本が宝の山ならば、
そこへの登山路を探す、地図を探す、
という見方があるわけです。
徒然草の第52段に「仁和寺(にんなじ)にある法師」とはじまる箇所があります。
岩清水八幡へ、年取るまでに一度は参拝しておこうと法師が出かけます。
帰ってきてから話すのに「長年思っていたことを、やっと果たし。話には聞いていましたが、まさって尊く感じられました」「それにしても、お参りに来た人が皆山へ登ったのは、あれは何だったのでしょうね。私も山に登って見たかったのですが、参拝が目的でしたので、物見遊山(ものみゆさん)ではなく、山までは登りませんでした」。ところで、岩清水八幡は、ふもとにあるのが八幡宮の末寺や末社。肝心の本殿は男山の上にあるのでした。簡潔な短文の最後には「ちょっとしたことにも、案内者はありたいものである」としております。そこの原文はというと
「少しのことにも、先達(せんだち)はあらましきことなり」でした。
今年は、あらためて、その先達の方々の本が印象に残った年でした。
その書名は
渡部昇一著「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」到知出版社 ¥1600
山村修著「狐が選んだ入門書」ちくま新書 ¥720
山村修著「花のほかには松ばかり」檜書店 ¥1900
谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」PHP研究所 ¥1400
谷沢永一著「いつ、何を読むか」KKロングセラーズ ¥905
米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」文芸春秋 ¥2286
以上は税別。そして、今年の発行日順。
その本の内容を語りたいところですが、ここではカット。
次の連想。
そういえば、地図。
地図といえば、須賀敦子著「地図のない道」というのがありました。
それよりも私の思い浮かんだのは田村隆一が鮎川信夫詩集について書いた
「地図のない旅」という題の文章です(思潮社の現代詩文庫1「田村隆一詩集」に載っております)。そこには19世紀のアメリカの詩人、エッセイストのオリヴァ・ウェンデル・ホオムズの言葉が引用されておりました。
ということで、ここではその言葉の孫引き(?)をして終ります。
「個人の生活は、多くの点で子供の切り細(こま)ざいた地図に似ている。
もし私が最後まで知性を失わずに百歳まで生きられるとしたら、そのばらばらの破片を、うまくつながった全体をなすように置き直せそうな気がする。・・・これらの破片の多くは断片的なものに見えるけれども、やがて時が来ればそれらこそ全体のなかで無くてはならぬ大切な部分であることを示すにいたるだろう。・・・十年の歳月を閲するごとに、私は幾つかの新しい破片がその在るべき場所に落着きつつあることを見出す・・・」
「仁和寺のある法師」の破片が、自分の「あるべき場所に落着く」までの時間。
ということで(どういうことでじゃ)皆さんのようにブログへの書き込みを怠らないようにしたいと思うこの頃でありました。
そこへの登山路を探す、地図を探す、
という見方があるわけです。
徒然草の第52段に「仁和寺(にんなじ)にある法師」とはじまる箇所があります。
岩清水八幡へ、年取るまでに一度は参拝しておこうと法師が出かけます。
帰ってきてから話すのに「長年思っていたことを、やっと果たし。話には聞いていましたが、まさって尊く感じられました」「それにしても、お参りに来た人が皆山へ登ったのは、あれは何だったのでしょうね。私も山に登って見たかったのですが、参拝が目的でしたので、物見遊山(ものみゆさん)ではなく、山までは登りませんでした」。ところで、岩清水八幡は、ふもとにあるのが八幡宮の末寺や末社。肝心の本殿は男山の上にあるのでした。簡潔な短文の最後には「ちょっとしたことにも、案内者はありたいものである」としております。そこの原文はというと
「少しのことにも、先達(せんだち)はあらましきことなり」でした。
今年は、あらためて、その先達の方々の本が印象に残った年でした。
その書名は
渡部昇一著「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」到知出版社 ¥1600
山村修著「狐が選んだ入門書」ちくま新書 ¥720
山村修著「花のほかには松ばかり」檜書店 ¥1900
谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」PHP研究所 ¥1400
谷沢永一著「いつ、何を読むか」KKロングセラーズ ¥905
米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」文芸春秋 ¥2286
以上は税別。そして、今年の発行日順。
その本の内容を語りたいところですが、ここではカット。
次の連想。
そういえば、地図。
地図といえば、須賀敦子著「地図のない道」というのがありました。
それよりも私の思い浮かんだのは田村隆一が鮎川信夫詩集について書いた
「地図のない旅」という題の文章です(思潮社の現代詩文庫1「田村隆一詩集」に載っております)。そこには19世紀のアメリカの詩人、エッセイストのオリヴァ・ウェンデル・ホオムズの言葉が引用されておりました。
ということで、ここではその言葉の孫引き(?)をして終ります。
「個人の生活は、多くの点で子供の切り細(こま)ざいた地図に似ている。
もし私が最後まで知性を失わずに百歳まで生きられるとしたら、そのばらばらの破片を、うまくつながった全体をなすように置き直せそうな気がする。・・・これらの破片の多くは断片的なものに見えるけれども、やがて時が来ればそれらこそ全体のなかで無くてはならぬ大切な部分であることを示すにいたるだろう。・・・十年の歳月を閲するごとに、私は幾つかの新しい破片がその在るべき場所に落着きつつあることを見出す・・・」
「仁和寺のある法師」の破片が、自分の「あるべき場所に落着く」までの時間。
ということで(どういうことでじゃ)皆さんのようにブログへの書き込みを怠らないようにしたいと思うこの頃でありました。