岩波文庫の「日暮硯」の最初に、
「真田伊豆守の英知」と文庫で題された、9ページほどの文があるのでした。それが気になっておりました。側近が藩主に飼鳥をおすすめすると、高さ7尺余、長さ9尺、幅6尺の鳥籠を藩主がつくらせて、そこに側近を住まわせようとするようなエピソードがつづられているのでした。
恩田木工を語る際には、たいていこの箇所は省かれるところです。
そこをはしょって、肝心の恩田大工の話からはじめられるのでした。
それじゃ、ここはなぜ必要だったのか。
なんていうことを、漠然と思っておりました。
思っていると、何かと引っかかることがあるものです。
それについて、以下に語ります。
「司馬遼太郎が考えたこと14」(新潮社)は、1987・5~1990・10までのエッセイが掲載されております。そこに「若いころの池波さん」という追悼文が載っておりました。
その話をしたいのですが、ちょっと、そのまえに、同じ本の中に、桑原武夫氏への追悼文「鋭い言語感覚」も掲載されているのでして、まずは、そちらから引用させてもらいます。
「・・桑原さんに『白石と私』という文章がある。・・
『白石と私』によれば、白石との出会いは小学六年の教科書にのっていた『折たく柴の記』の一節だったという。白石の父について書かれている。父が主君のわがままを諌めているとき、額に点々と蚊がとまり、血を吸いあきてグミのようになった。見かねた主君が『追え』と命じて、ようやく顔を動かすと、六つ七つハラハラと下に落ちた。・・・この文章を、桑原少年はいっこうに感心しなかった、という。『子供の私には象徴ということの意味がわかっていなかったからである。いまはすばらしい文章だと思う』と、桑原さんはいう。そこまでくどくこの人は書いていないが、白石がつかった『蚊』の象徴によって、のちになって浪人する白石の父という人の剛直さがわかるのである。・・・」
さて、ここまでにして、次に「若いころの池波さん」を引用してゆきたいと思うのでした。
「・・・私どもは、兵隊にとられた世代である。
戦争がおわり、復員してきてしばらくのあいだ都庁につとめて税金のことをやっていたらしい。あるとき、税金のことで練りテンプラ屋さんにゆくと、揚げた練りテンプラが大きなざるいっぱいにならべてあった。そのざる越しに池波さんが職務上のことをなにかいうと、テンプラ屋がふりかえって、『たれのおかげなんだ、てめえなんぞがめしを食っているのは!』といったとき、池波さんはとっさには自分でもなにをやったのかわからず、気づいたときにはざるいっぱいのテンプラをゆかにぶちまけてしまっていた。あとで役所にデモがくるやら、池波を出せ、というプラカードが立つやらで、都庁に居づらくなり、やめてしまった。この話をきいたころ、池波さんは、恩田大工(おんだたくみ)という江戸期の信州松代藩の名家老のことを書いていたりして、ご自分の性分に似たような人を書いていなかった。おそらくこんな気性は小説にはならないとおもっていたのにちがいない。
私の記憶のなかの池波さんは、さきにのべたように、この人の四十歳前後までのことばかりなのである。和服は用いていなかった。服装はいつも茶色っぽい開襟シャツに地味なセビロで、およそめだたず、あごが頑丈そうで、笑えば金属の義歯が一つ二つ光った。顔が、叩いてつくったようにしっかりした筋肉でできていて若々しかった。いまの若い人にあんな感じの顔をみたことがない。
いつも草をわけるようにして田舎を歩いていたが、気分としては東京がすきで、東京だけでなく、町育ちの者がすきだった。というより、町育ちの者がもっている遠慮とか気づかいとかといった気分がすきなようだった。」
と、ここまで、引用してから、司馬さんが語る「鳥籠」がでてくる箇所を、引用しておしまい。
「私の記憶や知識のなかでは、江戸っ子という精神的類型は、自分自身できまりをつくってそのなかで窮屈そうに生きている人柄のように思えている。池波さんも、そうだった。暮の三十一日の日にはたれそれの家に行って近況をうかがい、正月二日にはなにがしの墓に詣で、そのあとどこそこまで足をのばして飯を食うといったふうで、見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた。いわば、倫理体系の代用のようなものといっていい。この場合、こまるのは、巷の様子が変ることである。夏の盛りの何日という日にゆく店が、ゆくとなくなっていたり、まわりの景色がかわっていたりすると、たとえば蛙の卵をつつんでいる被膜がとれてしまうように当惑する。『いやですねえ』池波さんは、心が赤剝(あかむ)けにされてゆくような悲鳴をあげていた。なにしろ当時、東京オリンピック(昭和39年)の準備がすすめられていて、都内は高速道路の工事やらなにやらで、掘りかえされていた。東京は、べつな都市として変りつつあったのである。・・・以下は重要なことだが、この人はそのころから変らざる町としての江戸を書きはじめたのである。・・・」
ということで、この夏の暑さのなかで、
日暮硯の「七尺の鳥籠」と、司馬さんが語る「見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた」と、この二つの鳥籠を並べてみたかった(笑)。最後まで読んでいただきありがとうございます。
次は、池波正太郎著「真田騒動」を読みたく。
とりあえず、「池波正太郎を読む」を、さっそく注文。
