味さん、吉田秀和さん、竹山道雄さん、保田與重郎さんなどの連載は、すべて四階で『芸新』の編集長だった白井重誠さんとのおしゃべりから生まれた作品だった。」(p117)

ちなみに、白井重誠氏については、
美和夫人の談話に、こうして登場しておりました。

「結局、齋藤は早稲田第一高等学院から早稲田大学の理工学部へ進みました。理系に進んだのは、ガス会社に勤めていた父親が理系だったこととも少し影響していたのかもしれません。大学で仲良くなった同級生に、白井重誠さんという方がいました。月刊少女雑誌『ひまわり』の編集部を経て、『芸術新潮』の嘱託になられた方ですが、その白井さんが、授業中に隣りの席で文庫本を読みふけっていて、余りに夢中になっている姿を見て、齋藤が声をかけたのだそうです。この白井さんがいらっしゃらなければ、齋藤は文学に触れることがなかったかもしれません。大きな出会いでした。・・・」(p272)


追悼集には小島千加子さんも書いておりました。

「・・終戦後、僅か二ヵ月後に復刊した『新潮』は、堰を切ったように知識人たちの発言の場となった。竹山道雄、塩尻公明、本多顕彰などの人生論的エッセイや、吉川幸次郎、田中美知太郎という碩学の頻繁な登場。それらは、齋藤さんの裡(うち)に蓄積されていた教養の発露である。時代の要望を睨んだ、人の意表をつく企画も次々と発せられる。小林秀雄とノーベル賞の湯川秀樹との、一冊の半ばを割く長大な対談、同じく小林秀雄と徳川夢声との対談。また、カミュの『異邦人』、『カミュ、サルトル論争』、『ジイドの日記抄』等、海外に向ける目も新しかった。」(p37)

その当時「風当りの強い『危険な思想家』」という、
そんなレッテルをベタベタと貼られていた人に、
きちんと、発言の場を与えていた数少ない編集者が、
齋藤十一だった。ということなのですね。

うん。
レッテルしか見ない人。
ただ、レッテルを貼るだけの人。
いるんですよね。
レッテルを貼るだけで満足しちゃう人。
おっと、私もそうでした。
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河盛好蔵と竹山道雄。

2013-08-31 | 他生の縁
竹山道雄著作集3「失われた青春」の月報は、
まず、河盛好蔵氏の文からでした。

「昭和12、3年頃だったと思う。その頃私は三日にあげず片山敏彦君の家へ遊びに行っていた。」と河盛氏は、はじめております。

「当時片山君は一高でドイツ語を教えていたが、あるとき、いつものように、独仏の詩人たちの著書のいっぱいつまっていた片山君の書斎で駄弁っているところへ一人の紳士の来客があった。それが一高で片山君と同僚の竹山道雄さんであった。」

「・・・立派な人、というのが私の最初の印象であった。そしてこの印象はその後も深まるばかりであった。竹山さんの教養の豊かさにも感心させられた。片山君との会話を聞いていると、西欧のすぐれた知識人たちのサロンにいるような気持がした。
当時はヒットラー礼讃の声がそろそろわが国にも高まり、ドイツ文学者のなかにもナチス文化の太鼓を持つ連中の現われ出した頃であったから、両氏のヒットラーやナチズムの批判は痛烈を極め、共鳴するところが多かった。・・・両氏は、当時のドイツ文学者のなかで最後まで徹底してナチスを憎み嫌った数少ない明哲の士であった。それ以来私は竹山さんに親しくして頂いている・・・・」


ちなみに、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の註(p156)に

「なお高田里惠子がナチス讃美の日本の独文学者を糾弾した『文学部をめぐる病い』(2001年)で、ナチス反対の人々に言及しないのは全体像をとらえきれておらず残念なことである。」という箇所があります。

