徳川夢声著「話術」(白揚社)をめくっていたら、本の最後に「恩田木工の座談法」という紹介がありまして、そういえば、イザヤ・ベンダサン「日本人とユダヤ人」で「日暮硯」が紹介されていたなあ。その時に読んだことがあったなあと、本棚を見回すと、ワイド版の岩波文庫「日暮硯」が買ってありました。黄色い線が引いてあるので、たしかに読んだはずなのですが、もうきれいに忘れておりました。「話術」にある「日暮硯」のあらすじ紹介が丁寧なので、それをふまえて読んだ「日暮硯」の言文の「候文」をまじえた語りもごく自然に読めました(笑)。
さてっと、ヒグラシといえば蝉ですが、
この本の最後は、
「・・・右の正しき事の条々・・・感嘆の余り、日暮し硯に向ひ、ここかしこ聞き覚へしところ、反古(ほご)の裏に書きつけて、伝へるものなり。・・」
とあります。簡潔に記された文を、読むのは、意味が分からないながらも、夏の読書に、端正な気分が伝わり、私にはうってつけのような気がします。それも余分な修飾語などがないせいで、簡潔・端的なのが心持を涼しげにしてもらえるからか。引き締まった印象をもつからなのか(しまった、こうダラダラと書くと暑さがぶり返してしまう)。
「日暮」といえば、徒然草の「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を・・・」が思い浮かぶものですが、「日暮硯」を読むと、「徒然草」の随筆調がきわだっていると思いえてきます。それほど「日暮硯」の方は、記述文(?)ということになるのでしょうか。
うん。現代文よりも、こういう文がうってつけの夏読書かもしれないなあ。汗をかきかき、古典の簡単単純文を読むのもありですね。
さてっと、ヒグラシといえば蝉ですが、
この本の最後は、
「・・・右の正しき事の条々・・・感嘆の余り、日暮し硯に向ひ、ここかしこ聞き覚へしところ、反古(ほご)の裏に書きつけて、伝へるものなり。・・」
とあります。簡潔に記された文を、読むのは、意味が分からないながらも、夏の読書に、端正な気分が伝わり、私にはうってつけのような気がします。それも余分な修飾語などがないせいで、簡潔・端的なのが心持を涼しげにしてもらえるからか。引き締まった印象をもつからなのか(しまった、こうダラダラと書くと暑さがぶり返してしまう)。
「日暮」といえば、徒然草の「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を・・・」が思い浮かぶものですが、「日暮硯」を読むと、「徒然草」の随筆調がきわだっていると思いえてきます。それほど「日暮硯」の方は、記述文(?)ということになるのでしょうか。
うん。現代文よりも、こういう文がうってつけの夏読書かもしれないなあ。汗をかきかき、古典の簡単単純文を読むのもありですね。