和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

楚人冠と浜口梧陵。

2012-10-01 | 他生の縁
朝日の古新聞を貰ってきて、パラパラと
ひらいていたら、9月16日の読書欄に
出久根達郎氏の書評が掲載されておりました。
とりあげている本は、小林康達著「楚人冠 百年先を見据えた名記者 杉村広太郎伝」(現代書館)。そして小林康達氏は「42年生まれ。千葉県我孫子市教育委員会文化課の嘱託職員。」とあります。
書評の最後はというと
「・・何より彼の思想である。洒脱(しゃだつ)な文章の魅力をもっと紹介してほしかった。」とあります。
最初の方には、こうもありました。
「・・膨大な文業は、18巻もの全集に集成された。特筆すべきは、稲わらに火をつけて村人を津波から避難させた豪商浜口梧陵の伝記だろう。同郷人であり、梧陵の末子と親友のよしみから、大正9年にまとめた本書は、現在も梧陵伝の第一級資料である(全集の7巻に納められている)。楚人冠の足跡は、近代史であり文学史である。・・・」

そういえば、昨年9月に出た
出久根達郎著「日本人の美風」(新潮新書)の
最初に取り上げられていたのが
「天災と砕身 浜口梧陵と篤志の人々」だったのでした。
あらためて、その箇所だけ読んでみました。
あれ、私は何を読んでいたのでしょう。
と、再読の楽しみ。
うん。浜口梧陵小伝を読んでみなくちゃ。
と思って、すっかり忘れておりました。
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即断即決。

2012-09-28 | 他生の縁
雑誌WILLの編集長は花田紀凱氏。
そういえば、
「池波正太郎を読む」(新人物往来社)に
「担当編集者が語る 素顔の池波正太郎」という対談があって、
そこで花田紀凱氏が語っているのでした。
そのはじまりを花田氏が語っている。

花田】 僕は新入社員の頃、二年間だけ『オール読物』の編集部にいました。会社からすれば、大学を出たばかりで何も知らない新人に作家を担当させ、原稿をいただくという作業を通じて編集者としての礼儀作法を覚えさせようという狙いがあったのだと思います。僕ばかりではなく積極的に新人を『オール読物』の編集部に投入していたようなのです。僕の先輩で『文藝春秋』の編集長をつとめた堤尭さんも『オール読物』がスタートです。
彭】 その頃、池波さんはすでに偉かったのですか。

 ここからすこし長く引用してみます(笑)。

花田】 『錯乱』で直木賞は受賞されていましたが、『オール読物』では年間に一回か二回くらい短編を書いていただくという作家でした。当時、『オール読物』は四十万部ほど売れていて力のあるマスメディアだったわけでして、池波さんといえども毎月書いていただくという作家ではなかったのです。そんな『オール読物』が昭和42年12月号で時代小説特集を組むことになり、私が池波さんに短編を依頼することになった。それで書いていただいたのが『浅草・御厨河岸』です。この作品に初めて火付盗賊改方の長谷川平蔵が登場して来るのです。・・・『浅草・御厨河岸』を一読した当時の『オール読物』編集長の杉村友一さんが『これは面白い!』と即座に反応した。『花田、長谷川平蔵を主人公とした連載を頼め』と。これは当時の『オール読物』からすれば異例のことでした。大きい雑誌でしたから連載なんか、そう簡単に決められない。前々から順番があるわけじゃないですか。それをいきなり翌月の新年号から連載しようというのですから、まさしく即断即決です。この連載がやがて何十億という利益を文藝春秋にもたらすことになるのです。


うん。『WILL』の年間購読を数年間単位で予約しようかなあ(笑)。
あと、この対談で彭理恵さんは、こう語っておりました。

彭】 時間を守るということには、本当に厳しい方でした。性格とか、才能はどうにもならないけれど、時間を守ることは誰にもできるというわけです。私はある時期グラビア班にいながら池波さんを担当していました。なぜかと言うと、異動の引き継ぎの時に次の担当が大遅刻したために、池波さんの怒り爆発!それで結局、私がグラビアの仕事をしながら、担当を続けることになりました。・・・
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新田次郎誕生100年。

2012-06-23 | 他生の縁
雑誌「新潮45」7月号の新潮社新刊案内。
新潮文庫6月の新刊に、
新田次郎誕生100年記念フェアとして、
新田次郎の二冊が並んでおりました。
「つぶやき岩の秘密」という少年冒険小説と、
もう一冊が「小説に書けなかった自伝」。


さっそく、その自伝の方を購入。
ということで、そのお話。

「司馬遼太郎が考えたこと 15」に
「本の話 新田次郎氏のことども」という文があります。
そのなかに
「『強力伝』という作品で、直木賞を受賞された。当時、私はこういう、筋骨と精神力をともなう専門家が、小説を書きはじめたこと自体、明治後の小説家の歴史における異変だとおもっていた。」という指摘があります。

さて、「小説に書けなかった自伝」のはじまりは

「小説を書くようになった動機はなにかとよく訊ねられる。それに対して私は、妻が『流れる星は生きている』を書き、それがベストセラーになったのに刺激されて、おれもひとつやってみようかということになり、初めて書いたのが『強力伝』で、それ以後小説から足を抜くことができなくなったと判で押したように答えている。だいたいこのとおりであるが、もう少し詳しく説明すると、そもそもの動機は『筆の内職(アルバイト)』をしたいということから発した生活上の要求であって、文学とか小説とかいうものとはなんのかかわりもない出発だった。」


ところで、司馬さんは「本の話」のなかで、
新田次郎氏に新聞の連載小説をたのみに、東京へと出張します。

「私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。」

この時に、司馬さんは断られて帰ってくるのでした。

新潮文庫「小説に書けなかった自伝」をパラパラひらいていると、
昭和三十四年のことが出てきます。


「昭和三十四年の三月半ばころ、『週刊新潮』編集部の新田敞(ひろし)さんが気象庁へ私を尋ねて来た。」(p88)
そこで、新田次郎氏は連作小説を引き受けることになるのでした。
まず、三篇を書いてわたすと

