和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

日暮硯。

2010-07-25 | 前書・後書。
徳川夢声著「話術」(白揚社)をめくっていたら、本の最後に「恩田木工の座談法」という紹介がありまして、そういえば、イザヤ・ベンダサン「日本人とユダヤ人」で「日暮硯」が紹介されていたなあ。その時に読んだことがあったなあと、本棚を見回すと、ワイド版の岩波文庫「日暮硯」が買ってありました。黄色い線が引いてあるので、たしかに読んだはずなのですが、もうきれいに忘れておりました。「話術」にある「日暮硯」のあらすじ紹介が丁寧なので、それをふまえて読んだ「日暮硯」の言文の「候文」をまじえた語りもごく自然に読めました(笑)。

さてっと、ヒグラシといえば蝉ですが、
この本の最後は、
「・・・右の正しき事の条々・・・感嘆の余り、日暮し硯に向ひ、ここかしこ聞き覚へしところ、反古(ほご)の裏に書きつけて、伝へるものなり。・・」

とあります。簡潔に記された文を、読むのは、意味が分からないながらも、夏の読書に、端正な気分が伝わり、私にはうってつけのような気がします。それも余分な修飾語などがないせいで、簡潔・端的なのが心持を涼しげにしてもらえるからか。引き締まった印象をもつからなのか(しまった、こうダラダラと書くと暑さがぶり返してしまう)。

「日暮」といえば、徒然草の「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を・・・」が思い浮かぶものですが、「日暮硯」を読むと、「徒然草」の随筆調がきわだっていると思いえてきます。それほど「日暮硯」の方は、記述文(?)ということになるのでしょうか。

うん。現代文よりも、こういう文がうってつけの夏読書かもしれないなあ。汗をかきかき、古典の簡単単純文を読むのもありですね。
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言文別途。

2010-07-25 | 短文紹介
今年になって、終ってからお酒を飲まない議論を月1回ぐらいのペースでしております。そこで、自分の発言べたを、あらためて突きつけられる思いをしております(笑)。
もっとも、その発言を聞かされる方が、それ以上に迷惑をしておられるというところまで、考えが及ばないところが、私の発言の幼稚さ。
さて、そうして7月25日。今日は、昨日の暑さがすこしやわらいで、曇りで心地よい風もあります。
いや、そうじゃない、そうじゃない。「話すこと」について、思わず視界が明るくひろがるような面白い視点を提供してくれる本がありましたので、引用。

外山滋比古著「現代にほんご草紙」(PHP・昭和55年発行)の第二章新文章作法を何気なく開いていたら、そこにありました。


「・・・日本語は書くことばと話すことばが歩み寄っていない。言文別途なのである。それだけに、文章を書くのはいっそう難しいとも言えるし、また、やさしいのだと言うこともできる。なぜやさしいのか。話し方がどんなになっていなくても、文章だけ切りはなして上達することができるからである。実は、一般に考えられているのとは違って、書く方が話すよりやさしい。つまり、うまく話す方が、うまく書くよりはるかに難しい。
 うまく話せないといい文章が書きにくい言文一致の社会より、話せなくても書ける言文別途の国はありがたい。どんな口下手な人でも名文家になれる。口下手な方が上達しやすいかもしれない。そういうわけだから、話すのは文章と直接結びつかない。書くにはどうしても読む必要がある。すぐれた文章を読まずに、いい文章が書けるようになることは難しい。・・・・
国語の先生におもしろい文章を書く人がすくないのは、あまり、いろいろな文章につき合いすぎるからである。目移りがする。腰がすわらない。それではいつまでたってもスタイルができにくい。文章を書くには自分なりの書き方、スタイルが必要である。スタイルというといかにも高尚のようだが、ありようは書きぐせである。・・・・」(p124~125)


ここから、有意義な指摘となるのですが、
とりあえず、「書く方が話すよりやさしい。」というのは、
私には有難い一言であります。
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