和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

金粉。

2009-03-07 | 安房
大正制定の安房高校旧校歌は、こうはじまっておりました。

 あした旭日を太平の
 洋(なみ)の彼方に迎へ出て
 夕(ゆうべ)夕陽を東海の
 富士の高嶺に送り入る
 ああ美はしの安房の国
 ああ懐かしの安房の国

これは明治36年制定校歌の次に作られた校歌でした。作詞のエピソードがあります。
「大正五年には『晨旭を太平の』で始まる校歌が制定された。
作詞は辻橋教諭の後任の岡本作次郎教諭。大正四年、長狭地区の家庭訪問で鴨川の旅館に一泊した際、翌朝太平洋から昇る朝日を見て感激、一気にこの詞を書き上げたという。曲は東京高等師範の水泳部部歌を踏襲。部歌の作曲は神保格氏。」(忍足利彦編著「安房の校歌と応援歌」・p247)

ちょうど、安房高は内房で東京湾の側にあり、鏡が浦から富士山が望める位置にあります。
一方の鴨川は外房で太平洋を望む雄大さがあります。
同じく外房にある和田中学校の校歌は昭和40年制定で、
最初の2行は、こうはじまっておりました。

  青潮遥か 太平洋
  海の太陽 燃え上がる

ところで、青木繁が滞在した、房州布良は、太平洋に面していながら、「夕(ゆうべ)夕陽を東海の/富士の高嶺に送り入る」場所にあるのでした。
山口栄彦著「鯨のタレ」(多摩川新聞社)に、こんな箇所があります。

「昭和36年6月19日・・・長谷川広治の三人は、小石川の福田蘭童(青木繁の子供)の家を訪ね、記念碑の建設について懇談した。懇談は終始和やかだった。・・・長谷川は、たねの話として懇談の様子を次のように書き留めた。」
その書き留めた話のなかに
「三回目に『海の幸』のデッサンをした。書いたのは陽の落ちる頃だった。元の絵は金粉を使った。金粉は、保田まで買いに行ったが、本物がなく色が冷めてしまった。・・」(p328)
コメント
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