「三日ほど経ってから、南さんがやって来て、
『全部駄目でした。別なものをお願いしたいのですが』
と済まなそうな顔で云った。どこそこを書き直せというならば話は分るけれど、別なものを書けというのは三つとも『週刊新潮』に載せられないような原稿だという意味である。これにはショックを受けた。五時の過ぎるのを待って役所を出て、神田の喫茶店で南さんにくわしく話を聞いてみると、この小説を『週刊新潮』に載せるかどうかは編集担当重役の斎藤十一さんが決定することになっているので、われわれとしてはどうにもならないということだった。」(p90)

うん。ここから新田さんはどうするか?
ちなみに、この文庫「小説に書けなかった自伝」は
本文のあとに、28ページほどの新田次郎年譜。
藤原てい「わが夫 新田次郎」。
藤原正彦「父 新田次郎と私」が掲載されております。


興味深いのは、この自伝を読むと、
同時発売の新潮文庫「つぶやき岩の秘密」を読みたくなる。
ということで、その興味をそそる箇所を引用。

「まだまだ小説について経験の少ない私には、少年小説のほうが大人の小説より、遥かにむずかしいものであるということを知らなかった。」(p13)

というのは「小説に書けなかった自伝」のはじめのほうに出てきます。そして「自伝」の「八甲田山死の彷徨」の章に、こうあるのでした。


「私は昭和46年の2月の始めに、三浦海岸の新潮社の海の家にカンヅメになった。」
「附近の自然林の山桜が散ったころ、私はふじ(注・日本犬)と桑原さんの一人息子の貞俊君と海岸に出た。南に向って少し歩くと海を見おろす絶壁の上に豪奢な別荘がある。以前からその家の存在が気になっていたので、貞俊君と相談して海の方からよじ登ってみることにした。少年を先頭にしてかなりな急傾面の藪を這い登ると、そこに有刺鉄線が張ってあった。その有刺鉄線にそって迂回して行くと門があった。なんとそれは三浦朱門、曽野綾子さん御夫婦の別邸だった。・・・この年の秋『八甲田山死の彷徨』が出版されるころ、私はもう一本書きおろしをやっていた。・・・新潮社出版部が企画した『新潮少年文庫』に参加したのである。私は『つぶやき岩の秘密』という少年小説を書いた。三浦海岸を舞台にした、一種の冒険探偵小説のようなものだった。海を見下す崖の上に、白髪の老人が一人で住んでいるという想定から始まった。三浦朱門さんの別荘がモデルとなった。彼の家のすぐ裏手にある、円墳塚もまた、この小説の重要な鍵となり、彼の家の直下にあたる、大洞窟の存在と潮流との関係・・・・」(p201)


と、楽しめました。お名前だけでしたが
齋藤十一・三浦朱門・曽野綾子と登場しており。
どなたも、直接には会っておられないよな、
袖振り合うも他生の縁みたいな、
自伝での登場の仕方でした。
それが印象に残ります。

私は「八甲田山死の彷徨」未読。

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司馬さん丸谷さん。

2012-06-03 | 他生の縁
丸谷才一氏と司馬遼太郎氏の
思わぬつながりを見つけました。
それは、浄土真宗。

ということで、
以下に、それについての箇所。
まずは、
司馬遼太郎の「日本仏教小論 伝来から親鸞まで」。
これについて、
新潮社の「司馬遼太郎が考えたこと」15巻目には、
作品譜として、その文の経緯が読めるのでした。それによると、

「1992年 
3月5日にニューヨーク・コロンビア大学ドナルド・キーン日本文化研究センターで催されたキーン教授退官記念セレモニーでの講演草稿に加筆したもの。ニューヨーク滞在は3月1日~3月12日。・・・」

とあります。
司馬さんは、講演をはじめるにあたって、このように自らを語っておりました。

「日本仏教を語るについての私の資格は、むろん僧侶ではなく、信者であるということだけです。不熱心な信者で、死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を拒否しようとおもっている信者です。プロテスタンティズムにおける無教会派の信徒とおもって頂いていいとおもっています。
ただ私の家系は、いわゆる【播州門徒】でした。いまの兵庫県です。17世紀以来、数百年、熱心な浄土真宗(13世紀の親鸞を教祖とする派)の信者で、蚊も殺すな、ハエも殺すな、ただし蚊遣りはかまわない、蚊が自分の意志で自殺しにくるのだから。ともかくも、播州門徒の末裔であるということが、私のここに立っている資格の一つかもしれません。」


つづいて、
丸谷才一批評集の第三巻「芝居は忠臣蔵」。
その巻末対談。瀬戸川猛資氏との対談で、
丸谷才一氏が、こう語っているのでした。

丸谷】 ところで僕の家の宗旨は、浄土真宗なんです。親父は医者で、僕をつかまえてはしきりに患者の旧弊ぶりを嘆いたものです。診察して、これは大変だ、今すぐ手術だというときに、患者の家族が『きょうは日が悪いから明日にしてくれ』と言いだす。それを説得するのにひどく骨が折れたらしい。そして『こういう迷信は絶対に信じちゃいけない』と諄々と僕を諭すんです(笑)。・・・・・
そういう気質は、父が近代科学的合理主義者だったからだと思ってきたけれど、ひょっとするとこれは、家が真宗であったせいもあるかもしれない、と最近思うんです。『門徒もの知らず』と言うでしょ。卒塔婆もないし位牌もない。そういうことにはいたって冷淡で、儀礼の廃止、さらには呪術性の蔑視、これがひじょうに強いですね。
ほら、福沢諭吉が『福翁自伝』で語る、子供のとき、神様のお札を踏んづけてみたけれど何ともなかったという有名な話があるでしょう。あれは諭吉少年の近代主義のあらわれということになっています。しかし、彼の家は真宗でしたから、もともとそのせいで呪術性への懐疑的傾向が強かった、と見ることもできますね。 (p372)


うん。これからは、浄土真宗とはどんな宗教かというイメージをするのに、具体的に、司馬遼太郎と丸谷才一(それに福沢諭吉)を思い浮かべれば、焦点がはっきりしそうな気がしてきました。
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な、な、そうだろう。

2012-05-19 | 他生の縁
私は小説を読まない。うん。めったに読まない。
テレビのドラマは見てる癖にね(笑)。

さてっと、雑誌「新潮45」6月号が昨日出ておりました。
そこの特集「誕生100年・今こそ読みたい新田次郎」が
気になりました(新田次郎の小説は読んだことがない癖して)。