2001年になっても、まだ、片山敏彦や竹山道雄の立ち位置は理解されていないようだとわかります。
もどって、河盛好蔵氏の文の最後には、こうありました。

「私が戦後、『新潮』の編集に参加したとき、こんどの戦争で、わが国の学生たちと同じように戦ったナチの若者たちのことを知りたいと思い、ナチスについて詳しい竹山さんに、『失われた青春』という標題もこちらで用意して原稿を依頼した。それが昭和21年3月号の『新潮』に発表された・・これは、非常な好評を博し、以後竹山さんは『新潮』の大切な寄稿家になった。ナチス時代のドイツに題材をえた秀作には『憑かれた人々』などもあり、竹山さんの独壇場であるが、これらの作品は正宗白鳥さんも高く買われて、私に賞めていられたことを思い出す。・・・」

この月報は、あとに
「河盛好蔵 私の随想選」第五巻(新潮社)に、収められておりました。
ところで、「河盛好蔵 私の随想選」第7巻の「終戦前後」(p240~245)には、こんな箇所がひろえます。

「ともかく一日も早く何か職業を見つけなければならない。終戦のとき私は43歳で、小学校六年生の長女以下四人の子供がいた。私にできることは学校の教師か、翻訳ぐらいしかないが、教師の口などは早急に見つかるものではない。・・・
ところが幸いなことに、昭和20年の2月から、当時新潮社の出版部に勤めていて、以前から懇意にしていた斎藤十一君が、家族を疎開させてひとりぐらしで不自由をしている私を憐れんで、夫婦で私の家に移転してきてくれていた。おかげで、私はどんなに助かったか分らない。戦争末期を餓死もせずに生きのびることができたのは斎藤夫婦のおかげであったと、今でも深く感謝している。その斎藤君が、私のぶらぶらと遊んでいるのを見て、新潮社に入って、雑誌『新潮』を編集してみないかとすすめてくれた。・・・それからは、毎日、斎藤君を相手に復刊第一号のプランを練った。・・・
20年11月号から『新潮』を復刊したのである。この号は非常な好評を博した。軽井沢に疎開していた堀辰雄君が、わざわざハガキをくれて、『すべり出し甚だ好調、どうかこの調子でやって下さい』と激励してくれたときの嬉しさを今でも忘れることができない。それから二年間、私は夢中になってこの雑誌のために働いた。私の一生のなかで最も充実した毎日であった。」


そうそう。「新潮社七十年」という社史も、河盛好蔵氏が文をまとめて書いておりました。
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震災後6日目。

2013-06-01 | 他生の縁
岡康道・小田嶋隆対談「いつだって僕たちは途上にいる」(講談社)に
こんな箇所があったのでした。

小田嶋】 東日本大震災とその後の災害で一番怖かった瞬間はいつかといえば、俺の場合は、アメリカ軍が逃げた情報を聞いたときだった。
岡】 逃げたね。80キロ圏外。震災後6日目にね。
小田嶋】 あれだけの装備と知識と力と肉体を持った人たちに逃げられたら、俺たち、やっぱりもう終わりだな、って背筋がゾッとした。

東日本大震災から2年を過ぎると、こういう「背筋がゾッとした」感覚も、私はすっかりとわすれてしまっております。

そして、ドナルド・キーン氏が、ほかならぬ、日本国籍を取得したいと申し出るニュースが流れた時の何とも言えない心持も忘れています。

瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン対談「日本を信じる」(中央公論新社)に

キーン】 私はニューヨークにいました。あちらのテレビでも24時間、日本の震災のことを報道していて、いつもはあまりテレビを見ないんですが、あのときばかりはずっとテレビから目が離せませんでした。・・・被災した人々はどうしただろう、今、どんな気持ちでいるかと考えると眠れませんでした。・・・日本人になると決めた私の気持ちを表現するなら、第二次大戦中に作家で詩人の高見順が日記に書いた思いと重なるでしょう。
戦時下でいちばん情勢が厳しいときに、当時、鎌倉に住んでいた高見順さんは、アメリカ軍が鎌倉を攻撃するという噂を耳にします。心配して、自分のお母さんを田舎へ帰したいと大船まで見送った後、妻を連れて東京大空襲の跡を見に上野駅に行くのです。しかし着いてみると群衆があふれ、大変な混雑となっていました。みんな、安全なところに逃げたいという同じ気持ちにかられて。高見さんが驚いたのは、誰もが静かに整然と並んで汽車の順番を待っていたことです。待つのは当然だというように。我先にと列を乱す人はいない。その光景を目にして、『私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った』と日記に書くんです。
私も同じ気持を抱くようになりました。むしろ、どうしてもっと早く日本国籍を取ることを考えなかったのか、自分でも不思議に思ったくらいです。・・・」(p13~18)
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あちゃー。

