竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)に「手紙と名文」という箇所があります。
そこにパスカルの有名な言葉がちゃんと引用してありました(p142~)。
「この手紙がいつもより長くなってしまったのは、もっと短く書き直す余裕がなかったからにほかなりません。(パスカル「プロヴァンシアル」第十六の手紙)」
それなら、清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)も引用しておきましょう。
「文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。
面倒だ、というのですか。いや本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」(p68)
今度、黒岩比佐子氏が「堺利彦」の評伝を出版されるとブログで書かれておりました。
うん、そうすると堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫)を思い浮かべます。
そこに「省略」について書かれている箇所があります。
「元来、文章はすべて事実の略記だということもできる。事実そのままは無限無究のものである。大にも際限がなく、小にも際限がない。そこでその無際限のうちから、要点の部分部分を抜き取って、それを排列し、接続し、組み合わせたのが人の思想で、その思想を外に現したのが文章である。故に文章の根本生命は省略にあるということもできる。例えば写真を撮る。写真は実物をそのままに写すというけれど、実はわずかにその一部分を写すのである。・・・ところで要点の選び方が最も大切なことになる。要点とは必ずしも重大な事物ばかりではない。場合によっては、極めて些細な事物を要点として挙げることができる。例えば、大火事の記事を作るに、渦巻き上がる黒煙の間に、悪魔の舌のごとき深紅の炎が閃き出るというようなことも必要であろうし、蒸気ポンプのけたたましいベルの音が群集を押し分けて響きわたるというようなことも必要であろうが、その他の大事件、中事件、小事件をいちいち細かに書き立ててみても、ただ文章がごたごたするばかりであるから、それらの雑件はほんの二三句に概括して略記しおき、ただ一つ、裏長屋の路次口から寝巻に細帯という姿で飛び出した一人のカミさんが、左の手には空の炭取を一つ提げて、右の手には生れたばかりの赤ん坊を逆様に抱いていたというようなことでも、少し委しく描きだしたら、このとるにも足らぬ些細な事件が、あるいはかえって火事場の混雑を読者に感じさせる、最も有効な材料になるかも知れぬ。・・・」(~p59)
じつは、この箇所を〈狐〉さんが清水幾太郎著「私の文章作法」の文庫「解説」で見事に引用しておられるのでした。
最後はどうしましょう。
薄田泣菫「完本 茶話」(冨山房百科文庫・下)には向井敏の「解説」が掲載されておりました。その解説文の最後は、どうしめくくっておられたか。
「『演説の用意』と題するコラムのなかに、『長い文章なら、どんな下手でも書く事が出来る。文章を短かく切り詰める事が出来るやうになつたら、その人は一ぱしの書き手である』という一節が見える・・・・」
そこにパスカルの有名な言葉がちゃんと引用してありました(p142~)。
「この手紙がいつもより長くなってしまったのは、もっと短く書き直す余裕がなかったからにほかなりません。(パスカル「プロヴァンシアル」第十六の手紙)」
それなら、清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)も引用しておきましょう。
「文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。
面倒だ、というのですか。いや本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」(p68)
今度、黒岩比佐子氏が「堺利彦」の評伝を出版されるとブログで書かれておりました。
うん、そうすると堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫)を思い浮かべます。
そこに「省略」について書かれている箇所があります。
「元来、文章はすべて事実の略記だということもできる。事実そのままは無限無究のものである。大にも際限がなく、小にも際限がない。そこでその無際限のうちから、要点の部分部分を抜き取って、それを排列し、接続し、組み合わせたのが人の思想で、その思想を外に現したのが文章である。故に文章の根本生命は省略にあるということもできる。例えば写真を撮る。写真は実物をそのままに写すというけれど、実はわずかにその一部分を写すのである。・・・ところで要点の選び方が最も大切なことになる。要点とは必ずしも重大な事物ばかりではない。場合によっては、極めて些細な事物を要点として挙げることができる。例えば、大火事の記事を作るに、渦巻き上がる黒煙の間に、悪魔の舌のごとき深紅の炎が閃き出るというようなことも必要であろうし、蒸気ポンプのけたたましいベルの音が群集を押し分けて響きわたるというようなことも必要であろうが、その他の大事件、中事件、小事件をいちいち細かに書き立ててみても、ただ文章がごたごたするばかりであるから、それらの雑件はほんの二三句に概括して略記しおき、ただ一つ、裏長屋の路次口から寝巻に細帯という姿で飛び出した一人のカミさんが、左の手には空の炭取を一つ提げて、右の手には生れたばかりの赤ん坊を逆様に抱いていたというようなことでも、少し委しく描きだしたら、このとるにも足らぬ些細な事件が、あるいはかえって火事場の混雑を読者に感じさせる、最も有効な材料になるかも知れぬ。・・・」(~p59)
じつは、この箇所を〈狐〉さんが清水幾太郎著「私の文章作法」の文庫「解説」で見事に引用しておられるのでした。
最後はどうしましょう。
薄田泣菫「完本 茶話」(冨山房百科文庫・下)には向井敏の「解説」が掲載されておりました。その解説文の最後は、どうしめくくっておられたか。
「『演説の用意』と題するコラムのなかに、『長い文章なら、どんな下手でも書く事が出来る。文章を短かく切り詰める事が出来るやうになつたら、その人は一ぱしの書き手である』という一節が見える・・・・」