その特集は3人の方が書いておりました。
それを読んでいたら、
司馬遼太郎のエッセイが思い浮かんできます。

まあ、(小説を読まない)私の連想ですから、
気ままなものです。

司馬遼太郎が亡くなる前年のエッセイに
「本の話 ―― 新田次郎氏のことども」があります。
これは、「以下、無用のことながら」にも、
「司馬遼太郎が考えたこと 15」にも掲載されてます。

司馬さんのそれは、こうはじまっております。

「もう古い話で・・・・私が三十代だった昭和三十一、二年のころである。私は大阪の新聞社にいて、文化部のしごとをしていた。その新聞社は、『大阪新聞』という夕刊紙もあわせて発行していた。その連載小説のお守りも、私の仕事の一つだった。・・・ただ一度だけ・・たまたま自分の案が通って、東京へ出張したことがある。なんだか晴れやかな気分だった。」

こうして、気象庁の課長さん藤原寛人(新田次郎)を尋ねて、連載小説をお願いする司馬さんなのですが、見事に断られるいきさつを書かれたエッセイなのでした。

「その後、二十余年、お会いする機会もないまま、亡くなられた。その間、私は読者でありつづけたから、べつにお会いする必要もなかった。」

こうして、エッセイは主題にふれていくのでした。

「去年のことである。枕頭で本を読んでいるうちに、飛びあがるほどおどろいた。著者である数学者が・・・ともかくも、上質な文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ることをわすれるうちに、この本の著者の藤原正彦氏が・・・とふとおもったのである。あわてて本の前後を繰るうちに、やはり新田次郎氏の息であることがわかった。・・・この偶会のよろこびは、世にながくいることの余禄の一つである。同時に、本のありがたさの一つでもある。・・・」


ここに、司馬さんは「上質な文章が吸盤のように当方の気分に付着してきて眠ることをわすれる・・」とあるのでした。当然のように、新田次郎の息の藤原正彦著『遥かなるケンブリッジ』を読んでいない私(笑)。ですから、それが、どのような文なのかも、気にもせずに、忘れておりました。

ということで、「新潮45」6月号なのですが、
そこに、藤原正彦氏の文がある。
そこを、引用。


「・・文章まで似ているとよく言われる。父は完成した小説をまず編集者に読んでもらい感想をもらってから二度目の推敲に入ったが、エッセイの方は私に第一読者の役を頼んでいた。長い年月、父のエッセイを精読しては批評するという仕事をしていたから、自然に文章の回し方やリズムが父に似てきたのだろう。処女作の『若き数学者のアメリカ』を読んだ数学者の友達に、『オヤジさんに書いてもらったんだろう。な、な、そうだろう、な』と言われた。『いや、自分で書いた』と口を尖らせたら、『もうそんなに頑張らなくてもいいから。そろそろ白状しちゃえよ』と言われた。」(p154)


うん。司馬さんが、連載をたのみにうかがった頃だろうなあ、その頃の様子を正彦氏は書いております。最後に、そこも。

「父の作家生活の前半は気象庁との二足のわらじで、目の回るような忙しさだった。どちらでも恥ずかしくない仕事をするため、余暇というものは皆無に等しかった。趣味やスポーツに費す時間もほとんど持ち得なかった。役所から帰宅すると、夕食後にくつろぐこともせず、直ちに書斎に向かった。どてら姿で書斎のある二階への階段を上りながら、『戦いだ、戦いだ』とつぶやいていた。風邪で三十八度の熱がある時でもそうした。そんな時、家族の者は押し黙ったままそれぞれの持場に散って行った。・・」(p154)
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ご当地古本屋。

2012-05-14 | 他生の縁
古本は読めればよい。
というタイプなので、できるだけ値段の安いのをネット注文。

最近の注文したのは、
柳宗悦著「南無阿弥陀仏」で紹介されていた
吉川清の「一遍上人」「遊行一遍上人」を
値段の安さにひかれて、注文しました。

太田書店(静岡市葵区)
吉川清著「一遍上人」協栄出版社(初裸本背小口ヤケ)
 1050円+送料210円=1260円

書肆八松(藤沢市辻堂)
吉川清著「遊行一遍上人」紙硯社
 600円+送料160円=760円
(こちらは、注文すると、保存状態の確認として
写真を送ってきました。表紙裏表とページとで4枚も)

さて、とどいた2冊の、どちらも昭和19年発行となっておりまして、
つまり、紙質がもともと、わるい。それは承知のうえなので
気にならないのですが、思わぬ発見は
どちらも、装幀・鳥海青兒。
「遊行一遍上人」の表紙は
空也立像(歴史や美術の教科書の載っているあれです)のような
立ち姿の絵です。数珠をもった左手を前に差し出して、
素足ですこし腰がこごんだような姿をして、
坊主頭の顔を前につきだしたような。
空也像は口から何やら出ておりましたが、
こちらの絵は、いまにも話が聞こえてきそうにも思えます。
(空也は杖をついて、いろいろぶら下げたり、もっていましたが
一遍はみすぼらしく臭ってもきそうな着物を縄のようなものでしめて、
もっているのは数珠のみ)

「一遍上人」の表紙は
「南無阿弥陀仏」の民芸風の文字が、ならび
その上に題名と著者名が赤くすこし透ける文字で印刷されています。
その二冊の表紙を並べてみると、
本の状態は、まったくよくないのですけれども、
何とも気品というか気迫がある。


さらに、今日届いた古本がありました。

古書リゼット(鹿児島県鹿児島市)
坂村真民著「一遍上人語録 捨て果てて」(大蔵出版株式会社)
1000円+送料160円(ヤマトメール便)=1160円
こちらは、何と、
坂村真民氏の「こんにちただいま」という筆書きが
してありました。それに、包装紙の裏に
謹呈と赤いマジックで、そのあとサインペンのような
文字が5~6行、雑誌をいただいたお礼に送ったもののようで
そのような内容のことが書かれてありました。

