和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

新聞の切り抜き。

2021-07-18 | 本棚並べ
今では、死語なのかもしれないけれど、
そして、わたしも最近してないけれど、
『新聞の切り抜き』。

うん。思い浮かべるのは、
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社・平成22年)。
まずは引用。

「昭和12年4月1日。日本興業銀行に入行しました。
同期の人は、男性15、6人、女の人は10人ほど。
・・調査課に配属されました。そのときの調査課長が
工藤昭四郎(しょうしろう)さん・・・

調査課の仕事は、日本や世界の産業や経済の動きを知る
ためのいろんな調査や、そのための資料や図書の購入と
整理。そして調査月報の編集でした。

私の仕事は走り使いのようなことが主でしたが、
長く続けていた仕事の一つに新聞の切り抜きがあります。

朝8時ごろから、工藤さんは東京朝日新聞(現朝日新聞)、
東京日日新聞(現毎日新聞)、読売新聞、中外商業新報
(現日本経済新聞)、日刊工業新聞などを読み、

そのなかの主なというか、興銀に勤めている人なら
読んでおかなければならない記事に印をつけます。

私は印のついた記事を切り抜き、紙に貼り、日付、
新聞紙名を記入し、それを毎日6人分(重役数)作りました。
これは10時までに仕上げなければならない急ぐ仕事です。」
(p64)

そして、次のページにこうあります。

「この新聞の切り抜きを作ったことは、
すばらしい経験になりました。・・・・・
『どんなことが、なぜ大事なのかしら』と、
新聞記事を比べて読んだりしたのもよかったと思います。
以来私はずっと活字に関係した仕事をしています。」(p65)


さてっと、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)に
「新聞切抜事業団」(p205~212)という小見出しがあります。
藤本さんが勤めた翌年の1967年。
その切抜き事業団の活動がはじまるのですが、
その前段階に注目しました。以下に箇条書きに引用。

「そのころ、先生は家で日刊紙を3つとっておられた。」

「わたしがつとめはじめたときすでに、梅棹夫人は
物置きが新聞だらけで困っておられたのだから。・・
新聞は待ったなしにやってくる。どんどんたまっていく新聞を、
日付順に並べて一ヵ月文をヒモでくくる仕事は、奥さまの役割
のようだった。・・・梅棹家の物置きは、たまりにたまった
先生の古新聞に占拠され、パンク寸前のところまできてしまった。」

「それにしても、10年分の日刊紙3紙・・・
10年もの長きにわたって、家族との闘いのなかを
守りとおしてきた財産・・・・」

はい。この小見出しの文の最後も引用しておかなければ、

「用事でときどき裏の作業場へ行くと、
手をまっ黒にして新聞をめくり、赤マジックでかこみをつけて
いる若者たちを見た。梅棹家では家族の見終わったあとの新聞を、
奥さまがきちんとたたまれ、積みあげていられるのを見たことがある。

・・先生の場合は、たまたま加納先生の記念出版と出あわしたから
よかったものの、こういうことがなかったら、
いまごろあの新聞の山はどうなっていただろう。

たいていの場合、新聞の切り抜きが長続きしないのは、
持続しようと思えばたいへんな労力がいり、保管場所をとること、
そして、そのわりには利用のチャンスがすくないことなどでは
なかろうか。

それにしても、先生が10年分の新聞を持ちこたえてきた
執念には、おそれいる。駄切手収集といい、新聞切り抜きといい、
これらを途中であきらめないで持続できるエネルギーは、
どこからわいてくるのであろうか。」


はい。1960年代当時、情報洪水と向き合うというのは、
見える形でいえば、こういうことだったのでしょうか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする