私家版の詞華集を編むとしたら、まずどれから。
そんなことを思っていたら、
桑原武夫の「杜甫の『贈衛八處士』について」
( 岩波新書「新唐詩選続篇」 p190~204 )
という杜甫の漢詩紹介文が思い浮かぶのでした。
「 中国の詩は漢字がむつかしいが、
その意味を教えてもらえば、その内容の意味は
必ずしもむつかしいものではない。
・・・・・・
漢詩は洗練されてはいるが、
私たちの日々の生活とつらなった、
日常と同じ論理が支配する世界である。
この詩は杜甫の詩の中ではわかり易いものの一つで、
感情はごく自然な流露を示していると考えられる。 」
( p194 )
こうして、詩の始まりから、各行を説明しておりました。
ここでは、行ごと①、②、③と並べて解説と原文を引用。
① 人間の生活で再会ということは困難だ。
② しかし、・・ややもすれば参と商とのようだという。
參とはオリオン星座、商とはサソリ星座。
前者は冬に見え、後者は夏のもの、
つまり空に同時存在しないということから、
会わないことの比喩につかう。
これは杜甫の発明ではなく古くからの比喩である。
うん。原文は
① 人生不相見 人生相見ず
② 動如参與商 ややもすれば參(しん)と商との如し
原文をつづけます
③ 今夕復何夕 今夕また何の夕
④ 共此燈燭光 この燈燭の光を共にす
⑤ 少壮能幾時 少壮よく幾時
⑥ 鬢髪各已蒼 鬢髪(びんぱつ)おのおのすでに蒼(そう)
⑦ 訪舊半為鬼 舊を訪えば半ば鬼となる
桑原氏の解説をつづけます。
③ 今晩は何といういい晩だろう。
④ 旧友とこの燈燭の光を共にして、語りあかすのだ。
⑤ 青春といってもまたたくまで、
⑥ お互に頭髪は蒼(ゴマシオ)になっている。
⑦ 舊は旧友たち、鬼は死者のこと。
昔の仲間を訪ねてみると、戦死や病死で
半ばは故人となっている。この場合、
舊は杜甫と衛八との共通の友だちを指している。
④の『此』についての指摘があります。
「 人生は萬人に共通な軽量的時間の連続であって、
その上に乗って普通名詞がずっと並んでいると考えられる。
ところが、その時間の流れの中に、
『今、ここに、これが』という人生の有意義的瞬間がある。
他人から見れば有意義でなくとも、
当人には特別な瞬間と感じられるのであって、
そのとき不定冠詞が指示形容詞に転ずるのである。
『萬葉集』に
『 わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも 』
という歌がある。いささ群竹を風が吹いて渡る。綺麗だな、
人生にこういう静寂な瞬間は、そうたんとあるものではない。
自分の一生にも再び訪れるとは限らない。
その気持が『この』という言葉に定着されている。 」(p198)
このあとに燈燭光への言及があり、そのあとでした。
「 その光を前にして旧友が対坐しているのである。
そのかすかに温い光に照らされている二人が、
お互の顔を見ると、『少壮よく幾時』、
友情は変らぬが肉体は時間の影響を免れえず、
ともに髪の毛はごま塩ではないか。
燈光に照らされるとき白髪がキラッと光り、
かえって昼間より強く印象づけられることがある。
その感じもふまえられている。 」(p199)
うん。このまま詩後半の大事な箇所は
カットして、最後の箇所を引用します。
「・・この詩は旧友再会の喜びとはかなさを描き出している。
その喜びとは具体的には何か、と問うならば、
それは『燈燭光』『春韮』『黄粱』などという言葉に示される、
平凡なそしてはかない日常的事実にすぎない。
ただそうした平凡事が当事者にとって
無限の美感を与え、大きな価値を生ずる瞬間がある。
杜甫はこの詩でそうした瞬間の創造に
見事に成功することによって、
旧友再会の一典型をつくり出したのである。 」(p204)