坂村真民氏については、だいぶ以前から、ある方に、「一道を行く 坂村真民の世界」(到知出版社)という本を読んでみるようにと、あずかって、そのままになっており、ちょうど、一遍上人との関連で、これで読むキッカケが、つかめたので、ひとり喜んでおります。


ちなみに、坂村真民氏は熊本生まれ。
ネットで日本中の古本屋を検索できる楽しみ。
というのがあるのを、偶然ですが知りました。

余談になりますが、
一遍上人といえば、思い浮かんだのが
加藤秀俊著「メディアの発生」(中央公論新社)の追記(p214)。
そのはじまりの箇所をすこし引用。

「一遍上人ゆかりの江刺の聖塚を訪ねたのは平成18(2006)年夏のことであった。そこで供養された『すすき念仏』が、それをつたえる『薄念仏会』という名で毎年9月15日におこなわれていることもそのころに知った。場所は神奈川県藤沢の遊行寺(正確には藤澤山清浄光寺(とうたくさんせいじょうこうじ))。江刺訪問から二年後の平成20年の9月当日、かねてからの念願をはたすべく、わたしは藤沢にむかった。・・・・」

うん。わたしは藤沢の古本屋へ注文したのでした。
機会があれば、9月15日に遊行寺へと行きたいなあ。
そう思って、いまだ実現していないのでした。
まあ、届いた古本の表紙をながめながら、
そんなことを思っているのでした。
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最後の書評ポータル。

2012-05-11 | 他生の縁
オンライン書店BK1に書評ポータルがあり、
毎日楽しみにしておりました。

さまざまな方の書評を、読むことができるしあわせ。
ありがたいことに、書評がとりあげられると3,000円分のポイントをいただける楽しみ。

そこの運営を担当されていた辻和人さんが
新しいサイトの立ち上げで、書評の仕事から離れるという挨拶文を
最後の書評ポータルに書かれておりました。

BK1では「書評の鉄人」という名称をいただけたりして、また、その方々のブログをひらくと、「書評の鉄人」のマークがさりげなく掲げられておりました。辻和人さんの企画と編集の機微を、身近に味わう事ができたのは、その「書評の鉄人」に取り上げられる際の、メールのやりとりにありました。「書評の鉄人」になりますと、好意的なコメントがついて、10の書評を選んで並べてもらえる。

こういう魅力的な書評の広場のおかげで、皆さんと共有できる貴重な書評の財産となりました。これをはげみに、本の書評を自分なりにつづけてゆきます。辻和人さん、ありがとうございました。

オンライン書店BK1と辻和人さんのお名前と、
忘れないように、ここに書き込みしておきます。
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文章日本語の陣中見舞。

2012-02-21 | 他生の縁
岩波新書「南極越冬記」についてです。
それにまつわる話で、3冊の本に登場してもらいます。
なんだか、3冊が微妙に異なる。
ちょっと、その味わいを噛みしめてみたいと思うのでした。

○桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)
 この中の司馬さんとの対談。司馬遼太郎対談集にもあります。
○司馬遼太郎が語る日本 未公開講演愛蔵版Ⅱ(週刊朝日増刊)
 これは、司馬遼太郎全講演1964-1983(朝日新聞社)にもあり
 のちに文庫にもなっているはず。
○西堀栄三郎選集別巻「人生にロマンを求めて 西堀栄三郎追悼」(悠々社)
 そこにある、梅棹忠夫氏による追悼文。

西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)にまつわる、
上記3冊を並べてみたいと、思ったわけです。
最初は、桑原武夫・司馬遼太郎対談「『人工日本語』の功罪について」。
そこに、ちらりと、こんな箇所があったのでした。

司馬】 ところで、先生は以前どっかへゆく車のなかで、『ちかごろ週刊誌の文章と小説の文章と似てきた。これは由々しきことだ』ということを、それも肯定的な態度でおっしゃったことがありましたね。この現象は・・・やはり日本語としてはめでたきことです。
桑原】 ええ。・・・一例をあげると、私の知人のある若い科学者、彼はすばらしい業績をあげていたが、文章が下手で読むにたえないので、ぼくは『きみのネタはすばらしい。しかしこんな文章ではぜったい売り物にはならへん』といったんです。彼は反省しまして、学校に通う電車の中で毎日必ず週刊誌を読んだ。そのうちに文章がうまくなりましたよ。
司馬】 なるほど。型に参加できたわけですな。
桑原】 別に科学者として偉くなったわけではないが、彼の文章に商品価値が出て、それによって彼の学説も広まったわけです。


う~ん。はたして、ここでいうところの「ある若い科学者」とは、どなたなのでしょう。
つぎにいきます。
司馬遼太郎講演に「週刊誌と日本語」(1975年11月21日)というのがありました。
その講演に、西堀栄三郎氏が登場しておりました。
「・・西堀栄三郎さんという方がいます。
京都大学の教授も務めた、大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。
西堀さんはすぐれた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『だから、お前さんはだめなんだ。自分の体験してきたことを文章に書かないというのは、非常によくない』
西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
『おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ』
『文章に理系も文系もあるか』
『じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
『お前さんは電車の中で週刊誌を読め』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『週刊誌を読んだことがない』
  ・・・・・・
それから西堀さんは一年間で、文章がちゃんと書けるようになられたそうであります。(笑い)」


