養老孟司著「読まない力」(PHP新書)を買いました(笑)。
ちょうど、浪花節好きが、何回も聞きなれているのに、また聞きたくなるような。そんな感じで買いました。
浪曲師・広沢寅造は「バカは死ななきゃなおらない」と語るのですが、
浪花節じゃなく「養老節」は、さしあたり「バカの壁」以来のフレーズを繰返しているわけです。この新書にしても、「まえがき」の7ページを読めば、それこそ本文は「読まない」でもいいわけで。そうなんですが、私は買いました(笑)。
その肝心な「まえがき」を引用。
たとえば、こんな箇所。
「本を読むな、という教育を受けた。大学院生のときに、恩師からそういわれた。ただし専門書のことである。本を読むと、考えなくなるというのである。古くはソクラテスもそういったらしい。・・文字は批判的思考を鈍らせる。そう考えていた。
・・・その意味では、私はよい教育を受けた。小学校二年生のときに、それまで使っていた国語の教科書に、先生にいわれて墨を塗ったからである。私の前後の世代には、その記憶がはっきりあるはずである。当時は大切だった教科書に、あそこはダメ、ここはダメと、子どもが墨を塗ったんだから、みごとな教育だったと思う。・・「正しく」書かれた教科書を使わないと、「子どもが悪くなる」と大人は信じているらしい。私は信じない。だって、教科書が間違ってたら、墨を塗りゃあいいんだから。」
ちなみに、養老孟司氏は1937年生まれ。
ところで、河合隼雄氏は1928年生まれ。
まえがきで、養老さんは河合さんのことを書いておりました。
「平成20年に、前年亡くなられた河合隼雄元文化庁長官を追悼する会がたまたま二つあった。そこでお話をさせていただく機会があたので、河合さんのいわれたことを思い出そうとしたら、一つしかないことに気づいた。河合さんはまじめになると、『私はウソしかいいません』といわれたのである。『日本ウソツキクラブ』の会長をされていたくらいだから、私にだけではなく、いつもそういっておられたに違いない。それ以外は、ダジャレしかいわれなかった。
この叙述は典型的な自己言及の矛盾で、意味がない。『ウソしかいわない』のが本当なら、河合さんはここで本当のことをいってしまっているのだから、この叙述はそもそも成立しない。河合さんの真意は、言葉なんてその程度のものですよ、ということだったと私は思う。臨床心理の場で、ひたすら患者さんの話を聞いた人の言葉である。拳拳服膺(けんけんふくよう)、しっかり耳を傾け、記憶すべきであろう。」
このあと、こんな言葉がありました。
「言葉は意識の産物である。現代は意識優先、つまり脳化社会で、だから情報化社会になる。人生は『意識のみ』になってしまった。」
以上は、「まえがき」からの引用。
ですが、これだけじゃ、いけないかなあ。
すこし、本文を引用します。
そこに、「勝手読み」という言葉がありました。
「いささか考える力に欠けている。学生を教えているあいだ、よくそう思ったものである。もう一押しできないものか。その一押しがむつかしい。碁や将棋であれば、相手より一手先が読めたら必勝のはずなのである。しかし下手な人は、相手の一手先どころか、いわゆる勝手読みをする。相手の出力を自分の都合のいいほうに来る、と勝手に決めてしまう。」(p94)
「読まない力」を文字通り信じると、さっそく「勝手読み」という読みがはじまってたりする。
ああ、こんな箇所もありました。
「教育に外国も日本もない。教育の基本は学問で、だから江戸時代ですら基礎は四書五経だった。考えてください。これは中国の古典ですよ。それで育った人たちが蘭学を学び、明治維新を完遂したのである。そろそろ親もしっかりしたらどうかと思う。教育なんて、四書五経で十分かもしれないのである。」(p79)
ここには、教育と四書五経と蘭学と明治維新とが、短い文に肩を並べていたりして、驚かされます。
ちょうど、浪花節好きが、何回も聞きなれているのに、また聞きたくなるような。そんな感じで買いました。
浪曲師・広沢寅造は「バカは死ななきゃなおらない」と語るのですが、
浪花節じゃなく「養老節」は、さしあたり「バカの壁」以来のフレーズを繰返しているわけです。この新書にしても、「まえがき」の7ページを読めば、それこそ本文は「読まない」でもいいわけで。そうなんですが、私は買いました(笑)。
その肝心な「まえがき」を引用。
たとえば、こんな箇所。
「本を読むな、という教育を受けた。大学院生のときに、恩師からそういわれた。ただし専門書のことである。本を読むと、考えなくなるというのである。古くはソクラテスもそういったらしい。・・文字は批判的思考を鈍らせる。そう考えていた。
・・・その意味では、私はよい教育を受けた。小学校二年生のときに、それまで使っていた国語の教科書に、先生にいわれて墨を塗ったからである。私の前後の世代には、その記憶がはっきりあるはずである。当時は大切だった教科書に、あそこはダメ、ここはダメと、子どもが墨を塗ったんだから、みごとな教育だったと思う。・・「正しく」書かれた教科書を使わないと、「子どもが悪くなる」と大人は信じているらしい。私は信じない。だって、教科書が間違ってたら、墨を塗りゃあいいんだから。」
ちなみに、養老孟司氏は1937年生まれ。
ところで、河合隼雄氏は1928年生まれ。
まえがきで、養老さんは河合さんのことを書いておりました。
「平成20年に、前年亡くなられた河合隼雄元文化庁長官を追悼する会がたまたま二つあった。そこでお話をさせていただく機会があたので、河合さんのいわれたことを思い出そうとしたら、一つしかないことに気づいた。河合さんはまじめになると、『私はウソしかいいません』といわれたのである。『日本ウソツキクラブ』の会長をされていたくらいだから、私にだけではなく、いつもそういっておられたに違いない。それ以外は、ダジャレしかいわれなかった。
この叙述は典型的な自己言及の矛盾で、意味がない。『ウソしかいわない』のが本当なら、河合さんはここで本当のことをいってしまっているのだから、この叙述はそもそも成立しない。河合さんの真意は、言葉なんてその程度のものですよ、ということだったと私は思う。臨床心理の場で、ひたすら患者さんの話を聞いた人の言葉である。拳拳服膺(けんけんふくよう)、しっかり耳を傾け、記憶すべきであろう。」
このあと、こんな言葉がありました。
「言葉は意識の産物である。現代は意識優先、つまり脳化社会で、だから情報化社会になる。人生は『意識のみ』になってしまった。」
以上は、「まえがき」からの引用。
ですが、これだけじゃ、いけないかなあ。
すこし、本文を引用します。
そこに、「勝手読み」という言葉がありました。
「いささか考える力に欠けている。学生を教えているあいだ、よくそう思ったものである。もう一押しできないものか。その一押しがむつかしい。碁や将棋であれば、相手より一手先が読めたら必勝のはずなのである。しかし下手な人は、相手の一手先どころか、いわゆる勝手読みをする。相手の出力を自分の都合のいいほうに来る、と勝手に決めてしまう。」(p94)
「読まない力」を文字通り信じると、さっそく「勝手読み」という読みがはじまってたりする。
ああ、こんな箇所もありました。
「教育に外国も日本もない。教育の基本は学問で、だから江戸時代ですら基礎は四書五経だった。考えてください。これは中国の古典ですよ。それで育った人たちが蘭学を学び、明治維新を完遂したのである。そろそろ親もしっかりしたらどうかと思う。教育なんて、四書五経で十分かもしれないのである。」(p79)
ここには、教育と四書五経と蘭学と明治維新とが、短い文に肩を並べていたりして、驚かされます。