谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ・ロング新書・905円)。
この本をパラパラとめくりながら、思ったことを書いてみます。
まるで、株屋が、次々と出てくる株価の変動を押さえていくように。
まるで、競馬の専門家が、馬の様子を手に取るように知らせるように。
刻々と移り変わる本の推移を、この一冊だと、サッと取り上げる人がいる。
対談「読書談義」の中で、谷沢氏はこう語っておりました。
「ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。」
「『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でした。釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。」
対談者の渡部昇一氏は、伊勢物語の注について、
「ところでやはり藤井高尚の注はいいんでしょうね。」
「そこをあけただけで、ゲラゲラ笑いながらその注を読めたわけですよ。ところが今の『伊勢物語』の注を読んでゲラゲラ笑えるかというと・・・。やはり、高尚の注を読んでいるとこう温(ぬく)もりがくるんですね。時に、『伊勢物語』になぜ「伊勢」がついたのかわからない、ということはそのとき覚えました。・・学校ではやってくれない。『伊勢物語の注ならこれがいいんだ』と言ってくれないから、学生の勉強も気が抜けちゃうんですよね。」
そして渡部氏はこう続けます。
「谷沢さんのおっしゃったのが、ぼくらにはぴんとくるわけですね。日本文学史を全部自分で読んで公平にできるわけがない。上代では誰、近代では誰という発言の貴重さがわからない人間は、本当にやったことない人なんでしょう。やったことのある人は、これは貴重なことをよく言ってくれた、普通は言わないことなんだけど、と思う。」
なぜ、こんな引用をながくしているかといいますと、
最近、沼波瓊音著「徒然草講話」を読んだからなのでした。
この沼波瓊音の本を、谷沢さんは「人生後半に読むべき本」(PHP)で
こう紹介していたのでした。
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。・・
今までの注釈評釈で一番いいのは、沼波瓊音(武夫)の『徒然草講話』。学者的軽薄さがない。・・明治から戦前に書かれた注釈書で後世に大きく影響を与えた著作といえば、この『徒然草講話』と暁烏敏(あけがらすはや)の『歎異抄講話』の二つが双璧でしょう。」(p153)
ここで、気になるので、寄り道してみました。
まず岩波書店の「新日本古典文学大系39・方丈記 徒然草」。
「佐竹昭広・久保田淳 校注」とあります。
そこでの徒然草の参考文献として31の本が並んでおりますが、
沼波瓊音(武夫)の名前はありませんでした。
「新潮古典文学アルバム12 方丈記・徒然草」
そこに「方丈記・徒然草を読むための本」とあり、稲田利徳と署名いりで選んであります。24冊が並んでいますが、ここにもありません。
五味文彦著「『徒然草』の歴史学」(朝日選書)にもない。
杉本秀太郎著「徒然草」は読売文学賞受賞だそうです。
そのあとがきには、「参考した注釈書は引用の都度、明記したので、あらためて並べるのはやめるが、古注に属するものが読んでおもしろく、また教わるところも多かった。」とあります。とりあえず、本文をめくって探してみましたが、やはり沼波氏の名前は出てきませんでした(本文をちゃんとよんだわけではありません)。
さて、私の限られた視野のなかで、沼波瓊音の名前を見れたのは
講談社学術文庫・三木紀人全注釈「徒然草」(1~4)にありました。
これじゃ沼波瓊音の知名度はないに等しい。
これじゃ古本屋に沼波瓊音著「徒然草講話」の本が出ないのも分かります。
そして、
こういう谷沢さんの「この本だという言い方」に、
稀薄じゃなかった気迫がこもります。
それが、こちらの少ない興味と重なれば、もうありがたいばかり。
谷沢氏が関西大学の卒業間近に、大学に残ることになった時、
「どうしよう」と母親に相談すると、答えは「やめときなはれ」だったそうです。
「あんな、あんたはまだ若いから知らんやろうが、芸術家はんとか学者はんとかの世界は、雪隠(せんち)の踏み板いうて、表はほんまに綺麗に飾ったはるけで、板一枚のその裏は、世の中にこれほど汚いもんあれへんねで」と即座に言ったそうです。
その次の年の
「昭和28年10月5日、母ナツヱ死去。食う道のない私は母の遺訓に背いて、センチの踏み板の仲間入りしたのであった。」(「読書人の浅酌」潮出版)
え~と何だっけ。
そうだ「知見限りありて行蔵は限りなし。」という言葉があるそうです。
母の遺訓に背く谷沢氏ですから、言葉も一筋縄じゃいきません。
こうして「いつ、何を読むか」と題する本を新しく出版したのですが、
あとがきには
「私は他人から勧められて、言われるままにほいほいと本を読みにかかった経験がない。他人に指図されるのを好まない我侭者である。或る書物と自分との出会いは、私の身の上にだけ起こる事件である。一冊の本を誰もが同じ気持ちで読むことはできない。したがって、そもそも読書の勧め、なんて、余計なお節介なのである。貴方は貴方、お互いに勝手に気の向くまま、読むか読まぬかは自分ひとりの勝手であろう。」
とありました。
最後は井上章一さんの対談での言葉がまた思い出されます。
「私は、知性としてはむしろ、谷沢先生のような物知りのほうに憧れますね。・・
私自身のなかにある『頭が下がるなあ』という思いは、いわゆる『考える人』、突き詰めて考える人よりは、書誌学者のような『調べる人』の方に向かいますね。・・
書誌学は『私を踏み台にして、あなた伸びていって』って、ささえてくれる感じですもんね。・・・」
