水木しげる氏が亡くなり、
気になるので、
天声人語を
読んでみることに。
普段、天声人語を
わたしは読みません。
各新聞の一面コラムを
読み比べてみようと
思って読みました(笑)。
う~ん。
今回は水木しげる追悼の
一面コラムとして
天声人語を取り上げることに。
短い一面コラムでは
どのようにはじめるか。
どう引用するのか。
私が気になるのは、
そこでした。
それでは、
天声人語2015年12月1日の
はじまり。
「ネコのように生きるのが理想だった
という。自由に寝て、起きて、あくびをする。
少年のころから『なまけ者としてしか生きて
いけない』と思い込んでいた。
それが、戦争に駆り出される。・・・」
これが、その日の「天声人語」のはじまり。
はじまりは、朝日新聞の一面見出しの
ようなものと私には思えます。
そして、その日の「天声人語」のおわりは。
「『かみさんはうまくやってくれるし、
好きなことしてメシが食えて、
巨万の富も築いたわけですから』。
6年前の朝日賞の受賞式で茶目っ気
たっぷりに語り、会場を笑わせた。
享年93。砂かけ婆に手を引かれて、
戦友のもとへ向かっているか。」
う~ん。「天声人語」は
短いコラムを、
どうはじめていたか。
どこを引用したのか。
それを確認し、後学のために
ここに、記録しておきます。
ちなみに、日経新聞の
一面コラム「春秋」の
はじまりは
「自分の劇画や漫画で最も
愛着のある作品は?そう聞かれて
水木しげるさんが挙げていたのは
妖怪物の『ゲゲゲの鬼太郎』ではなく、
戦記物の『総員玉砕せよ!』だった。」
「春秋」のおわりも引用。
「束縛を嫌って自由気ままに生きることを
『水木サンのルール』と呼び、実践した。
強制や締め付けを嫌う気持ちは生死の境を
さまよった軍隊経験でいっそう強くなっただろう。
『成功や栄誉や勝つことにこだわり過ぎて、
大好きなことに熱中する幸せを置き忘れてしまって
はいないだろうか』。異色の漫画家の訃報だった。」
毎日新聞の「余禄」。
その一面コラムの後半にこんな箇所。
「水木さんはある時、
『天ぷらが嫌い』と口に出し家人に驚かれた。
ずっと食べていて、嫌いと誰も知らなかったのだ。
『好き嫌いを言ったら戦地で死んだ人に申しわけない』。
自ら左腕を失い、理不尽な死を強いられる
戦場の悲惨は終生その心にまとわりついた。」
さてっと、
読売新聞12月1日の文化欄は
おやっと思いました。
「水木しげるさんを悼む」として
つげ義春さんの(談)と
松田哲夫さんの寄稿が載っておりました。
ここは松田さんの寄稿文から
「昨年、ぼくの本の出版を祝う会の
発起人を引き受けていただいた。
壇上にあがってみんなの笑いを取って
いたかと思うと、バクバクと料理を
平らげていた。なんだか、これまで
以上に元気な様子だった。」
「身近に水木さんの仕事ぶりを見ていると、
水木さんはただの奇人ではないことが
わかってきた。彼は、今の文明社会を
痛烈に批判し、南の島の人たちのノンビリ
した暮らしに憧れ、妖怪たちとともに
生きることを、驚くほど純粋に夢見ていた。
その一方では、作品を発表し続ける
装置としてのプロダクション運営も、
しっかりこなしているのだ。
この二つが矛盾なく共存していること
ほど不思議なことはない。」
「水木さんは、その幼年期において
オタクであると同時にガキ大将だった
という、世にも珍しい存在だった。
並の人間ではなかった。でも
こういう性格だったからこそ、
さまざまな苦境や難局をやりすごす
ことができたのではないだろうか。」
気になるので、
天声人語を
読んでみることに。
普段、天声人語を
わたしは読みません。
各新聞の一面コラムを
読み比べてみようと
思って読みました(笑)。
う~ん。
今回は水木しげる追悼の
一面コラムとして
天声人語を取り上げることに。
短い一面コラムでは
どのようにはじめるか。
どう引用するのか。
私が気になるのは、
そこでした。
それでは、
天声人語2015年12月1日の
はじまり。
「ネコのように生きるのが理想だった
という。自由に寝て、起きて、あくびをする。
少年のころから『なまけ者としてしか生きて
いけない』と思い込んでいた。
それが、戦争に駆り出される。・・・」
これが、その日の「天声人語」のはじまり。
はじまりは、朝日新聞の一面見出しの
ようなものと私には思えます。
そして、その日の「天声人語」のおわりは。
「『かみさんはうまくやってくれるし、
好きなことしてメシが食えて、
巨万の富も築いたわけですから』。
6年前の朝日賞の受賞式で茶目っ気
たっぷりに語り、会場を笑わせた。
享年93。砂かけ婆に手を引かれて、
戦友のもとへ向かっているか。」
う~ん。「天声人語」は
短いコラムを、
どうはじめていたか。
どこを引用したのか。
それを確認し、後学のために
ここに、記録しておきます。
ちなみに、日経新聞の
一面コラム「春秋」の
はじまりは
「自分の劇画や漫画で最も
愛着のある作品は?そう聞かれて
水木しげるさんが挙げていたのは
妖怪物の『ゲゲゲの鬼太郎』ではなく、
戦記物の『総員玉砕せよ!』だった。」
「春秋」のおわりも引用。
「束縛を嫌って自由気ままに生きることを
『水木サンのルール』と呼び、実践した。
強制や締め付けを嫌う気持ちは生死の境を
さまよった軍隊経験でいっそう強くなっただろう。
『成功や栄誉や勝つことにこだわり過ぎて、
大好きなことに熱中する幸せを置き忘れてしまって
はいないだろうか』。異色の漫画家の訃報だった。」
毎日新聞の「余禄」。
その一面コラムの後半にこんな箇所。
「水木さんはある時、
『天ぷらが嫌い』と口に出し家人に驚かれた。
ずっと食べていて、嫌いと誰も知らなかったのだ。
『好き嫌いを言ったら戦地で死んだ人に申しわけない』。
自ら左腕を失い、理不尽な死を強いられる
戦場の悲惨は終生その心にまとわりついた。」
さてっと、
読売新聞12月1日の文化欄は
おやっと思いました。
「水木しげるさんを悼む」として
つげ義春さんの(談)と
松田哲夫さんの寄稿が載っておりました。
ここは松田さんの寄稿文から
「昨年、ぼくの本の出版を祝う会の
発起人を引き受けていただいた。
壇上にあがってみんなの笑いを取って
いたかと思うと、バクバクと料理を
平らげていた。なんだか、これまで
以上に元気な様子だった。」
「身近に水木さんの仕事ぶりを見ていると、
水木さんはただの奇人ではないことが
わかってきた。彼は、今の文明社会を
痛烈に批判し、南の島の人たちのノンビリ
した暮らしに憧れ、妖怪たちとともに
生きることを、驚くほど純粋に夢見ていた。
その一方では、作品を発表し続ける
装置としてのプロダクション運営も、
しっかりこなしているのだ。
この二つが矛盾なく共存していること
ほど不思議なことはない。」
「水木さんは、その幼年期において
オタクであると同時にガキ大将だった
という、世にも珍しい存在だった。
並の人間ではなかった。でも
こういう性格だったからこそ、
さまざまな苦境や難局をやりすごす
ことができたのではないだろうか。」