私は、桑原武夫・司馬遼太郎の対談を思い出すたび、
この司馬さんの講演を思い浮かべるのでした。
どちらも昭和30年代の週刊誌ということに眼目をおいております。


さてっと、ここに、ちょっと毛色の変わったエピソードがつけ加わりました。
西堀栄三郎選集別巻にある梅棹忠夫氏の文がそれでした。
その追悼文に、「南極越冬記」という箇所があるのでした。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。講演や座談会などにひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊にして出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。
ある日、わたしは京都大学の桑原武夫教授によばれた。桑原さんは、西堀さんの親友である。桑原さんがいわれるには、『西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、君がかわりにつくってやれ』という命令である。わたしは仰天した。
まあ、編集ぐらいのことなら手つだってもよいが、いったい編集するだけの材料があるのだろうか。ゴーストライターとして、全部を代筆するなどということは、わたしにはとてもできない。
ところが、材料は山のようにあった。大判ハードカバーの横罫のぶあついノートに、西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、さまざまなエッセイの原稿があった。このままのかたちではどうしようもないので、全部をたてがきの原稿用紙にかきなおしてもらった。200字づめ原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、岩波新書一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。
わたしはこの原稿の山をもって、熱海の伊豆山にある岩波書店の別荘にこもった。全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、要所要所にエピソードをはさみこみ、いくつもの山場をもりあげてゆくのである。大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとにクリップでとめた原稿用紙をならべて、それをつなぎながら冗長な部分をけずり、文章をなおしてゆくのである。
この作業は時間がかかり労力を要したが、どうやらできあがった。この別荘に1週間以上もとまりこんだように記憶している。途中いちど、西堀さんが陣中見舞にこられた。そして、わたしの作業の進行ぶりをみて、『わしのかわりに本をつくるなんて、とてもできないとおもっていたが、なんとかなっているやないか』と、うれしそうな顔でいわれた。
岩波新書『南極越冬記』は1958年7月に刊行された。たいへん好評で、うれゆきは爆発的だったようである。」(p15~16)

う~ん。この「材料の山」「原稿の山」を踏み固めながら「とてもできないとおもっていた」登頂を果たしたときの達成感が、言外に伝わってくるようであります。
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写真と選集。

2012-02-20 | 他生の縁
今日、2月20日読売新聞の「編集手帳」は
こうはじまっておりました。

「関西弁には『どぎつい』イメージがついて回る。だが、ほっとさせてくれる言葉も少なくない。その一つに【やってみなはれ】がある。・・・
口癖にしていた人は多い。例えば第一次南極越冬隊長だった西堀栄三郎氏だ。TBS系列で昨年放送されたドラマ『南極大陸』では、越冬隊長を演じる香川照之さんが『とにかく、やってみなはれ』と幾度も隊員を励ましていた。・・・・」

え~。古本が届きました。
注文さきは三松堂書店(名古屋市中区)
西堀栄三郎選集全4冊
古本代21000+送料630=21630円なり。

うん。買ってみなはれ。
とにかく、読んでみなはれ。


私の最初は、「4人一緒の写真」からでした。(笑)
梅棹忠夫・桑原武夫・西堀栄三郎・今西錦司がご一緒の写真。
選集別巻「西堀栄三郎追悼」をひらくと、
まず、梅棹忠夫氏の「序章 西堀さんにおける技術と冒険」が掲載されております。
ああ、そうだ。と思い浮かべるのは、
梅棹忠夫による「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」(中央公論1992年8月号)でした。それと、梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫傳習録」(潮出版社・昭和56年)を加えると、梅棹忠夫氏が他の御三方と語りあっているような、何やら、それをそばで聞いているような気分になってきます。

ということで、梅棹氏による追悼文を読みながら、あらためて「4人一緒」の写真を見る。

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ヘヘーイ。

2012-02-14 | 他生の縁
「梅棹忠夫の『人類の未来』」(勉誠出版)。
その写真(p59)に
今西錦司・西堀栄三郎・桑原武夫・梅棹忠夫の4人が写っておりました。
それについて、このブログに貴重なコメントをいただきました。ありがとうございます。写真の人物がすこし動いたような・・(笑)。ということで、さっそくネット検索。
谷沢永一著「男冥利」(PHP研究所)に12ページほどで、西堀栄三郎の紹介文がありました。副題に「自ら研究に生涯没頭した愛すべき野人」とあります。

検索してよかったと思えたのは、講談社現代新書でした。
講談社現代新書「学問の世界 碩学に聞く」上下。
その上巻に、桑原武夫・西堀栄三郎・今西錦司の3人の名前があります。
聞き手は加藤秀俊+小松左京。となっております
(ちなみに、この新書はあとに
講談社学術文庫に入ったのですが、
文庫では西堀栄三郎ほかがカットされてしまっております)。
とりあえず、西堀栄三郎氏へのインタビューの箇所を読んでみました。4人一緒の写真に関連しそうな箇所として、こんな言葉がひろえます。

「私は今西君(錦司)という人間と、中学一年のときにはじめて会うてからのち、ずっと彼を兄貴――私より一つ上ですから――と思っている。それで彼の足らんところを補うたらいちばんいい友達になれるのではないかと、こう思うてるわけです。彼は物理が嫌いなんです、それなら私は物理をやればと。そのかわり、あいつにいわれると蛇ににらまれた蛙みたいなところがありましてね、『おい、南極へ行け』『ヘヘーイ』、『ヒマラヤへ行け』『ヘヘーイ』、『日本山岳会の会長になれエ』『ヘヘーイ』ってそんなものでね。彼は中学時代にあだ名をつけたりすることがうまかった。・・・」(講談社現代新書「学問の世界」上・p139~140)

こういう人が、「4人一緒の写真」では、隣り合わせて座られている。
インタビューがいいのでした。
たとえば、
小松】 ぼくもやたらに旅行が好きで、先生の『南極越冬記』を読んでから絶対南極へは行ってやると思って、ついに1975年に行った。
西堀】 そうですか、それはよかった。・・・
というやりとりのあとで、南極雪上車の歯車の欠けた話が具体的になり、南極での真空管修理や発電機のあれこれと細部を語りはじめて、なんと、そこから原子力船の放射能漏れへと話題がゆき「私は機械的原子炉は嫌いなんです」という話へとつながってゆくのでした。読み甲斐があり、もう一度、読んでみます。
4人一緒のお喋りがもれだしてきそうな、そんなコメントをいただきありがとうございました。もうすこし丁寧に読んでみます。



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又始まるぞ冬籠。

2012-01-25 | 他生の縁
竹内政明の中公新書ラクレ「編集手帳」第21巻が、まだ出ないかなあ。と新刊検索してたら、竹内政明著「名言手帳」(大和書房)というのが、出ている。まあ、いいかと購入。

さて、これが私には思いがけない魅力の一冊。
新聞一面コラムが、短いコラムに時事問題をからめる苦労があるとするなら、この「名言手帳」は、そんな苦労から開放されて、のびのびとした短文が息づいており、楽しめるのでした。まずページ右側に著者が選ぶ名言。左ページに竹内氏の文。という構成で108回。
ちょっと、第四章の「愛」についての文が、私にはものたりなかったのですが、これはテレビでごちゃごちゃと語られすぎの悪い影響に感染した一読者の高望みなのかもしれません。

