和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

安房節

2009-03-03 | 安房
朝日新聞千葉支局編「房総のうた」(未来社・1983年)に、4ページほどの「安房節」紹介の文が掲載されております。それが私にはたいへんに興味深い文なのでした。短いので全文を紹介したくなるのですが、まあ、ちょこちょこと。たとえば、こんな箇所。

「野趣に満ち、間の長い荒削りな感じだが、どこか哀愁を漂わせている。しかも、囃子(はやし)が、どの歌も違い、方言や地名が入っている点が特色だ。安房節を研究している日本交通常務の松尾譲治さんは、『私の集めた歌詞は約六十だが、面白いものがある。安房節は富崎、相浜、布良、神戸、館山、船形など限られた地域で歌われたものだが、館山より相浜、布良あたりの方が、男っぽく漁師の歌らしい。・・・』」

ところで、この短文は引用からはじまっておりました。
それは「作家林芙美子が『文芸春秋』の昭和26年3月号に載せた『房州白浜海岸』の文章の一節」からの引用なのです。では、はじまりの箇所の引用を。

「私は房州特有の古い民歌を聞きたいと注文すると、時丸さんは、この正月にNHKで放送したのをやりましょうと、次のような歌を、太いさびのある、いい声で唄ってくれた。

    あいよおい・・・・
    マグロとらせて、
    万祝い着せて
    詣りやりたい、
    ああ高塚へ
      (中略)
    ああ港出る時、
    ひかれた袖が、
    沖の沖まで気にかかる、
    ち、ちげねえよ、
    そんそこだよ、
    島の鳥がおろろん、
    ろんかなあえ
    ・・・・・・・

これは安房節というのだそうだが、如何にも、海に向って歌う漁歌である。」



ここで、林芙美子が、お座敷唄として、時丸さんから聴けた歌詞が、鮮やかな印象を残すのでした。
それが、どうしたことか、たとえばインターネットで検索しても、安房節の記念碑の歌詞しかお目にかかれないのが残念。
松尾譲治氏が「私の集めた歌詞は約六十だが、面白いものがある」という豊かさへはつながらないのでした。
せめてのこと、時丸さんの歌詞を見てゆくことにいたしましょう。
ここでは、時丸さんの歌詞の背景を、きちんと説明してくれるような文。
それは、田仲のよ著「海女たちの四季」(新宿書房・1983年)。その中に、

「お伊勢参りや鎌倉のはんそう様は遠い他国にありますが、県内のも昔から漁師やおかみさん達がかならずお参りするところが幾つかあります。高塚不動尊と三ッ石山観音です。高塚は旧隣村大川とその向こうの千田との境にある山で、不動尊があります。竜神様もおまつりしてあります。昔は旧正月28日が大祭でした。このあたり一番の大祭りで子供たちの楽しみにする正月の行事でした。どの家でも、かならずお参りします。山の頂上まで一生懸命登り、高い山の頂きまで登ると、すごく信心がきくような気がしたものです。・・・・・・
高塚へ行く時は一張羅を着ます。私も結婚の翌年亭主と一緒に、一張羅でお参りに行きました。考えてみれば亭主と二人で出かけたなどというのは、これが最初で最後だったことに気づきます。どこへも行ったことがないのです。
その亭主がよくいっていました。三陸漁に行く時、船から高塚が見えなくなると、自由になったあ気がする。三陸からの帰り、勝浦の、はな(でっぱり)を曲がると高塚が見えてくる。・・・高塚山は信仰の山、というばかりでなく、房総沖で働く釣り漁師には欠かすことのできない大切なヤマダテの山(漁場位置を割りだす内陸の標的)にもなっています。」(p186~187)

歌詞の中の「高塚」という地名は、この高塚不動尊のことなのでしょう。
(ちなみに田仲のよ著「海女たちの四季」は2001年に新版が出ており、いまでも新刊として買えます)
普通は、漁師の記録は残らないわけですが、時丸さんの太いさびのある唄い声にのせて、浮かびあがる安房節の背景というものがあります。
もうすこし田仲さんの本から引用してゆきます。
そこに、「突きん棒のふるさと、半後家のむら」という文があります。
こうはじまります。

「白間津は、あま(海士・海女)の村というより、突きん棒の村でした。子供のころの冬の朝、寝床から飛び起きると外に出て竹やぶの竹のゆれ方をみて、『今日は大川の方から風が吹いてくるよお』と、大声で家の中にいる父母たちに怒鳴っものです漁師は風で仕事をします。それは東よりの風だと、その日はカジキが浮くといい、家の船、日蓮丸が父と若い衆を乗せて出港する突きん棒日和であり、大西(西からの強風)が吹くと時化のため父が家にいる・・・」

「突きん棒漁は朝出て夕方帰る島廻り(伊豆大島周辺)の[春漁]が終わると、三陸・北海道沖へ出る夏の旅漁になるのでした。この地方はよく靄が出るそうで、その靄の中に若い衆を乗せたテンマを見失った話を父がしていました。私が小学校五年の夏です。気がついたら靄が立ちこめ、テンマが見えない。ひと晩中気狂いのように探したがダメ。翌朝カジキの荷物で沈みそうなテンマをようやく見つけた、というのです。テンマの若い衆は眠ることもできず、夜通し櫓を操って迎え船を待っていたわけです。櫓押しは突きん棒船乗りのイロハでした。無謀といえばそれまでですが、父は台湾まで出掛けました。昭和七年のことです。海図がないので尋常小学校の教科書の地図を見て走ったそうです。行く先々で漁師に日和を聞き、キールン(基隆)という所で一年ぐらいカジキを突いてきました。・・・
突きん棒村の正月は楽しかった。豊漁で新年を迎えると万祝を着た一団が氏神の日枝神社へ向かうのでした。船主がボーナスとともに乗組員に配る独特な晴れ着が万祝です。先頭に家の船、日蓮丸と染め抜いた印旗を持った若い衆。その後に父と乗組員がつづくのでした。父が配った万祝は濃い藍色の地に船名、鶴亀、七福神、波などが朱や黄色、白で染めてあり、帯をせず羽織るだけですから風にあおられて美しくはためくのでした。」

「・・夫の船です。私は用意した着換えをもって村の港へ見送ります。これで半年会えないと思うと涙が出て、どうにも仕方がなかった。男たちは内心をかくして平気な顔をしていますが、どこの嫁も泣きの涙で別れます。一緒に住んだのが三ヵ月、夫は旅に出ました。船を見送ると、船ごとに嫁たちがかたまって神社へ行ってオコモリをします。最初に、漁師の守り神を祀ってある青峯山をおがみます。

    あんらくや、せかいをまもる
    あおのみね
    かいじょうのなんを
    すくいまします

これを三回繰り返す。御詠歌です。これが終ると集落の西のはずれにある三ッ山地蔵尊に参ります。ここではまた別の御詠歌です。その後、船主の家でも一度お祈りし、ご馳走をいただき、おひらきにします。夫の帰りは十二月の末。留守を守り半年堪える[半後家]の生活がこうして始まるのでした。その後何十年も一年の半分、それ以上の後家生活を送ることになります。突きん棒村の半後家暮らし。それは白間津の嫁のきまりでした。・・・」

時丸さんの「太いさびのあるいい声」は、もう安房でも聞くことができないのでしょう。ですが、安房節の歌詞の背景を追おうとするなら、田仲のよさんの本に探ってみることができるのでした。
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