御伽草子に、興味が湧いたので、
ソワソワ読書で
ウロウロ読書で、
キョロキョロ読書。
フワフワ読書で
頁ペラペラ読書の
今日取り上げる本は、
バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」(思文閣出版)。
そこにある「奈良絵本と貴賤文学」から
魅力あるので、ちょっと長く引用。
「中世文学については、詳しくは勉強したのは
連歌と謡曲についてだけである。というのは、
中世文学では和歌、連歌、それに謡曲だけにしか
高い評価が与えられてなかったからである。
つまり、中世小説は、ほとんど読む価値のないもの
として軽んじられていたのである。・・・
日本文学の研究のなかで、中世小説は、ある意味で
継子(ままこ)いじめされていたといえるだろう。
・・・『平家物語』は日本古典文学のなかで
非常に奇妙な存在であり、初めて読んだときから、
この作品の性格が理解できず、いわばわたくしのなかで
謎のような存在であった。このことは、
後から振り返ってみると、わたくしが
『源氏物語』の伝統にどっぷり浸かっていて、
その世界からこの作品を眺めていたことが原因だった
のであるが、当時のわたくしにはむろんわからなかった。
・・・
普遍性ということでなく国民性ということを問題にした場合、
つまり、日本人を、アメリカ人でもなくロシア人でもなく
フランス人でもなく中国人でもなく、日本人たらしめているもの、
つまり日本人の国民性を問題にした場合、『源氏物語』は
十分といえない点がある。それはどういうことかというと、
『源氏物語』は平安時代の貴族というひと握りのエリートだけを
対象にした文学であって、いわば貴族階級の所有物だということである。
しかし、たとえば『平家物語』を例にとってみると、
『源氏物語』とまったく逆の性格が見いだされるのである。
・・・・この物語は、源平の合戦に巻き込まれた人たちが、
この合戦に対して示した宗教的、倫理的、心理的反応の集大成
といえるものになっている。『平家物語』以前に、
これほどまで多くの階層の人たちについて語られた物語はなかった。
・・・・『平家物語』は一つの階層の所有物ではなく、
合戦に巻き込まれた人たちすべての所有物なのである。
いま、『平家物語』を例にとって説明したが、
実をいうと、これらのことは一連の中世短編小説に
共通していえることなのである。
・・・・
これらの作品は人びとにショックを与えたり、
また革命的な思想を吹き込んだりするようなものではない。
これらは、人びとが何度も何度も聞きたい、
あるいは読みたいと願うテーマから成っており、
何度聞かされてもまた読んでも、決して飽きたりしない、
それどころか、人びとに安心感と慰みを与えるのである。
なぜかというと、これらの作品の内容が国民性と
一致しているからである。したがって、
これらの物語は外国人に最も理解され難いものかもしれない。
・・・・
わたくしの考えでは、
日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
いちばんはっきりとした形で現われていると思われる。
この時代は、いわゆる御伽草子の時代でもあり、
奈良絵本という絵入りの冊子本が登場した時代でもある。
しかし残念なことに、この絵入り物語は、
平安時代や江戸時代の文学や絵画の作品と比較してみると、
いちばん一般の日本人に知られていない、
また研究されていない分野で、いまだに国文学者のなかにも、
御伽草子とは室町時代に単に子供と女性を対象にして
書かれた作品だと考えている人がいるくらいである。・・
国民性のルーツともいえる中世小説は過小評価
されすぎているのではなかろうか。
・・・・・
やはり、
紫式部から井原西鶴までの五百年間は空白ではなかった。
日本人はフィクション、つまり小説の世界で、
すばらしくクリエイティブなものを創っていた。
わたくしは、この中世小説のなかに、御伽草子のなかに、
日本人の創造性の一つを見る。
しかし、残念に思うのは、この世界の存在が
今日の日本人から忘れ去られてしまっていることである。
・・わたくしの経験ではほとんどの方がご存知ないようである。
逆に、『中世小説って何でしょうか。』と問われる次第である。
たとえば『御伽草子ですよ』と答えると、
『ああ御伽話ですか』という始末である。
確かにのちに子供のために御伽話に書きかえられた話もあるが、
これを聞くたびにわたくしはがっくりしてしまう。
と同時に、中世の日本人が創ったこのすばらしい世界を、
現代の日本人が、これほどまで無視してしまってよいのか、
・・・・これをきっかけとして、
奈良絵本と対面し、中世小説を読んでいただき、
そして、その今日的意義についてお考えいただければ、
かならずや得るところがあると思う。
(1979年・・・奈良絵本国際会議と展示会を記念して
公開講演会が催された。本稿はその講演をまとめたものである。)」
はい。
御伽草子を読む楽しみが、
