和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

パリサイ人たちよ。

2015-10-02 | 書評欄拝見
正論11月号が出ている。
その雑誌の書評欄をひらくと
小川榮太郎著「小林秀雄の後の二十一章」(幻冬舎)
の書評が掲載されている。
評者は先崎彰容(東日本国際大学教授)氏。
この小川氏の著作は本体が5500円。
はなから、購入は見合わせたものですが、
内容は気になっておりました。
そこで、この書評を引用することに。

「第一に、著者はひたすら日本文明の特徴を、
『弱さ』に見出していること。それは弱者などと
いう陳腐な言葉とはまったく違う。文明には必ず、
自らの生命を奪われかねない『ぎりぎり』の瞬間がある。
危機を自覚したとき、人は何かを後世に遺そうと思う。
文明であればそれは言葉に他ならず、
勅撰和歌集はこうして生まれた。
『政治的勝利とは根本的に異質な、このような
自覚と美こそが『日本』であつた』(8頁)
よって第二として、著者は現在の日本語の衰退こそ
政治外交経済の不安以上に注目すべき問題なのだと
指摘したこと。伝統とは、古典を読み破る学者の
存在が連綿と数百年に渡って続いてきたことを
指すのである。『国語の保守は、そのやうな意味で、
紛糾せざるを得ない政治的主張ではない。大東亜戦争
や戦後を肯定しようが否定しようが、国語を否定する
理由など、全くない』(464頁)
思いだして欲しい、江戸時代、伊藤仁斎と荻生徂徠は
『論語』を、本居宣長は『古事記』を精読することで、
『日本』を後世へと手渡した。
つまり現代であれば、最も深い水準で
マルクスやニーチェを読むこと、世界が驚愕するような
深い読みを遺すことが、宣長が『古事記』で行ったのと
同じく、日本の文化を守ることなのだ。・・・」

この書評の最後を引用。

「ルソーの自己告白は、日本古典を読むことと
矛盾しないのだ。
今、私たちに求められているのは、
政治外交における自己顕示ではない。
日本語の伝統に自らも参与したいという
『熾烈な感情』(12頁)なのである。」

う~ん。とりあえず。
買わなくてよかった(笑)。
この金額で、小泉信三全集の古本が
買えるのだ。


次のページ。中宮崇氏による書評は
潮匡人著「護憲派メディアの何が気持ち悪いのか」
(PHP新書)が取り上げられておりました。
そこから、チラリ引用。

「潮は『戦前の日本が、
軍国主義という名前の孤立主義に陥ったとすれば、
戦後の日本はむしろ
平和主義という名前の孤立に陥っている』
と、サヨク勢力の弊害についての問題を提起する。
そして、聖書からマタイによる福音書を引用し、
サヨクを〈現代のパリサイ人〉になぞらえて批判するのだ。
『彼らのすることには、ならうな。
彼らは言うだけで、実行しないから。(中略)
自分では指一本も貸そうとはしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。(中略)
宴会の上座、会堂の上座を好み、広場であいさつされることや、
人々から先生と呼ばれることを好んでいる。(中略)
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。
あなたがたは、わざわいである。(中略)
外側は人に正しく見えるが、
内側は偽善と不法とでいっぱいである』」
コメント
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