ここでは、一箇所だけ引用。それは37回目にありました。
竹内さんの文のはじまりは、こうです。

「中年にさしかかって結婚を決意した武骨な男(室田日出男)が、心配顔で仕事仲間に訊いた。『結婚してからだいたい何日目に女房の前でオナラをしていいもンか?』。往年の人気テレビドラマ『前略おふくろ様』(倉本聰・脚本)のひとこまである。・・・」

ここに、オナラとあるのでした。余談になりますが、
オナラといえば、小林一茶に

   屁くらべが又始まるぞ冬籠

という句があるなあ。
ということで、オナラつながりで、
ここらで、連想の風呂敷をひろげてみます。

「名言手帳」とおなじような名言名句の一冊で、
私に思い浮かぶのが谷沢永一著「百言百話」(中公新書)。
その「百言百話」のはじまりは、
こんな名句からなのでした。

「俺とお前は違う人間に決まってるじゃねえか。早え話が、お前がイモ食ったって俺のケツから屁が出るか  (映画「男はつらいよ」) 」

谷沢永一氏は、この引用したあとに、
おもむろに、こう書き始めておりました。

「人間はどんなに親しくても、所詮は他人である事情を、これほど見事に言い当てた警句は他になかろう。そのくせ、フーテンの寅さんが、甘ったれをたしなめる時、嬉しくもこの名句を記録してくれた和田誠が、『お楽しみはこれからだPART2』で注記しているように、とにかく『可笑しなセリフ』になっているところが、いかにも映画という手法を生かし得ていて心憎い。世界名句集にも必ず採録すべきである。・・・」



オナラといえば、金子兜太対談
「今、日本人に知ってもらいたいこと」(KKベストセラーズ)
がおもいうかびます。金子兜太氏では
2003年日経新聞1月5日のエッセイが忘れらないのでした。
題は「正月の山国」(これ、本に収録されてるのかどうか?)。
開業医の父親のところに、俳句好きの仲間が集まる。
そこを引用してみます。

「この人たちも正月にはかならず姿を見せていた。」
「男たちは山仕事や畑仕事で鍛えられた強酒の人が多く、飲むほどに気が荒くなった。そんなとき、年配の人が、座を和ますようにはじめるのが、雑俳の冠付(かんむりつけ)の一種ともいえる遊びだったのである。その人は尻取りといっていた・・・」
「年賀の酔いとは別に、いささか尾籠ながら『屁くらべ』と称する遊びごとがはじまることもしばしばだった。放屁の高さや長さ、持続を競うものだ・・・あの頃の正月は、こんなぐあいに、騒々しく、猥雑に、しかしいつもどこかが温(ぬ)くとく過ぎていった。忘れることはできない。」

   安岡章太郎著「放屁抄」からもすこし

「かねがね私は家で父がたびたび放屁するのをきいており、父によれば屁は健康のしるしだというのであった。そして屁にはナギナタ屁とかハシゴ屁とか、いろいろ芸術的な要素を持つものもあって、そういう放屁の名人の輝かしい業績は、いまも記録されているというのである。・・・勿論、なかには堪らないほど臭いおならもあるけれども。・・・」





もういいでしょう。竹内政明氏の文へともどります。
こちらは、オナラの話題が、すりかわって昇華(?)されていくようなのです。それでは、竹内政明氏の文は、そのあと、どう続いていたか?

「ドラマでは仲間たちから『バカだねえ』と茶飲み話のサカナにされるのだが、本物のオナラはともかくも、精神もしくは感情から発するオナラのほうは笑いごとで終わらない。女性の場合ならば、口やかましさ、過度のやきもち、『仕事と私と、どちらが大事なの?』といった紋切り型の詰問に代表される独占欲などが、典型的なオナラだろう。・・・男性は男性で、都合の悪い会話を『ウルサイ』の一語で打ち切る習性をはじめとして、みずから鼻をつまみたくなるようなオナラを朝となく夜となく放っている。」

さて、
竹内さんは最後を、こうしめくくっておりました。

「ありがたい法話を聞かせてくれる高僧も、オナラひとつしただけで威厳が台無しになってしまう。ことわざに言う【百日の説法、屁ひとつ】だが、百年の恋も感情のオナラひとつで冷めてしまうことを思えば、結婚とはたしかに残酷なものかも知れない。
自分の放つオナラであれ、相手の放つオナラであれ、においに慣れて鼻はいずれバカになる。知恵のない解決法ながら、救いといえば救いである。」


ちなみに、これは第四章「愛に生きられる喜びを」から拾った文(p97)。うん。私は、この1ページで、一日楽しめたのでした。まったく、おならはえらい(笑)。



  
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書きたかったわけですよ。

2012-01-18 | 他生の縁
月刊雑誌「文學界」2月号。そこに
特集「若き日の開高健」が掲載されておりました。
これについては、
Tsubuteさんのブログ「読書で日暮らし」(1月15日)に
丁寧な紹介がされていて、ありがたいなあ。

さっそく、その「文學界」2月号を手にします。
私の興味は、
開高健から、向井敏と谷沢永一への手紙掲載箇所。
それにともなうところの、魅力は山野博史さんの
「伴走、二十年。 谷沢永一先生との約束を果すまで」
という文でした。

葉書の写真も掲載されております。
うん。私は、その1頁を見て満足。
なにか、これだけで満腹。
あとは、本棚へしまっておきます(笑)。
その葉書の写真掲載は、というと
開高が向井宛に出した昭和25年9月8日の
葉書の表裏が写されております。
そのペン字で細かく書かれた文の最後はというと、
「所で、えんぴつに入らんか。今のままでは全く苦しいんだ。金木から聞いて谷沢が君に会いたがってゐる。えんぴつ入社(!?)の件と谷沢とのインタヴューの件、返事をくれ。待ってゐる。」というのでした。

