気になったので、鶴見祐輔著「正伝 後藤新平」(藤原書店・2006年7月)の
第8巻「・・1923~29年」を古本で買いました。この巻のみ購入。
この巻に関東大震災での後藤新平が語られております。
パラリとひらけば、こんな箇所がありましたので引用。
「 事実において、当時ややもすれば挙措に迷い、
消沈せんとした人心を激励したのは、
颯爽たる伯(後藤新平)の態度であった。
その沖天(ちゅうてん・天にも達する)の意気であった。
これも伯に激励されて、奮い起った一人、
すなわち当時東京市の庶務課長、文書課長ならびに
土木局総務課長たりし荒木孟は、次のごとく語った。
震災の直後、初めて内務大臣としての後藤子爵にお目にかかった
時の印象、之はたしか3日の朝でありました。
市役所の状況の報告に内務大臣の官邸に参りました所が、
偉い元気で激励して下さって、いや心配することはない、
組織をしっかりしてやって行きさえすれば大丈夫だ、
何事も組織が大事だ、と言われた事を記憶して居ります。
平生から調査とか組織とか云うことを能く言われる方で、
こんな時でも矢張り後藤さんは後藤さんらしことを
言われると思いました。 ( 「帝都復興秘録」 ) 」(p160~161)
この箇所を引用しながら、思い浮かべるのが
安房の関東大震災からの復興でした。
たとえば、千葉県の他郡の青年団等の救援が次々と来る。
その方々は、どちらも、ご自身の食料は、救護活動中自前で持ってきている。
そして、数日して次の救護活動へとバトンを託して、帰路につく。
医師や看護婦等も医薬品等がなくなればつぎへと託することになるようでした。
それらを塩梅してスムーズに活動を援助してゆくのも組織の力が必要でした。
さまざまな救援物資を搬入する手はずも、搬出する手はずも欠かせず、
各地区への伝達要因も必要でした。
それを、倒潰家屋からの救出や、被害家屋のかたずけと同時におこなってゆくわけです。
意思疎通の必要性もあったでしょう。
『安房震災誌』の凡例は、こうはじまっておりました。
「 本書は大正12年9月の大震災によって、
千葉県安房郡の被った災害と、之れに対して
安房郡役所を始め全郡の官民が執った応急善後施設の
概略を記録したものである。 」
では、その組織を指揮した安房郡長・大橋高四郎を吏員はどう思っていたのか
その一例を『安房震災誌』から引用しておきます。
「吉井郡書記、能重郡書記はこういってゐる。・・・・・
震災直後に、大橋郡長が、庁員の総てに対して訓示せられた、
『 諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
罹災民の為めに奮闘せられよ 』
には何人も感激しないものはなかった。
庁員一同が不眠不休、撓(たわ)むことなく
よく救護の事務を遂行し得たのは、全く此の一語に励まされたものである。
・・・・・・・・
『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉でぁる。
言葉といふより血を流した体験である。
地震が心の肉碑に刻したものである。 」(p319~320)
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