「真田伊豆守の英知」と文庫で題された、9ページほどの文があるのでした。それが気になっておりました。側近が藩主に飼鳥をおすすめすると、高さ7尺余、長さ9尺、幅6尺の鳥籠を藩主がつくらせて、そこに側近を住まわせようとするようなエピソードがつづられているのでした。
恩田木工を語る際には、たいていこの箇所は省かれるところです。
そこをはしょって、肝心の恩田大工の話からはじめられるのでした。
それじゃ、ここはなぜ必要だったのか。
なんていうことを、漠然と思っておりました。
思っていると、何かと引っかかることがあるものです。
それについて、以下に語ります。
「司馬遼太郎が考えたこと14」(新潮社)は、1987・5~1990・10までのエッセイが掲載されております。そこに「若いころの池波さん」という追悼文が載っておりました。
その話をしたいのですが、ちょっと、そのまえに、同じ本の中に、桑原武夫氏への追悼文「鋭い言語感覚」も掲載されているのでして、まずは、そちらから引用させてもらいます。
「・・桑原さんに『白石と私』という文章がある。・・
『白石と私』によれば、白石との出会いは小学六年の教科書にのっていた『折たく柴の記』の一節だったという。白石の父について書かれている。父が主君のわがままを諌めているとき、額に点々と蚊がとまり、血を吸いあきてグミのようになった。見かねた主君が『追え』と命じて、ようやく顔を動かすと、六つ七つハラハラと下に落ちた。・・・この文章を、桑原少年はいっこうに感心しなかった、という。『子供の私には象徴ということの意味がわかっていなかったからである。いまはすばらしい文章だと思う』と、桑原さんはいう。そこまでくどくこの人は書いていないが、白石がつかった『蚊』の象徴によって、のちになって浪人する白石の父という人の剛直さがわかるのである。・・・」
さて、ここまでにして、次に「若いころの池波さん」を引用してゆきたいと思うのでした。
「・・・私どもは、兵隊にとられた世代である。
戦争がおわり、復員してきてしばらくのあいだ都庁につとめて税金のことをやっていたらしい。あるとき、税金のことで練りテンプラ屋さんにゆくと、揚げた練りテンプラが大きなざるいっぱいにならべてあった。そのざる越しに池波さんが職務上のことをなにかいうと、テンプラ屋がふりかえって、『たれのおかげなんだ、てめえなんぞがめしを食っているのは!』といったとき、池波さんはとっさには自分でもなにをやったのかわからず、気づいたときにはざるいっぱいのテンプラをゆかにぶちまけてしまっていた。あとで役所にデモがくるやら、池波を出せ、というプラカードが立つやらで、都庁に居づらくなり、やめてしまった。この話をきいたころ、池波さんは、恩田大工(おんだたくみ)という江戸期の信州松代藩の名家老のことを書いていたりして、ご自分の性分に似たような人を書いていなかった。おそらくこんな気性は小説にはならないとおもっていたのにちがいない。
私の記憶のなかの池波さんは、さきにのべたように、この人の四十歳前後までのことばかりなのである。和服は用いていなかった。服装はいつも茶色っぽい開襟シャツに地味なセビロで、およそめだたず、あごが頑丈そうで、笑えば金属の義歯が一つ二つ光った。顔が、叩いてつくったようにしっかりした筋肉でできていて若々しかった。いまの若い人にあんな感じの顔をみたことがない。
いつも草をわけるようにして田舎を歩いていたが、気分としては東京がすきで、東京だけでなく、町育ちの者がすきだった。というより、町育ちの者がもっている遠慮とか気づかいとかといった気分がすきなようだった。」
と、ここまで、引用してから、司馬さんが語る「鳥籠」がでてくる箇所を、引用しておしまい。
「私の記憶や知識のなかでは、江戸っ子という精神的類型は、自分自身できまりをつくってそのなかで窮屈そうに生きている人柄のように思えている。池波さんも、そうだった。暮の三十一日の日にはたれそれの家に行って近況をうかがい、正月二日にはなにがしの墓に詣で、そのあとどこそこまで足をのばして飯を食うといったふうで、見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた。いわば、倫理体系の代用のようなものといっていい。この場合、こまるのは、巷の様子が変ることである。夏の盛りの何日という日にゆく店が、ゆくとなくなっていたり、まわりの景色がかわっていたりすると、たとえば蛙の卵をつつんでいる被膜がとれてしまうように当惑する。『いやですねえ』池波さんは、心が赤剝(あかむ)けにされてゆくような悲鳴をあげていた。なにしろ当時、東京オリンピック(昭和39年)の準備がすすめられていて、都内は高速道路の工事やらなにやらで、掘りかえされていた。東京は、べつな都市として変りつつあったのである。・・・以下は重要なことだが、この人はそのころから変らざる町としての江戸を書きはじめたのである。・・・」
ということで、この夏の暑さのなかで、
日暮硯の「七尺の鳥籠」と、司馬さんが語る「見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた」と、この二つの鳥籠を並べてみたかった(笑)。最後まで読んでいただきありがとうございます。
次は、池波正太郎著「真田騒動」を読みたく。
とりあえず、「池波正太郎を読む」を、さっそく注文。