和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

座談。

2010-03-29 | 短文紹介
ある100名ぐらいの会で、
話される方が「それでは、坐って話させて頂きます」
といって、30分ほど話されたことがありました。
その部屋は畳敷きでしたから、聞く方は、
皆さんあぐらをかいたりしておりました。
司会進行や、5分ほどの語りの方は皆さん立って
話されておりました。

なぜか、それが気になっておりました。
ここから、3つの文へと連想が飛びます。
まずそういえば、と思い出したのが、
外山滋比古氏の言葉でした。

「イギリスの国会議事堂は第二次大戦で大破をこうむった。
その復興計画が議論されているうちに、
もともと、手狭であった議事堂を、この際、
拡大しては、という意見が有力になった。
そのとき、チャーチル首相が、大議場はいけない。
広いところだと、議員はつい大声になるが、
大声で知恵のあることをのべることはできない、
と主張。
多くの人がなるほどと納得して、
もとのままの議場を復旧することになった。
有名な話である。
われわれは、大声にならないように、
いつもブレーキをかける必要がある。
ことに心ある人は大声でものをいわないのだと
いうことを心に留めておく必要がある。
大声ははしたない、無礼であると考えてよい。」
 (「大人の言葉づかい」中経の文庫・p50)

同じ、外山滋比古氏の文に、
菊池寛の座談会を紹介した箇所があります。

「大正末期の総合雑誌は申し合わせたように巻頭に難解きわまりない論説をかかげるのが常でした。読んでわかった読者がいたかどうかわからないが、とにかくそれが高級雑誌の常道でした。
それに対して菊池の『文藝春秋』は巻頭にエッセイを並べました。・・
記事のつくり方にしても、新機軸をいくつも打ち出しました。
中でも目覚しいものに座談会記事の創案があります。
ジャーナリズムがイギリスにおこって三百年、
いかなる雑誌も、座談会を記事にして掲載しようと
したことはかつてなかったのです。
それを『文藝春秋』はやってのけました。
発明です。
すばらしいアイディアでした。・・・
いまでは座談会というものが、活字になったのは
菊池寛の『文藝春秋』のが始まりであることさえ
ほとんど忘れられています。
菊池寛は本当の意味でのアイディアマンの先覚者として、
独創、発明の喜びとともに悲哀も味わったはずです。」
 ( 「アイディアのレッスン」ちくま文庫・p40~41)

最後の3つめは。

桑原武夫について語った司馬遼太郎の文があります。
題して「明晰すぎるほどの大きな思想家」。
そこにこんな箇所。

「桑原武夫の異常さ――といったほうがいい――対談がはじまる前に、場面構成をすることである。いきなり始めればよさそうなものが、諸役(編集者、速記者、そして話し手など)のざぶとんの位置を決めなければはじめられない。・・・
『速記の方はそこ。編集部はあちらに』と、
氏は登山隊長のような表情になった。さらに氏は小机の角度をすこし曲げ、司馬サンはそこです、といった。それによって氏と私との位置に、適当な角度ができ、たがいに無用の肉体的圧迫感をうけることが軽減され、ひどく楽な気になった。
同時に桑原氏の学問の方法の一端がわかったような気がした。このことは、人文科学の分野は成しがたいとされていた共同研究というものを氏が一度きりでなく幾度も成功させたという記録的な業績の秘訣にもつながっているようにおもえる。・・・
天賦の才能というのは、接してよくわかる。それが表現の場をえないとき、その容器である人間は生理的変調を来たすのではないかと思われるほどにいらだつ。・・・・」

ここで、司馬さんはこんなことを語っておりました。

「すぐれた天賦の才能というものはその表現が自己への治療であって、自己の利益を増幅するために用いられることが、ほとんど法則のようにありえないからである。・・・」

座談ということから、
三題噺ならぬ、三つの文へと連想がたのしめました。
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