もうここに示されていたのでした。
ソワソワ読書で
ウロウロ読書で、
キョロキョロ読書。
フワフワ読書で
頁ペラペラ読書の
今日取り上げる本は、
バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」(思文閣出版)。
そこにある「奈良絵本と貴賤文学」から
魅力あるので、ちょっと長く引用。
「中世文学については、詳しくは勉強したのは
連歌と謡曲についてだけである。というのは、
中世文学では和歌、連歌、それに謡曲だけにしか
高い評価が与えられてなかったからである。
つまり、中世小説は、ほとんど読む価値のないもの
として軽んじられていたのである。・・・
日本文学の研究のなかで、中世小説は、ある意味で
継子(ままこ)いじめされていたといえるだろう。
・・・『平家物語』は日本古典文学のなかで
非常に奇妙な存在であり、初めて読んだときから、
この作品の性格が理解できず、いわばわたくしのなかで
謎のような存在であった。このことは、
後から振り返ってみると、わたくしが
『源氏物語』の伝統にどっぷり浸かっていて、
その世界からこの作品を眺めていたことが原因だった
のであるが、当時のわたくしにはむろんわからなかった。
・・・
普遍性ということでなく国民性ということを問題にした場合、
つまり、日本人を、アメリカ人でもなくロシア人でもなく
フランス人でもなく中国人でもなく、日本人たらしめているもの、
つまり日本人の国民性を問題にした場合、『源氏物語』は
十分といえない点がある。それはどういうことかというと、
『源氏物語』は平安時代の貴族というひと握りのエリートだけを
対象にした文学であって、いわば貴族階級の所有物だということである。
しかし、たとえば『平家物語』を例にとってみると、
『源氏物語』とまったく逆の性格が見いだされるのである。
・・・・この物語は、源平の合戦に巻き込まれた人たちが、
この合戦に対して示した宗教的、倫理的、心理的反応の集大成
といえるものになっている。『平家物語』以前に、
これほどまで多くの階層の人たちについて語られた物語はなかった。
・・・・『平家物語』は一つの階層の所有物ではなく、
合戦に巻き込まれた人たちすべての所有物なのである。
いま、『平家物語』を例にとって説明したが、
実をいうと、これらのことは一連の中世短編小説に
共通していえることなのである。
・・・・
これらの作品は人びとにショックを与えたり、
また革命的な思想を吹き込んだりするようなものではない。
これらは、人びとが何度も何度も聞きたい、
あるいは読みたいと願うテーマから成っており、
何度聞かされてもまた読んでも、決して飽きたりしない、
それどころか、人びとに安心感と慰みを与えるのである。
なぜかというと、これらの作品の内容が国民性と
一致しているからである。したがって、
これらの物語は外国人に最も理解され難いものかもしれない。
・・・・
わたくしの考えでは、
日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
いちばんはっきりとした形で現われていると思われる。
この時代は、いわゆる御伽草子の時代でもあり、
奈良絵本という絵入りの冊子本が登場した時代でもある。
しかし残念なことに、この絵入り物語は、
平安時代や江戸時代の文学や絵画の作品と比較してみると、
いちばん一般の日本人に知られていない、
また研究されていない分野で、いまだに国文学者のなかにも、
御伽草子とは室町時代に単に子供と女性を対象にして
書かれた作品だと考えている人がいるくらいである。・・
国民性のルーツともいえる中世小説は過小評価
されすぎているのではなかろうか。
・・・・・
やはり、
紫式部から井原西鶴までの五百年間は空白ではなかった。
日本人はフィクション、つまり小説の世界で、
すばらしくクリエイティブなものを創っていた。
わたくしは、この中世小説のなかに、御伽草子のなかに、
日本人の創造性の一つを見る。
しかし、残念に思うのは、この世界の存在が
今日の日本人から忘れ去られてしまっていることである。
・・わたくしの経験ではほとんどの方がご存知ないようである。
逆に、『中世小説って何でしょうか。』と問われる次第である。
たとえば『御伽草子ですよ』と答えると、
『ああ御伽話ですか』という始末である。
確かにのちに子供のために御伽話に書きかえられた話もあるが、
これを聞くたびにわたくしはがっくりしてしまう。
と同時に、中世の日本人が創ったこのすばらしい世界を、
現代の日本人が、これほどまで無視してしまってよいのか、
・・・・これをきっかけとして、
奈良絵本と対面し、中世小説を読んでいただき、
そして、その今日的意義についてお考えいただければ、
かならずや得るところがあると思う。
(1979年・・・奈良絵本国際会議と展示会を記念して
公開講演会が催された。本稿はその講演をまとめたものである。)」
はい。
御伽草子を読む楽しみが、
もうここに示されていたのでした。