私が思い浮かぶのは、
谷沢永一著「運を引き寄せる十の心得」(ベスト新書)のこの箇所でした。

「司馬さんは、僕に解説を指名したり、山野(博史)さんを大事にして、『菜の花の沖』全六巻の特別製本、それを山野、谷沢の二人に全部署名して贈ってくれました。僕らとすれば、後事を託されたという気持ちでおります。新潮社から出ている『司馬遼太郎が考えたこと』という、親版全十二巻、あれの60パーセントは山野博史が自腹を切って発掘した成果です。ほんとうに草の根を分けるようにして。要するに、司馬さんは書きたかったわけですよ、まだ無名の頃から。山野さんはあらゆることを考えまして、司馬さんは産経の京都支局に配属されていました。そうすると、向かいにお花の未生流の建物があって、そこが山野さんの特色ですが、ひょっとしたら、それと関係があったかもしれないというので、そこへ飛び込んでいって、おたくのお花の師匠が雑誌を出していますが、その雑誌に司馬さんが書いていませんかと。無名時代に書いているわけです。それを発掘した。もっと傑作なのは、司馬さんのお宅は近鉄奈良線の八戸(やえ)ノ里という駅から歩いて数分のところにありますが、司馬さんは『街道をゆく』などで全国を回りますが、全部タクシーを利用しているわけです。八戸ノ里の駅前にタクシー会社があって、そこへ出かけていって、おたくの宣伝文かパンフレットに司馬遼太郎さんが書いていませんかと聞くと、書いているんですね。・・・・」(p188~189)


え~と、ついつい違う引用をしてしまいました。
その山野博史さんが「文学界」2月号に書いている。
というだけで、あとはもういいでしょう(笑)。

さてっと、
今回は読まずに本棚へならべることにいたします。

「文学界」2012年2月号。
「新潮」1991年12月号(「回想 開高健」が掲載)。
「回想 開高健」(新潮社)
「開高健 青春の闇」(文芸春秋版)
鼎談「書斎のポ・ト・フ」(潮出版)
対談「読書巷談 縦横無尽」(日本経済新聞社)
谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP)
向井敏著「司馬遼太郎の歳月」(文芸春秋)


月刊雑誌などは、いざ、探そうとすると見つからないものですが、こうしてまとめておけば間違いなし。ちょっと、山野博史さんの本が探せなかったのでした。また、あとで出てきたら。
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あけましておめでとうございます

2011-12-23 | 他生の縁
文藝春秋2012年1月号に年賀状特集。
パラパラめくれば、「母・佐藤愛子の困った年賀状」という箇所が、見るだけで大笑い。写真年賀状の珍傑作。新年早々、笑うかどには福が来たる。という見本。



私は、「花森安治のデザイン」(暮しの手帖社)をおすすめしようと思っております。うん。この切り口からなら、すんなりといけそうです。
それが、「年賀状」。

「花森安治のデザイン」には、暮しの手帖の表紙ばかりか、ページのカットも、ていねいにひろわれており。なんと、「読者への年賀状」のページまでありました。

さてっと、佐藤愛子さんの写真年賀状にかぎらず、最近は写真の年賀状がふえているようです。「花森安治のデザイン」は、それへも見事に、適応しておりました。その表紙撮影という箇所には、こんな文があります。

「1958年、44号から、今まで描き続けていた表紙を写真に変える。撮影はいつも大変だった。・・構図は花森の頭の中だけにある。口出しは許されなかった。真上からの撮影は、花森美学の一つである。スタジオの天井は、屋根裏からカメラが構えられるよう、四角く切り取られていた。表紙用写真は、タイトル文字を組み合わせるため、ものの位置を微妙に動かして、何カットも撮る。・・・時間はかかり、深夜に及んだ。・・細部まで手を抜かない姿勢は、どの仕事でも全く変わることがなかった。」(p44)

年賀状には、絵や写真やカットをいれず、
言葉だけの年賀状を書いている方。
そういう方にも、おすすめします。

「花森安治のデザイン」には「手書きの文字」のページもあります。
文字のサイズに配置にと、花森安治の一点一句をおろそかにしない表現は「新聞広告版下」のページをご覧になれば、これまた年賀状の文字配置への格好のひらめきをひきだす視覚効果バツグン。

以上、おすすめはさまざま。
この「花森安治のデザイン」を身近に置くと
いろいろな、切り口からの発見が待っており、
願わくば、
あなたの、一太刀をお聞きかせ願いたくなる、
そんな魅力の一冊。


追伸
いまだ、私は年賀状を書くわけでもなく、
こんなことを、ブログに書き込んでいる。
うん。
この文で、ブログをご覧になっている方々への
出せない年賀状のかわりとさせて頂きます(笑)。



追々伸

最初に登場した文藝春秋1月号には「著名人36人 年賀状に書き添えたい一言」という箇所もありました。そこにドナルド・キーン氏も書いております。はじまりは
「私は正直言って、年賀状に添える一言に特別の思いはありません。近年は秘書が撮った写真を印刷した年賀ハガキをみなさんに送っています。」
おわりは
「特に思い入れのある言葉はないと冒頭に書きましたが・・・私はとにかく年賀状には心をこめて、『あけましておめでとうございます』と書くでしょう。」
そういえば、「花森安治のデザイン」にある、読者と仕事でお世話になった方へ毎年送っていた年賀状のページ(p158~159)には、カットとともに、ローマ字やひらがなで『あけましておめでとうございます』という文字がどれも共通しておりました。『賀春』『謹賀新年』とかの漢字は一切ナシ。
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次の本へと。

2011-12-11 | 他生の縁
日垣隆著「つながる読書術」(講談社現代新書)が、気になってます。
あとがきの次には、
「附録 読まずに死ねない厳選100冊の本」が
何とも手垢にまみれているようで、たのしいなあ。
藁おもつかむようにして、本との出合いが語られます。

ちなみに、あとがきには「魔法」使いの青木由美子さんの名が。

「本書は、講談社現代新書編集長の岡本浩睦さんの提案により、4年がかりの実験と実践で補いつつ、ようやく完成することができました。・・・・収拾がつかなくなり(泣)、『ラクをしないと成果は出せない』(だいわ文庫)や『折れそうな心の鍛え方』(幻冬舎新書)でもお力添えをいただいた青木由美子さんに、今回も魔法をかけてもらうことができました。お二人がいなければ、間違いなく本書は形を成すことはなかったでしょう。それは断言できます(きっぱり)。」

