和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『床の間』と、栄枯盛衰。

2021-04-05 | 本棚並べ
生け花を思うと、床の間が思い浮かぶ。
私は、そんな世代に入るかと思います。

さてっと、『床の間』です。
杉本秀太郎著「だれか来ている」(青草書房・2011年)に
「どこかの床の間に竹内栖鳳(1864~1942)の絵がかかっていると、
なつかしい人に再会したのと同じ気持になる。・・・」
とはじまる短文がありました。
そのつづきが印象的でした。

「人を訪問して座敷に招じ入れられたなら、
床の間にかけてある画軸にまず目を向ける。
すっかり廃れてしまったが、これが客として
の礼儀であった時代は長くつづいていた。
つづいていたあいだは、

旅館あるいは料理屋の床の間の掛軸の良否が、
その店の値踏みに役立っていた。また、客として、
どれほどに値踏みしていてくれるのか、見当がついた。
だがそれはもう遠い昔の話。世の中は一変した。・・・」
(「『栖鳳芸談』を読む」p105)

はい。私は『旅館あるいは料理屋の床の間』という箇所で
かろうじて、その雰囲気を理解している一人です。

さてっと、『床の間』の栄枯盛衰でした。

「日本人のこころ」(朝日選書)。
梅棹忠夫による「あとがき」を読むと、
これは、朝日新聞(大阪)の『こころのページ』に
昭和44年~昭和45年と断続的に続いた連載なのでした。
ここに、『床の間』と題する4ページの文がありました。
全文引用したくなるような、読んでためになる箇所です。
とりあえず、一部を引用することに

「中世の茶室は高僧の軸をかけるなど・・・
近世・・江戸の旗本の床の間で、東照大権現の命日には、
その軸をかけ、お祭をする。・・・
また道場の床の間には、八幡大菩薩や香取神宮など、
武の神様をまつる。農家など一般家庭の床の間には、
天照皇大神宮の軸をかける。これは拡大した神ダナである。
東北地方では羽黒山などの軸が多い。

・・一般家庭には床の間はできても、家蔵のかけ軸はない。
そこで複製の配布会が流行し・・・・・・

『神聖床の間』観からいえば、吉良上野介が、かけ軸の
裏の穴から逃げるのは講談文化の作りごとで、
『ホンマかいな』ということになる。

さらに日本の格言文化が床の間に現われている。
『日日新なり』といった類の、神聖であると同時に
世俗的な処世訓の軸がさげられる。・・・・・

・・・・床の間に花が飾られ、生け花人口が急激に
ふえるのは戦後である。室内装飾からいうと、日本は
焦点を一つに結ぶ型で、床の間のかけ軸や生け花がそれである。

・・・・畳はフィクスチュア(固定したもの)で、
客は床柱を背に座ると決まっているように、動きがとれぬ。
ファニチュア(家具、動くもの)が住居にはいってくれば、
事情は変る。日本の部屋は家具がなかったから床の間が必要だった。

イスがはいると、床の間はもはや具合が悪いものになる。・・・
生け花も床の間から抜け出して、玄関のゲタ箱の上などに移った。」

さて、昭和45年ごろの結論は、こう書かれておりました。

「家庭の中では、代謝できるものはどんどん捨てる。
愛着のあるものだけを残すのがよく、そのためには
『家庭博物館』を作るのもよい。飾りダナはそれである。

いまの日本の家庭内の第一次要望としては、
床の間よりもまず飾りダナである。

床の間は展示館だ。博物館ではなくて、むしろ劇場である。
だからテレビを床の間に置くと、ピタリと合う。・・・・
これが新しい床の間のあり方になるかもしれない。」(p96~99)

ちなみに、「日本人のこころ」には著者名が5人並んでいます。
梅棹忠夫・小松左京・佐々木高明・加藤秀俊・米山俊直。
はい。その討論の雰囲気を「あとがき」から引用して終ります。

「・・テーマは、あらかじめきめてあるのではなく、当日
その会場でおもいついたもののなかからえらぶのが慣例だった。
討議参加者としては、だから、何の準備も下調べもできないわけで、
ぶっつけ本番のむずかしさはあったが、議論がどこへ発展してゆくか
わからぬという知的スリルは、十分たのしむことができた。
奇想天外な発想がつぎつぎともちだされ、これは収拾がつきそうもない
と心配しているうちに、ぱっと展望がひらけて、論理のまとまりが
ついてゆく。そういうときには、討論者たちは、一せいに
『発見のよろこび』によいしれるのである。
共同討議のダイゴ味というべきか。もっとも、ときには討議が拡散
しっぱなしで、まとめ役の両記者をこまらせたこともないではない。

・・・・・・・既成の日本文化論には、
ある種の硬直がおこっていることは否定できない。
わたしたちは、伝統的な日本文化論の発想にとらわれずに、
できるだけ柔軟に論理を展開しようと心がけた。・・・・」
(~p224)


この共同討議は、たまには京都のどこかの料亭で
畳に座って語られていたのかもしれないなあ、と
想像をたくましくするのでした。


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2 コメント

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Unknown (kaminaribiko2)
2021-04-05 17:59:10
母の所属していた生け花の流派は和田浦さんの言われる通り床の間に生ける流儀だったからだんだん衰退してきているようです。三年前に亡くなった母はちょうどの時期に亡くなったのかもしれません。
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池坊 (和田浦海岸)
2021-04-06 09:29:03
カミナリビコ2さん。
コメントどうも。

うん。生け花というと、
松田道雄の幼い頃の一場面の描写が、
どういうわけか思い浮かぶのでした。
この機会に、今日のブログで引用して
おきたくなりました。
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