外山滋比古さんは、たしか寺田寅彦を読んでいたはず。そう思い、
記述を引用しようと外山滋比古著「少年記」(展望社)をひらく。
すぐに見つかりました。
うん。ゆっくりと引用してゆきます。
「小学校六年間、学校の教科書以外、本と言うものを手にしたことがない。」
( p179 )
「中学校へ入ったら、図書室というのがあった。
ずらっと並んでいる本を見て荘厳な気持ちになった。
借りてきた本をすこしづつ読んだが、
まるで頭に残っていない。読めていなかったのだろう。
二年生になって間もなく、日曜日の朝、校庭の隅の花の鉢に
水をやるのが寄宿舎生の仕事だったから、その当番で、
花に水をやっていると、宿直の物理の先生が来られて、
これはキミが読んでいる本か、と言ってぼくがもってきて
棚に置いてあった『漱石全集』の一冊をさされた。
『そうです』と言うと、
『キミにはまだ早い』と言われた。
その通りで、まるで、わからなかったのである。
この先生のことばはその後、ずっと忘れたことがない。
三年生になって、国語の時間に、教科書にのっていた
寺田寅彦(吉村冬彦)の『科学者とあたま』という文章を読んだ。
つよい衝撃をうける。まったく知らなかった世界へ入ったような気がした。
これまで、ものを読んで、こういう気持ちになったことがない。
・・・・まことにたくみな比喩を使って、この問題を解きあかして見せる。
・・・・・・・・
学校の図書館にも、寅彦の本はなかったから、
ほかのものも読んでみたいという気持ちは、三年後、
東京の学生になって、寮の図書室にあった、当時出たばかりの
『寺田寅彦全集文学篇』にめぐり会うまではみたすことができなかった。
全集を隅から隅まで、味読した。
わが知的世界は寅彦によってまず、いと口ができた。・・・ 」
( ~p183 )
はい。外山滋比古の『隅から隅まで、味読した』というなかには
寺田寅彦の俳諧関連の文章もあったのだろうなあ、きっと。
そして、先生になってから尾形仂氏と俳諧の話をすることになるとは。
それにしても、漱石全集をひらく中学二年生に
『キミにはまだ早い』と言ってくれた先生がいたとは。
うん。わたしには言ってくれる先生はいなかった
( 私の場合は、高校生で三部作を結局分からず読んだ )。
でも、不思議なめぐりあわせがあったとして、
今の高校生ぐらいに『キミにはまだ早い』と、
言うチャンスならあるかもしれない。なんて、
あるかないかわからない場面に思いを馳せる。
ちなみに、こうしてあらかじめ思い描いて
おくことを、俳諧では孕み句と言うらしい。