2013-05-30 | 他生の縁
いとうせいこう氏を、私は知らなかったので、
中島岳志の書評は、ありがたく、
おかげで「想像ラジオ」が読めたのでした。

さてっと、中島岳志の書評といえば、
昨年の2012年8月2日に、当ブログで取りあげておりました。ブログ検索で、忘れていたその箇所を読み直し(笑)。

その書評では、横田増生著「評伝ナンシー関」(朝日新聞出版社)がとりあげられておりました。それではと、この本を古本屋へと注文することに。

ブックハウスQ(札幌市中央区)
750円+送料290円=1040円
本文はきれいです。
カバーが素敵ですね。
本代は先払いでした。

とりあえず。
「プロローグ」をひらくと、こうあります。

「ナンシー関の名付け親であるいとうせいこう」(p17)

そしてp19には、

「亡くなったナンシーの霊魂を感じたという人たちもいる。
文藝春秋でナンシーの『テレビ消灯時間』などを担当した朝香美枝はこう話す。『霊安室に入ったとき、ナンシーさんの亡骸が目の前にあったんですけれど、ナンシーさんの意識もまだ霊安室の中にあったんです。その意識が私の中に入ってきたんです。ナンシーさんは『あちゃー、自分はさっきまで死んだことが夢だと思っていたけど、どうも夢じゃなくって現実みたいだな』と思っていたようです。ナンシーさんが、なぜ『あちゃー』と思っていたかというと、両親に申し訳ない、という理由からだってことも感じました。
朝香とナンシーは、ナンシーが三軒茶屋に引っ越す前に赤塚のマンションに住んでいたとき、そのマンションで女性の飛び降り自殺があって、ナンシーがその幽霊を見たという話で盛り上がったことがあった。
ナンシーは朝香に、『私、幽霊は信じないんだけれど、見たんだよ。信じないけど、幽霊はいるんだよ』と熱心に語ったという。
『私はそういう話が好きな方なんで、ナンシーさんと、もし幽霊がいるのなら、どっちが先に死んでも、お互いのところに出てきましょうね、って約束をしたんです』と朝香は言う。・・・』」


うん。中島岳志の書評「評伝ナンシー関」には
こんな箇所があったのでした。

「時折、『ナンシー関が生きていたら』と思うことがある。テレビを見ながら、言語化できないモヤモヤ感が残る時、あの消しゴム版画が思い浮かぶのだ。」

「若き日のナンシーは、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の熱心なリスナーだった。ナンシーの武器である『角度』は、このラジオによって生成された。青森で生まれ育ち、高校時代から消しゴムで作品を作り始め、18歳で上京。大学中退後、その才能が話題を呼び・・・」

こうして、
『あちゃー』『青森』『ラジオ』とくれば、つぎには、何の違和感もなく『想像ラジオ』へ、つながるような気がしてきます。


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学問の趣意。

2013-05-27 | 他生の縁
中公文庫の猪瀬直樹著「唱歌誕生」には、最後に附録として母校信州大学教育学部附属長野中学校での講演が載せてありました。

その印象がよかったせいか、
今日になって、どういうわけか、
福沢諭吉の著書「学問のすすめ」を思い浮かべるのでした。

その初編の端書に、こうあるのでした。
「このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して、旧く交はりたる友人に示さんがため一冊を綴りしかば、ある人これを見ていはく、『この冊子を独り中津の人へのみ示さんより、広く世界に布告せば、その益もまた広かるべし』との勧めにより・・・ 明治四年未(ひつじ)十二月」

