和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

詩と書と絵。

2009-03-13 | Weblog
宇野直人・江原正士著「李白」(平凡社)のはじめのほうにこうあります。

【宇野】漢字を目で見ながら追うと、それなりにイメージが広がって多少味わえるところがありますが、音声だけだと辛いですね。たとえば『空庭(くうてい)』ですと、音だけだと難しいかも知れませんが、字を見ればなんとなくイメージがわきますよね。

【江原】日本に入って来ていない漢字もあると聞いたのですが、漢字というのはそんなにたくさんあるものなのですか。

【宇野】ええ、中国だけで使われる漢字もありますし、逆に『国字』と言いまして、日本だけで使われる漢字もあります。『峠』『辻』『畑』『働』『躾』などですね。漢詩の中には、今は使われなくなった漢字もあります。

【江原】李白も当然、それを筆で書いていたわけで、書道と漢詩は切っても切れない関係ということでしょうか。

【宇野】そうですね、後世になると、詩と書と絵は三位一体と言われています。



ここに、「詩と書と絵は」と語られておりました。
そうだ、田辺聖子著「古典の文箱」にこんな箇所がありました。
ということで、以前の書評をもってきてみます。
田辺聖子著「古典の文箱」をkhipuにレビューを書いたのを、
ふらりと思い出しました。たいていは忘れたままになっているのですけれど。
たまたま、他のを探していて見つけるということもあります(笑)。



魅力の文箱です。

「あとがき」にこうあります。

「古い遠祖たちの心を受け継ぐ、というのは、かたちにあらわすと古典を愛し尊び、親昵(しんじつ)する。ということもその一つではなかろうか。

現代の若者には古典アレルギーが多い。漢字制限が行なわれ、漢文学教養がなおざりにされてゆく当節の学校教育だから、古典にも、うとうとしくなってゆくのは当然かもしれないが、それはまた、一つには、【もの書き】の努力不足かもしれない、と、この頃の私は思うようになった。若い人に古典のふかい滋味を説くのも、年齢的先輩のつとめ、そしてまた、【もの書き】としての義務でもあろう。」

「私の感触でいえば、人々の古典へのあこがれの地熱は、想像以上に熱いものがあるようだ。ほんの少しの手引き、あと押しがあれば。・・・」


産経新聞の2003年1月21日「追憶の一冊」に布施英利さんが「鉄腕アトム」を取り上げていました。アトムの誕生日が2003年4月7日。ということもあったのでしょう。そこにこんな言葉がありました。

「わが恩師・養老孟司先生は、マンガというメディアの、絵とセリフを組み合わせた構造は、日本語のつくりと同じだと指摘した。だとしたら、マンガを愛読することで、ぼくも日本語の感性が鍛えられたわけだ。・・」


この布施さんのバトンを、田辺聖子さんに受け取って語っていただきましょう。今回紹介の本にこうありました。

「王朝の人々は、字を書くのと同じように絵も描いた。手紙に走り書きしてそのそばにちょっちょっと簡単な絵を描いたらしい。絵は教養ある人のたしなみの一つであったようだ。『源氏物語』の『絵合』の巻で、光源氏が須磨謫居中、つれづれのままにスケッチした風景画が、最後に提出される。そのあまりの美事さに、ついに絵合わせの挑みは源氏の勝ちになる。

そういう本式、本格の絵でなくとも『落窪物語』の貴公子は、恋文の端にさらさらとマンガ風な絵を描いている。

字も絵も、王朝紳士は同じようにかきこなしたらしい。

いまの若い人も王朝文化の流れを汲んで、簡単なマンガなんか実に巧いものだ。私のところへくる未知の読者のお手紙にも、マンガを面白くあしらって、手紙の末尾には、『乱筆乱絵、失礼しました』と書かれてある。ほんとに感心してしまうほど、たのしげでノビノビと描かれてあっていいなあ、と思う。

マンガ家になるには辛い修業も必要だろうが、内々の親しい人へのメッセージや日記に描くマンガは自己流でよい。

ただ、マンガで自分のいいたいことを表現するとき、人は大なり小なり、人や自分を客観視し、距離をもたねばならない。そこがマンガの功徳である。

どうしても絵はにがてなの、とおっしゃる向きには、川柳はいかがだろうか。私が女性にいちばんすすめたい文芸は川柳である。・・・」ということで以下、川柳の話にうつります。

コメント
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