(季刊雑誌「考える人」2006年夏号・特集「戦後日本の『考える人』100人100冊」より)
この本をパラパラとめくりながら、思ったことを書いてみます。
まるで、株屋が、次々と出てくる株価の変動を押さえていくように。
まるで、競馬の専門家が、馬の様子を手に取るように知らせるように。
刻々と移り変わる本の推移を、この一冊だと、サッと取り上げる人がいる。
対談「読書談義」の中で、谷沢氏はこう語っておりました。
「ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。」
「『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でした。釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。」
対談者の渡部昇一氏は、伊勢物語の注について、
「ところでやはり藤井高尚の注はいいんでしょうね。」
「そこをあけただけで、ゲラゲラ笑いながらその注を読めたわけですよ。ところが今の『伊勢物語』の注を読んでゲラゲラ笑えるかというと・・・。やはり、高尚の注を読んでいるとこう温(ぬく)もりがくるんですね。時に、『伊勢物語』になぜ「伊勢」がついたのかわからない、ということはそのとき覚えました。・・学校ではやってくれない。『伊勢物語の注ならこれがいいんだ』と言ってくれないから、学生の勉強も気が抜けちゃうんですよね。」
そして渡部氏はこう続けます。
「谷沢さんのおっしゃったのが、ぼくらにはぴんとくるわけですね。日本文学史を全部自分で読んで公平にできるわけがない。上代では誰、近代では誰という発言の貴重さがわからない人間は、本当にやったことない人なんでしょう。やったことのある人は、これは貴重なことをよく言ってくれた、普通は言わないことなんだけど、と思う。」
なぜ、こんな引用をながくしているかといいますと、
最近、沼波瓊音著「徒然草講話」を読んだからなのでした。
この沼波瓊音の本を、谷沢さんは「人生後半に読むべき本」(PHP)で
こう紹介していたのでした。
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。・・
今までの注釈評釈で一番いいのは、沼波瓊音(武夫)の『徒然草講話』。学者的軽薄さがない。・・明治から戦前に書かれた注釈書で後世に大きく影響を与えた著作といえば、この『徒然草講話』と暁烏敏(あけがらすはや)の『歎異抄講話』の二つが双璧でしょう。」(p153)
ここで、気になるので、寄り道してみました。
まず岩波書店の「新日本古典文学大系39・方丈記 徒然草」。
「佐竹昭広・久保田淳 校注」とあります。
そこでの徒然草の参考文献として31の本が並んでおりますが、
沼波瓊音(武夫)の名前はありませんでした。
「新潮古典文学アルバム12 方丈記・徒然草」
そこに「方丈記・徒然草を読むための本」とあり、稲田利徳と署名いりで選んであります。24冊が並んでいますが、ここにもありません。
五味文彦著「『徒然草』の歴史学」(朝日選書)にもない。
杉本秀太郎著「徒然草」は読売文学賞受賞だそうです。
そのあとがきには、「参考した注釈書は引用の都度、明記したので、あらためて並べるのはやめるが、古注に属するものが読んでおもしろく、また教わるところも多かった。」とあります。とりあえず、本文をめくって探してみましたが、やはり沼波氏の名前は出てきませんでした(本文をちゃんとよんだわけではありません)。
さて、私の限られた視野のなかで、沼波瓊音の名前を見れたのは
講談社学術文庫・三木紀人全注釈「徒然草」(1~4)にありました。
これじゃ沼波瓊音の知名度はないに等しい。
これじゃ古本屋に沼波瓊音著「徒然草講話」の本が出ないのも分かります。
そして、
こういう谷沢さんの「この本だという言い方」に、
稀薄じゃなかった気迫がこもります。
それが、こちらの少ない興味と重なれば、もうありがたいばかり。
谷沢氏が関西大学の卒業間近に、大学に残ることになった時、
「どうしよう」と母親に相談すると、答えは「やめときなはれ」だったそうです。
「あんな、あんたはまだ若いから知らんやろうが、芸術家はんとか学者はんとかの世界は、雪隠(せんち)の踏み板いうて、表はほんまに綺麗に飾ったはるけで、板一枚のその裏は、世の中にこれほど汚いもんあれへんねで」と即座に言ったそうです。
その次の年の
「昭和28年10月5日、母ナツヱ死去。食う道のない私は母の遺訓に背いて、センチの踏み板の仲間入りしたのであった。」(「読書人の浅酌」潮出版)
え~と何だっけ。
そうだ「知見限りありて行蔵は限りなし。」という言葉があるそうです。
母の遺訓に背く谷沢氏ですから、言葉も一筋縄じゃいきません。
こうして「いつ、何を読むか」と題する本を新しく出版したのですが、
あとがきには
「私は他人から勧められて、言われるままにほいほいと本を読みにかかった経験がない。他人に指図されるのを好まない我侭者である。或る書物と自分との出会いは、私の身の上にだけ起こる事件である。一冊の本を誰もが同じ気持ちで読むことはできない。したがって、そもそも読書の勧め、なんて、余計なお節介なのである。貴方は貴方、お互いに勝手に気の向くまま、読むか読まぬかは自分ひとりの勝手であろう。」
とありました。
最後は井上章一さんの対談での言葉がまた思い出されます。
「私は、知性としてはむしろ、谷沢先生のような物知りのほうに憧れますね。・・
私自身のなかにある『頭が下がるなあ』という思いは、いわゆる『考える人』、突き詰めて考える人よりは、書誌学者のような『調べる人』の方に向かいますね。・・
書誌学は『私を踏み台にして、あなた伸びていって』って、ささえてくれる感じですもんね。・・・」
(季刊雑誌「考える人」2006年夏号・特集「戦後日本の『考える人』100人100冊」より)