和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

簡潔な。

2010-07-05 | 他生の縁
黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」(角川選書)を読んで、そこから国木田独歩へと読書をひろげられればよいのでしょうが、そこまではいかずに、とりあえず、黒岩比佐子さんの簡潔な心地よい文からの連想を書きこんでおきたいと思います。

窪田空穂全集第十一巻に、「独歩の文章」(p70~72)がありました。
こうはじまります。

「国木田独歩という人は、好んで物を言う肌あいの人ではなかった。饒舌というのとは明らかに反対な人で、人なかにいる場合でも、独り書斎にいる時のように、沈痛な面持ちをして、何か考えているような様子をしている人であった。しかし何らかの刺激で口を開くと、すぐむきになって、いわゆる赤心を披瀝して物を言い出すのであった。熱をこめた簡潔な言葉は甚だ魅力的で、聞いた者には忘れられない印象を与えるところから、時とすると、『独歩の例の毒舌で』などと、さも饒舌家ででもあるかのように評されることもあった。そうした独歩の談片で、今なお私の記憶に残っている言葉が、ある程度ある。・・・・
独歩は言う。
『文芸ってものは、人生って上からいうと、限界がある小さなものだよ。人生の真を表現するなんていうが、あれは人生ってものを知らない時にいうことで、実行すると失望するに決まっている。失望したらとっとと棄てて、むきになって人生と取っ組むんだね。それをしている中に、文芸ってものもまんざらな物じゃないと思い出して、もう一度拾いあげた時に、初めて文芸になってくるよ。大体そうしたものだね』これが独歩の文芸に対する評価であった。言葉はちがっていようが、主旨はこのとおりであった。」

 そして島崎藤村の『破戒』について語る箇所があります。

「島崎藤村の『破戒』が刊行された時、そのころとしては珍しい祝賀会があった。場所は麻布の竜土軒(りゅうどけん)というフランス料理店で、文士の好んで小会合をする店であった。私は出席しなかったが、出席した前田晃君から、その日独歩が『破戒』の文体に対してした批評を聞いた。独歩の言うところは、『破戒』の文章は冗漫だ。あれだけの内容を自分が書くとしたら、あの三分の二で十分だ。三分の一は切り捨てたほうが効果的だというのである。さらに具体的にいうと、藤村はよく『・・・・なので』という言い方をする。あんな歯切れの悪い、思わせぶりな言い方は、明らかに悪癖だ。何だって『・・・である』とはっりき言い切らないのか。その心持が文章を冗漫にしてしまうのだ。というのであったという。」


ここで、あらためて思い浮かべるのは清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)のこの箇所

「日本文では、簡潔な書き方というのが、或る特別な重要性を持っているように考えられます。簡潔という美徳を大切にしないと、私たち日本人は、情報の伝達という点で外国人に大きく負けてしまうような気がするのです。」(p125)


黒岩比佐子さんは、編集者国木田独歩を語りながら、独歩が愛した簡潔さを、ご自身の本に反映させていらしたのじゃないか。私はそれを黒岩さんの文章を読みながら、味読していた気がいたします。
コメント
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