和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「日暮硯」考。

2010-07-29 | 古典
岩波文庫「新訂日暮硯」(笠谷和比古校注)についての3冊。

1.徳川夢声著「話術」(白揚社)
2.山本七平著「日本人とユダヤ人」(角川oneテーマ21)
3.遠藤周作編「友を偲ぶ」(光文社・知恵の森文庫)の中の
 「池波正太郎 若いころの池波さん  司馬遼太郎」(p150~)
(なお、この追悼文は新潮社の「司馬遼太郎が考えたこと14」にもあり)


「話術」には、最後に附説として白揚社の前社長が綴った箇所があります。
そこに、日暮硯が登場するのでした。どう紹介されていたか。

「古い話ではあるが、段論法にもっとも巧妙を極めた座談の例があるので、ご参考に供しよう。それは松代藩の名奉行恩田木工の座談法である。古戦場川中島をその領地に含む松代藩(十万石)は年々水害を受けることが多く、従っていつも財政は苦しく松代藩の貧乏といえば天下に名高いもので、寛保年間には全くやりきれなくなって幕府から一万両を借りてようやく一時の凌ぎをつけたほどでした。藩主真田伊豆守は、何とか藩政を改革して、財政の樹て直しをやらなければならぬと日夜苦慮した結果、藩中から恩田木工という者を抜擢して『勘略奉行』を命じ、藩政の一切をその手に委ねて、大改革を断行せしめたのです。・・・・」以下12ページでその座談を説明しておりました。


さてっと、角川oneテーマ21は新書です。「日本人とユダヤ人」は著者が山本七平としております。以前はイザヤ・ベンダサンという名で出ておりました。
そこに「日暮硯」が登場するのでした。これは岩波文庫の「新訂日暮硯」の笠谷和比古の解説でも触れられておりました。

「『日暮硯』はまた、比較文化論の観点からも興味深い素材を提供している。そこに示された、恩田木工の独特の問題解決の手法は、西洋的、近代的な合理的なやり方とは根本的に異なるものなのであり、このような『日暮硯』における比較文化論の問題については、かつてイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』の中で詳しく展開されたところである。
木工の問題解決の手法の特色は、木工と領民との年貢問題を巡る対話の中に最もよく示されているが、それは法規や契約、証文の文言規定、計算上の収支、利子率などといった形式的な合理性を第一義とする立場からは、不合理きわまる腹芸としか映らないものであろう。しかし『日暮硯』の語るところは、このような形式的合理性の立場と異なる形での、問題遂行のやり方がありうることを示唆している点で重要である。それは通常のやり方では解決不能な状況に立ち至った時、右の形式的に合理的なものについての判断を一旦停止し、対話と合意を尊重しつつ、関係者の全員にとって実質的に最善のものを探究していく手法である。実質的なものの柔軟な取り扱い、自由自在な配分、これこそ『日暮硯』の説き描くユニークな世界をなすものであろう。
しかしながら注意すべきは、この実質的に善なるものが木工一人の判断で領民に恩恵的に施されるというスタイルで事が運ばれていくならば、それは当座は領民にとって利益であっても、大局的には権力的なものが総てを支配する専制政治がもたらされるだけであろう。『日暮硯』における実質的善の追求は、対話と合意による決定という手続きを、これと組み合わせている点で特徴的である。これがある故に、木工の政治には権力的な臭いが感じられないのである。」(p174)

ちょいと先を急ぎすぎました。
「日本人とユダヤ人」に登場する「日暮硯」を見てゆきましょう。

「宗教・祭儀・行政・司法・軍事・内廷・後宮生活というカオスの中から、政治すなわち行政・司法を独立させた日本人が、その後どのような政治思想を基にして、現実の政治を運営していったか。その特徴をもっともよく表わしているのは『日暮硯』であろう。・・・戦争中、アメリカのある機関で、日本研究のために徹底的に研究されたのがこの本であり、私は今でも、これが『日本人的政治哲学研究』の最も良いテキストだと考えている。というのは第一に、非常に短く、少し日本語ができれば短期間に通読できること、第二に・・・奇妙、きてれつなレトリックがないこと。第三に、松代藩という非常に狭い地区だけのことであるから、まるで試験管内の実験のように明白なこと。第四に、『ひぐらしすずりに向かいて』一気に書きあげたものであり、・・「言外の言」で表現するような点が全くなく、従って直截に理解できること。第五に、財政建て直しの記録であるから、その方法、過程、成果がはっきり現われ、どこの国の人にも理解できること。第六に、それでいて・・・一見すべてが非常に不合理・不公平でありながら、すべては『まるくおさまって』おり、あらゆる人がその『仁政』を謳歌していること、である。・・・・
西暦1756年ごろ、信州真田藩は洪水・地震その他のため財政困難となり、幕府から一万両借金したが、それでももうどうにもならぬ、というところまで追いつめられた。百姓一揆は言うまでもなく、驚いたことに足軽のストライキまで起っている。おそらくこれは、日本のストライキ史の第一ページであろう。この難局に直面した藩を十三歳で相続した明君幸豊は、わずか十六歳のとき、末席家老の恩田大工の人物を見抜き、これを登用して一挙にすべてを改革した。当時三十九歳の恩田木工は、その任にあらずと辞退したが許されず、そこでまず、『もし拙者申す儀を『左様ならぬ』と申す者御座候ては相勤まり申さず候間、老分の方を始め諸役人中、拙者申す儀は何事に依らず相背くまじく申す書付相渡され候よう』と全権委任を明確にしてもらい、そのかわり自分の任期を自ら五年と定め、もし失政あればどんな処分でもうける誓詞をしてこれを引受けた。このあたりまでは、別に西欧と変わりはない。・・・・」

さて「日本人とユダヤ人」では、このあとに「全文を引用してみよう」として14ページをつかって「日暮硯」を引用しているのでした。

引用といえば、だいぶ引用が長くなりました。
今回は、3番目の司馬遼太郎の追悼文はカット、で、またこの次。
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