外山滋比古著「乱読のセレンディピティ」(扶桑社)の
はじめの方に、
「新刊は新しすぎる」(p18)
とあって、思わずニヤリ。
次のページには
「本の少ない昔は考えにくいことだが、
本があふれるいまの時代、
もっともおもしろい読書法は乱読である。」
とありました。
はい。安い古本が簡単に手に入る昨今。
乱読も夢じゃない。
「おもしろくなければ捨てればいい」(p44)
というのも安い古本ならストレスなしにできます(笑)。
「よさそうだと思ったのが、
案外食わせものだった、
ということだってあるが、
それでも心ある読者なら
なにかしらを得ることはできる。」
「実際に何度も繰り返して読む本が
五冊か七冊もあればりっぱである。
本は読み捨てでかまわない。
本に執着するのは知的ではない。・・
本を読んだら、忘れるにまかせる。」(p45)
私は、以前に「乱読のセレンディピティ」を読んだのに、
それを、すっかり、忘れておりました。
「乱談のセレンディピティ」が出た時にも、
そのことを思い出せなくて、
「乱談」があるなら「乱読」も読みたいと
忘れたことを棚に上げて、ちっとも、思い出せませんでした。
うん。そんな、あれこれを、許してくれる本です(笑)。
新刊は、寝かせておいた方がいいのかも。
では、どうして思い出したのかというと、
「乱読のセレンディピティ」が
新刊文庫本の紹介で出た時でした。
まさかと、本棚に探したらある。
この機会に、
「乱読・・」の次に出た「乱談・・」を
あらためて、めくってみる。
こんな、箇所があります。
「余計なことは考えず、ただ、浮世ばなれたことを
話し合っていると、本を読んでいるときとはまったく
違った知的刺激をうける。もともと人間はそうなって
いるのであろう。そういう『おしゃべり』で賢くなり、
未知を拓いてきたのである。
学校教育が整備されるにつれて、
生活とのつながりの強いことはすべて、
通俗、下等であると誤解するようになる。
孤立した頭は、理解力にはすぐれていても
新しいものを生み出すエネルギーに欠けることが多い。」
(p112)
外山滋比古氏の本では、
連歌・俳諧についての指摘が
私には、有り難かった。
「連歌、俳諧にみられる乱調論理は、
いまなお、はっきりした思考になっていない。
ヨーロッパ的、個人中心の論理に対して、
日本には千年近く前から、
集合論理、親和の論理が存在したことは、
いまからでも世界に知ってもらいたいことである。
座談会をつくり出したのも
このグループ論理であったと思われる。
スピーチは退屈だが、
わけのわからぬことを話し合っているような
おしゃべりが、なぜ、おもしろいのか。
それを見つけたのも日本人である。
正調の論理と乱調の論理は、はっきり別であるが、
正調の論理はつめたく緻密でありがちなのに対して、
乱調の論理は、なにより、おもしろい。
そして、やさしく、あたたかい。
ケンカには不向きながら、
心かよわす仲間を結びつける力をもっている。」(p138)
はい。この、新しすぎる指摘を
何とか味わってみたいと思う、
私もそのうちの一人です。
はじめの方に、
「新刊は新しすぎる」(p18)
とあって、思わずニヤリ。
次のページには
「本の少ない昔は考えにくいことだが、
本があふれるいまの時代、
もっともおもしろい読書法は乱読である。」
とありました。
はい。安い古本が簡単に手に入る昨今。
乱読も夢じゃない。
「おもしろくなければ捨てればいい」(p44)
というのも安い古本ならストレスなしにできます(笑)。
「よさそうだと思ったのが、
案外食わせものだった、
ということだってあるが、
それでも心ある読者なら
なにかしらを得ることはできる。」
「実際に何度も繰り返して読む本が
五冊か七冊もあればりっぱである。
本は読み捨てでかまわない。
本に執着するのは知的ではない。・・
本を読んだら、忘れるにまかせる。」(p45)
私は、以前に「乱読のセレンディピティ」を読んだのに、
それを、すっかり、忘れておりました。
「乱談のセレンディピティ」が出た時にも、
そのことを思い出せなくて、
「乱談」があるなら「乱読」も読みたいと
忘れたことを棚に上げて、ちっとも、思い出せませんでした。
うん。そんな、あれこれを、許してくれる本です(笑)。
新刊は、寝かせておいた方がいいのかも。
では、どうして思い出したのかというと、
「乱読のセレンディピティ」が
新刊文庫本の紹介で出た時でした。
まさかと、本棚に探したらある。
この機会に、
「乱読・・」の次に出た「乱談・・」を
あらためて、めくってみる。
こんな、箇所があります。
「余計なことは考えず、ただ、浮世ばなれたことを
話し合っていると、本を読んでいるときとはまったく
違った知的刺激をうける。もともと人間はそうなって
いるのであろう。そういう『おしゃべり』で賢くなり、
未知を拓いてきたのである。
学校教育が整備されるにつれて、
生活とのつながりの強いことはすべて、
通俗、下等であると誤解するようになる。
孤立した頭は、理解力にはすぐれていても
新しいものを生み出すエネルギーに欠けることが多い。」
(p112)
外山滋比古氏の本では、
連歌・俳諧についての指摘が
私には、有り難かった。
「連歌、俳諧にみられる乱調論理は、
いまなお、はっきりした思考になっていない。
ヨーロッパ的、個人中心の論理に対して、
日本には千年近く前から、
集合論理、親和の論理が存在したことは、
いまからでも世界に知ってもらいたいことである。
座談会をつくり出したのも
このグループ論理であったと思われる。
スピーチは退屈だが、
わけのわからぬことを話し合っているような
おしゃべりが、なぜ、おもしろいのか。
それを見つけたのも日本人である。
正調の論理と乱調の論理は、はっきり別であるが、
正調の論理はつめたく緻密でありがちなのに対して、
乱調の論理は、なにより、おもしろい。
そして、やさしく、あたたかい。
ケンカには不向きながら、
心かよわす仲間を結びつける力をもっている。」(p138)
はい。この、新しすぎる指摘を
何とか味わってみたいと思う、
私もそのうちの一人です。