うん。長野中学校での講演も、ひろく日本の中学生に読んでもらいたなあ。
ところで、
産経の古新聞を整理していたら。
その4月7日「新聞に喝!」(伊豆村房一)の文が
こうはじまっていたのでした。

「『一身独立して一国独立する』安倍晋三首相は2月28日の施政方針演説で、この福沢諭吉の言葉を引用しながら『「強い日本」。それをつくるのは他でもなく、私たち自身です』と述べた。安倍首相の思いはほかでもない。いま日本を取り巻く国難を克服し『強い日本』を取り戻すには国民の自立心が肝要であり、それには明治維新以降、独立日本の建設に心血を注いだ明治人の気概を伝えたかったのだろう。
冒頭の言葉は明治維新時に空前のベストセラーとなった『学問のすすめ』からの引用だが、安倍首相は同演説の中で『苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなし』という言葉も引用している。政治指導者だけでなく国民一人一人の奮起が欠かせないというのだ。・・・」

北岡伸一著「独立自尊 福沢諭吉の挑戦」(講談社)にある、
「学問のすすめ」が書かれた時代背景を以下に引用。

「・・明治三年の閏十月には中津に行き、母を迎えた。その頃、まだ洋学者は安全ではなかった。大阪では、のちの腹心となる朝吹英二に命を狙われ、中津では増田宋太郎に命を狙われた。
明治四年の廃藩置県は、維新革命の頂点をなすものだった。地域によっては数百年来の統治者が根こそぎにされたのである。これまで薩長の政府と思われていた政府が、薩摩藩、長州藩まで廃止してしまったのである。福沢はことの意外に驚き、『当時われわれ同友は三五会(かい)すればすなわち祝し、新政府のこの盛事をみたる上は死するも憾(うら)みなしと絶叫したるものなり』と書いている(「福翁百余話」)。それからまもなく新政府の中枢の半ばが、欧米視察に長期の海外旅行に出た。岩倉使節団である。新政府の西洋文明志向は決定的であった。『学問のすすめ』が書かれたのは、こうした感激の中においてであった。・・」


ということで、こりゃ、
「学問のすすめ」を読まくちゃなりません。
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Gaman 

2012-12-03 | 他生の縁
先週の水曜日。
東京へ行ったので、昼飯のあとに、
東京藝術大学美術館でひらかれている
「The Art of Gaman」を観にゆく。
上野駅から歩いての行き帰り。
受付でお金を払おうとすると、無料とのこと。
置かれてあるガイドブックと展示品リストをもらってくる。

ガイドブックにメッセージが載っております。
日系三世のデルフィン・ヒラスナさんは、こうはじめておりました。

「私が、第二次世界大戦中に強制収容された日系アメリカ人の芸術作品に初めて興味を持ったのは、2000年に母親を亡くした後でした。ある日、両親の収納部屋を物色していた私は、隅の方でほこりをかぶった木製の宝石箱を見つけました。古びた品物の数々が集められた箱の中には、安全ピンの留め金がついた、小さな木製の鳥型ブローチが入っていました。私は、その箱の中身すべてが1940年代から引き継がれてきたものであることに衝撃を受けました。・・・・」

うん。出かけていってよかった。
東京展は12月9日まで、そのあと福島・仙台・沖縄・広島へと開催場所がうつるとあります。

ガイドブックの題は「尊厳の芸術展」とあります。
これじゃ、題名がおごそかで空疎な感じをうけて、言葉が浮いてしまいます。
それが残念な気がしました。

ああ、美術館というのは、こういうのを展示すると、俄然、地を踏みしめている気がしてくるのでした。


そのあとに家にかえってから、背中がゾクゾクとしてきて、
どうやら風邪気味。ノドもいがらっぽくなり、
ここ数日、早く寝るようにしておりました。
夜中にせき込みます。
空気が乾燥しているせいかなあ。

どなたさまも、お体たいせつに。
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