和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

月の音。

2009-03-14 | Weblog
2009年3月2日読売歌壇の小池光選。
その最初

   月欠ける音の聞こゆると友が言いわれは夜な夜な耳澄まし待つ
                仙台市 小野寺寿子
この小池光氏の選評はというと、
【評】ふしぎな友人をお持ちの人。さらに本人もまたふしぎな人。どこからこういう発想が出てくるのだろう。つくづく感心する。短歌はミステリーが似合う詩型だ。

ここから、上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)へとつなげたいのでした。

上田氏はこう語っております。

「茶室をみるなら、やはり道路の露地門あるいは邸内の露地内からはじまって、外露地・内露地をめでながら、蹲(つくばい)で手をあらい口をすすいだのち茶室にあがるべきだろう。それも夕刻、月のあるときがのぞましい。」(p118)

これが、第六章「露地 月をみる」にあるのでした。
その六章の最後にこうあったのでした。

「人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり、一休のいう虚空だ。その虚空のひとつに月がある。満月になればじっさいに月のエネルギーが、つまり月の引力が海の潮をよせてくる。名月の夜は大潮なのだ。そこで芭蕉は深川芭蕉庵で、月の庭をみてくちずさんだ。
    名月や門にさしくる潮頭(しおがしら)    」


このあと、第八章「回遊路 名所をあるく」に桂離宮が登場しております。

「桂離宮のばあいにはそれがはっきりしている。月である。月がうつくしくみえるとき桂離宮は最高の姿をみせるのだ。そこで桂離宮のよさをしるためには、月夜の晩にでかけなくてはならない・・・・・
ところがそういう認識も要望もないせいか、桂離宮の管理者である宮内庁は昼の桂離宮しかみせてくれない。桂離宮にかぎらず日本のおおくの寺々も、夕方四時半になると拝観終了である。ほんらい寺は、夜明けか、あるいは太陽が西にしずむ夕暮れが最高のときであるにもかかわらず、さっさと門をしめてしまう。・・・
建築史家の宮元健次は『桂離宮は、月の出をみるために書院や月波楼などの建物を高床にし、中天の月をあおぐために軒の出をみじかくきりそろえている』という。さらに建物の配置もよりよい月をみせるために苦心されているのだそうだ。・・・」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする