福井での栄養士の仕事をやめ、京都の梅棹研究所に
通うことになった藤本ますみさん。
その初日仕事が、気になりました。
「ごあいさつ、掃除、お茶くみ、電話のとりつぎ、郵便物の開封。
初日の仕事はそんなところだった。
このなかで、いちばんしんどかったのは、やっぱり
電話の受け応えだった。・・・たった三人の静かな
オフィスでは、話している人の声がひどく目立つ。
・・受話器をもったら反射的に『梅棹研究所です』と
いえるようになるには、何日ぐらいかかるだろう。
とかく鈍くて慣れるのにヒマのかかるわたしは、
新しいことを身につけるのにたいてい人の二倍の時間がかかる。
なんとかならないものかと考えてみるのだが、
考えてみたって、こればかりはどうしようもない。
あせったら早とちりや勘違いをして、
ますます事態は悪くなる。」
(p36~37「知的生産者たちの現場」)
さて、こうして初日の様子を書きとめておられます。
そういえば、鷲尾賢也氏の初仕事の箇所も印象深い。
「・・私は『ふつう』の会社から出版社に途中入社したので、
その環境変化へのとまどいは激しかった。
配属部署が男性週刊誌だったからなおさらである。
人事課の人にそこへ連れていかれた日は、
たまたま校了日だった。指導してくれることになっている
先輩社員のとなりに座らせられた。しばらく座って見ていろ
といわれた。・・・夜の8時になっても、10時になっても、
先輩社員は電話をかけたりライターに指示したり、
忙しく働いていて、なにもいってくれない。・・・
午前1時過ぎに、やることがないので帰っていいかと
恐る恐る尋ねた。『ばかやろ! そこに座っていろ』
といわれた。結局、配属初日から徹夜になってしまった。
ひどいところへきてしまったと思ったが、
あとで考えると、ともかく現場の空気をはやく身につけさせ
ようという教育的配慮だったのであろう。
何の説明もない乱暴なスタイルだが、ある意味では
筋が通ている。つまり全体が見渡せたからである。
・・・・荒っぽい世界であったが、
一方で大変な教養人ぞろいであった。
青臭く他人に語らないのが、その世界のお洒落なスタイルだった。」
(p19~21「編集とはどのような仕事なのか」)
ちなみに、藤本さんの本には、
新聞社の社会部の記者との、電話でのやりとりの場面があります。
「京都大学山岳部の学生たちが、北山で遭難事故を起こしたことがあった。
各新聞社の社会部から電話がはいり、先生のコメントがほしいから、
梅棹さんの行方を教えてくれといわれた。そのとき、先生は
『知的生産の技術』の原稿執筆のため、ホテルでカンヅメ中であった。
あと数日したら、海外調査のためヨーロッパに発つことになっている
・・・・
『とにかく、きょうは研究所には見えませんので』
そういって、電話を切ろうとしたら、
『そんなことはきいてないんだ。いまどこにいるか。
それをいえばいいんだ』相手は腹を立て、電話のむこうで怒鳴った。
『知りません!』知っていたっていいたくない。
しかし、わたしの返事は、火に油をそそいたようだ。
『なに、知らないって。そんなことで、あんた、
よく秘書がつとまってるね。おれなら即刻クビにするよ』
『よろこんでそうしていただきます。失礼しました!』
部屋中にひびきわたるような音を立てて、わたしは受話器を置いた。
・・・」(~p221)
はい。このあと、藤本さんは、反省の弁とその後の様子も
書いておられますが、引用はここまでにします。
秘書といえば、樋口謹一先生が、藤本さんに語った場面も
なるほどと思いました。
「『梅棹さんとこは、常勤の秘書が二人もいて、大変ですなあ』・・・
先生は軽いほほえみをうかべながら、説明不足をおぎなってくださった。
『秘書がいたら、その人にやってもらう仕事を
あらかじめつくっておかんならんでしょう?
それがたいへんやなと思うんですよ。
きょうはなにしてはたらいてもらおうかななんて、
毎日考えんならんとしたら、ぼくなんか困ってしまうなあ。
梅棹さんは二人もつかって、ようやってはると思うわ。
ぼくやったら、もしここに二人の秘書がいたら、そちらに気をつかって、
かえって自分の仕事がはかどらんようになってしまうやろうなあ、きっと』
おしまいのほうはいくぶん照れくさそうに言葉を笑いにつつんで、
早口におっしゃった。」(p271)
これに答えて藤本さんは
「『そのことだったら、ちがうんです。・・・
必要なことは秘書のほうで考えてやります・・』」(p272)
はい。この樋口先生へ答える藤本さんの言葉はぜひ
全文を引用したいところですが、長くなりますのでカット。