昨日は、主なき家の物置小屋の屋根修理。
じつは、昨年末に、物置小屋のトタンが剥がれて、
修理しなければいけなかったのに、やらず仕舞い。
ようやく暖かくなったことだし、慎重に屋根修理。
トタンが剥がれた箇所を、トタンで修理するのが
当然でしょうが、そこが素人のかなしさ浅はかさ。
いざ屋根に上るとトタンはツルツルすべるし、
こちとら身軽に動けるような身体感覚はなし。
そこで、屋根の横木を補強しベニヤで何とか
ふさいでから、防水シートを上に貼ることに。
いざ、現場で見てからどうするか迷っていて、
結局体を動かしている時間より、あれこれと
思い描いている時間が多く、途中で一日終了。
来週水曜日の天気次第で残り仕事を終了予定。
さてっと、丸谷才一著「思考のレッスン」その思考つながりで、
外山滋比古著「思考の整理学」(ちくま文庫)を本棚からだす。
ベストセラー文庫本なので、私ももっておりました。
パラリとひらくと、こんな箇所。
「論文を書こうとしている学生に言うことにしている。
『テーマはひとつでは多すぎる。すくなくとも、
二つ、できれば、三つもって、スタートしてほしい』。
きいた方では、なぜ、ひとつでは『多すぎる』のか
ぴんと来ないらしいが、そんなことはわかるときになれば、わかる。
わからぬときにいくら説明しても無駄である。」(p43)
うん。『ひとつでは多すぎる』なんて、
これ、俳句と俳諧との差異を示唆しているような。
うん。俳句と俳諧の思考の違いが語られるような。
そう。そんなふうに、わたしには思えたのでした。
ちなみに、外山滋比古著「乱談のセレンディピティ」(扶桑社)に
「三人の力」という正味2㌻ほどの文があります。それも引用。
「『三人寄れば文殊の知恵』ということわざがある。
読書信仰の強い日本である。このことわざの意味が
半ばわからなくなっている。・・・・・・・・・
三人の話し合いは、新しい力が生まれる。相手が二人いる。
それぞれが、反応するからことばが重層的になる。
混乱するが、エネルギーをはらんだ混乱で、めいめいに強い印象を与える。
おもしろい談話が生まれる。そのおもしろさは、
本を読んで得られる満足感、気持ちのよい対話をしたあとの爽快感と違った
生産的エネルギーを内蔵する。うまく引き出せば文殊の知恵である。」
( p70~71 )
先を急ぎました。この本の前の方に、三人会が語られております。
東京高等師範学校附属中学の教師三人が雑学勉強会をひらくのでした。
うん。ここははじめから引用。
「授業を終えたが、なんとなくすぐ職員室へ帰る気がしない。
校舎と校舎をつなぐ渡り廊下でぼんやり空をながめていたらしい。
『どうした?』
という鈴木一雄くんの声でわれにかえる。
思うように自分の勉強ができなくて、おもしろくないのだ
というようなことを打ち明けると、あとで話そう、
自分も同じ思いだと鈴木くんが言う。
そのあと、二人で相談して、雑学勉強会をしようということになる。
二人では淋しい。お互いの同期である鈴木修次くんも仲間にしようとなった。
・・・鈴木一雄くんは国文学、鈴木修次くんは中国文学、外山は英文学。
和漢洋、三才の会だが、おとなしく三人会を名乗ってスタートした。」
(p48)
「三人会は、月一度、日曜に開く。午前十時ごろ、めいめいのウチを
持ち回りの会場にして集まる。・・ヒルは近くの寿司を出前でとってすます。
夕方にはお開きということで始めたが、終わるのが惜しくなって、
夕食をしてからもしゃべった。
なにをしゃべったのか、お互いよくわかっていなかったらしいが、
とにかく、楽しく、おもしろく、刺激的であった。
時のたつのを忘れるというのが、ただの修辞でないことを、
この三人会で教えられた。・・・」(p51)
「・・談論風発ということばは知っていたが、実際は知るべくもなかった。
三人会で、これがそうだと思うようになる。
ひとりでは決して出てこない考えが、次々あらわれるから忙しい。
反論しても、言い合いにならないのは、
互いに、能力を評価していたからである。・・・・
放談である。しかし、それをやさしく受けとめてくれる人がいる。
というのは、新鮮である。そう簡単によい考えがあらわれるわけではないが、
勝手なことを言い合っていると、そこに何とも言えない
≪おもしろさ≫が生まれる。知的な≪おもしろさ≫の発見がある。」
( p53~p54 )
「発足から十年くらいして、三人とも、
東京教育大学文学部の助教授となっていた。
そこへ東京教育大学の筑波移転問題が起こる。・・・」(p56)
うん。ついつい引用したのは、最後に
尾形仂著「座の文学」(講談社学術文庫)のあとがきを
引用したかったからなのでした。
尾形仂氏のあとがきの日付は、昭和48年盛夏となっております。
「・・・・楽屋話といえば、
私の勤務する大学では、ドイツ文学の石塚敬直氏の提唱で、
かれこれ十年ほど前から、諸学科の教官有志が月に一度ずつ集まって、
芭蕉の連句を読む会を続けてきている。
同人には、仏文の中平解、国文の吉田精一、独文の星野慎一、
東洋史の中島敏、日本史の和歌森太郎、英文の斎藤美洲・外山滋比古、
漢文の鈴木修次といった碩学や気鋭の学究がいて、談笑の間に、
その座から受けた学恩ははかり知れない。
私が≪座≫という問題に関心するようになったのも、
一つはそうした座の体験からきている。・・・・・
あえて・・『座の文学』と銘うって公刊することを思い立ったのも、
・・・・・大きな学恩を蒙ってきた大学が消滅しようとしている
危機感と無関係ではない。・・・」( p370 )
うん。ここで尾形仂さんと外山滋比古さんとは
よく知った座のお仲間だったと確認できました。
もどって、『そんなことはわかるときになれば、わかる』
とは外山滋比古氏でした。
うん。未体験の私に、なんだか、わからないことばかり。
けれど、ようやくわかるときになったような手応えです。