今では、死語なのかもしれないけれど、
そして、わたしも最近してないけれど、
『新聞の切り抜き』。
うん。思い浮かべるのは、
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社・平成22年)。
まずは引用。
「昭和12年4月1日。日本興業銀行に入行しました。
同期の人は、男性15、6人、女の人は10人ほど。
・・調査課に配属されました。そのときの調査課長が
工藤昭四郎(しょうしろう)さん・・・
調査課の仕事は、日本や世界の産業や経済の動きを知る
ためのいろんな調査や、そのための資料や図書の購入と
整理。そして調査月報の編集でした。
私の仕事は走り使いのようなことが主でしたが、
長く続けていた仕事の一つに新聞の切り抜きがあります。
朝8時ごろから、工藤さんは東京朝日新聞(現朝日新聞)、
東京日日新聞(現毎日新聞)、読売新聞、中外商業新報
(現日本経済新聞)、日刊工業新聞などを読み、
そのなかの主なというか、興銀に勤めている人なら
読んでおかなければならない記事に印をつけます。
私は印のついた記事を切り抜き、紙に貼り、日付、
新聞紙名を記入し、それを毎日6人分(重役数)作りました。
これは10時までに仕上げなければならない急ぐ仕事です。」
(p64)
そして、次のページにこうあります。
「この新聞の切り抜きを作ったことは、
すばらしい経験になりました。・・・・・
『どんなことが、なぜ大事なのかしら』と、
新聞記事を比べて読んだりしたのもよかったと思います。
以来私はずっと活字に関係した仕事をしています。」(p65)
さてっと、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)に
「新聞切抜事業団」(p205~212)という小見出しがあります。
藤本さんが勤めた翌年の1967年。
その切抜き事業団の活動がはじまるのですが、
その前段階に注目しました。以下に箇条書きに引用。
「そのころ、先生は家で日刊紙を3つとっておられた。」
「わたしがつとめはじめたときすでに、梅棹夫人は
物置きが新聞だらけで困っておられたのだから。・・
新聞は待ったなしにやってくる。どんどんたまっていく新聞を、
日付順に並べて一ヵ月文をヒモでくくる仕事は、奥さまの役割
のようだった。・・・梅棹家の物置きは、たまりにたまった
先生の古新聞に占拠され、パンク寸前のところまできてしまった。」
「それにしても、10年分の日刊紙3紙・・・
10年もの長きにわたって、家族との闘いのなかを
守りとおしてきた財産・・・・」
はい。この小見出しの文の最後も引用しておかなければ、
「用事でときどき裏の作業場へ行くと、
手をまっ黒にして新聞をめくり、赤マジックでかこみをつけて
いる若者たちを見た。梅棹家では家族の見終わったあとの新聞を、
奥さまがきちんとたたまれ、積みあげていられるのを見たことがある。
・・先生の場合は、たまたま加納先生の記念出版と出あわしたから
よかったものの、こういうことがなかったら、
いまごろあの新聞の山はどうなっていただろう。
たいていの場合、新聞の切り抜きが長続きしないのは、
持続しようと思えばたいへんな労力がいり、保管場所をとること、
そして、そのわりには利用のチャンスがすくないことなどでは
なかろうか。
それにしても、先生が10年分の新聞を持ちこたえてきた
執念には、おそれいる。駄切手収集といい、新聞切り抜きといい、
これらを途中であきらめないで持続できるエネルギーは、
どこからわいてくるのであろうか。」
はい。1960年代当時、情報洪水と向き合うというのは、
見える形でいえば、こういうことだったのでしょうか。