うん。「形を成すことはなかった」新書を読める幸せ。
ちょうど、古本で『ラクをしないと成果は出せない』『折れそうな心の鍛え方』の両方を手にしたので(読んだといわないところがミソ)。この新刊の新書の『魔法』のかけ具合が、より鮮明になるのでした。

本書のまえがきは、こうはじまります。

「本書では『つながる』には五つの意味を込めています。
第一に、ある本を読んで、次の本へと『つながって』いく読書の愉楽。
・・・・・・・」
まだ、四か条あるのですが
うん、私は『第一』で十分満腹。
これを拳拳服膺してゆきます。
そこで、ありがたかったのは、この箇所でした。

「ちなみに、学者やジャーナリストが、本の内容を引用する場合、どの本のどこにその箇所があったかを忘れてしまうと大変なことになります。思い出せなくて、10秒以上イライラして過すのは嫌なので、私は本を購入したときに、『古典講座テキスト』とか、『・・・の参考文献』とか、なぜこの本を買ったのかという理由や目的を、最初のページに書き込んでおいたり、そもそも読む本の動機をつくってくれた元の本の該当部分をコピーして挟んでおきます。こうすれば、『つながり』を忘れることなく、つきあわせて検証する――などのアクセスの時間を短くするためには、手っ取り早い方法です。
読書量が多くなればなるほど、この本をなぜ買ったか、忘れてしまって当然です。が、その『なぜ』は、とても重要なことですから、何らかの形(コピーをして本に挟むか、メモをするか)で判別できるようにすることをお奨めします。」(p140)

ああ、私はこの箇所だけ忠実に守れればそれでいいや。
これ、いただいて私のブログの芯としていきましょう。
まあ、そんなことを思った新書一冊でした。
そう、もうすこし、身近に置いときたい一冊。
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講義を聴こうじゃないか。

2011-11-13 | 他生の縁
中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」は、2008年に行われた京都大学総合人間学部での講義をまとめたもので、本文の最初にPHP研究所から説明があるのでした。そこには

「・・長年にわたり国際政治学、外交・文明論の観点から日本人を啓発されてきた先生のお話は、社会人を含めて聴講希望者が多く、講義録を求める声が多数寄せられました。・・・」

そこから、私に思い浮かんだのは、
「一度、江藤の講義を聴こうじゃないか」という石原慎太郎氏の言葉でした。以下、それについてのあれこれ。

中央公論特別編集と銘打った「江藤淳1960」(中央公論新社)が出ておりました。立読み風パラパラめくり読み。するとそこに、2011年9月におこなわれた石原慎太郎氏の「特別インタビュー」。
「60年安保の渦中で」という箇所があります。
そこからすこし

「あのころ珍しく、テレビで討論じゃないけれど、各党の党首が安保改定の是非について演説をした。自民党の岸信介は実に明晰で説得力があった。それに対して社会党の浅沼稲二郎は支離滅裂で、さっぱりわからなかった。浅沼はとにかく中共かぶれで、59年に訪中して、『アメリカ帝国主義は日中共同の敵』なんて馬鹿な発言をして、帰国のときには人民帽を被って羽田へ降りたんだ。・・・民社党の西尾末廣も滔々としゃべるんだけど、これも何をいっているかさっぱりわからない。野党の演説を聴いて、安保反対もいい加減なものだなと思った。人相がよくないけど、やっぱり岸はたいしたものだったな。
で、誰がいい出したのか忘れたが『どうも安保条約って、わかったようでわかってない。一度、江藤の講義を聴こうじゃないか』ということになった。『若い日本の会』に参加していた人間の中で、安保条約の改定前・改定後の条文を詳しく読んでいたのは江藤だけだった。
実際、日本文藝協会の理事会でも、こんなことがあった。定例会議の案件が審議されて時間が余ったので、丹羽文雄理事長が『議決が終わりましたが、まだ時間もございますので、みなさんついでに安保反対の決議をしましょうか』といった。すると、尾崎士郎が『いや、丹羽君、僕は賛成だぞ。なんで君、反対なの?』と質した。つづいて林房雄が『尾崎、お前もそうか。俺も賛成だ。丹羽君、反対なら反対で理由をいえよ』と迫った。そうしたら、丹羽はもうメロメロになって『それじゃ、この辺で』って散会になっちゃったんだ。そんな時代だったんだよ。そのときの江藤の講義は、非常に明快でわかりやすいものだった。・・・」(p180)


ちょうど、産経新聞2011年10月24日の「正論」に、
平川祐弘氏が「丸山真男去りて江藤淳来たる」という文。
その後半の箇所を引用。

「江藤は丸山を代表とする戦後知識人が、敗戦の屈辱を直視せず『自由な主体』成立のチャンスだと理想だか空想だかの世界に閉じこもることを批判する。戦勝国側の政治的思惑もあって語られた『平和』と『民主主義』を永遠の理想の登場のように思い込むのは欺瞞ではないか。・・・・
これは、角田柳作編の英文『日本思想原典』を米プリンストン大学で学ぶうちに、少年として日本の敗戦と国家の崩壊を目の当たりにした江藤が、本来は喪失感を出発点に据えなくてはならぬという自覚に達したからだろう。そんな江藤は、丸山一派と違って、明治以来の日本の歴史を全否定するような観念的な見方はしなかった。」

角田柳作といえば、ドナルド・キーン氏の先生じゃありませんか。
ついでに、この文の最後の箇所も引用しておきます。

「1960年の安保反対で国会周辺で荒れた学生を丸山は民主主義の勝利のように讃えた。だが、その同じ学生が68年、東大法学部を襲うや、丸山は今度は『暴徒だ』と憤慨した。私は東大教養学部にいて年中行事の学生のストや集団ヒステリーには慣れていたから、学生運動を理想化する気持ちはおよそない。辞職する丸山教授を8年前に学生を煽動する自業自得と見ていた。授業再開となるや、東大非常勤に私は江藤淳を招いた。江頭淳夫(えがしらあつお)とわざと本名で紹介すると満場の学生がどっと沸いた。・・江藤が東工大教授昇格の際に、『国士の面影があり』と推薦文に書いたことなど懐かしく思い出した次第だ。」
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