保田町の鋸山。
「 保田町に於ては鋸山の崩壊は・・・
関東随一の眺望と景勝と五百羅漢の奇とを誇る日本寺の被害は、
何ものを以ってしても賠(つぐな)ふことの出来ないものであった。
五百羅漢の大部分は、倒潰して殆ど原形を留めざるまでに
破壊されて了った。境内の風致もそれが為めに痛く損はれた。 」
( p197 「安房震災誌」 )
関東大震災に際して、鋸山の鉄道用トンネルが陸路県北とつながる道と
なってつながっておりました。
このトンネルに関しては、3人の回想がありましたので、並べておきます。
前田宣明氏は、「保田震災記」の注に、こう記しております。
「 汽車の隧道(ずいどう)・・
鋸山を南北に貫通する鉄道用のトンネルの事。
全長は約1200メートル。・・・・ 」(p86)
震災当日の安房郡役所にて、重田嘉一は、千葉県庁への急使をかってでます。
住いは保田町大帷子で、大正12年7月まで保田町役場書記勤務をしており、
安房郡役所に来たばかりの時でした。その人に急使の手記がありました。
そこから、鋸山のトンネルを抜ける箇所を引用しておきます。
「・・保田町役場でロウソクの補給をなし・・鋸山へ差しかかるのであった。
保田駅構内には鋸山を超す能はず余儀なく野宿と決めた10数人の者が
居たが、私が千葉に行くことを聞いて扈従し来り、総勢19名となった。
鋸山山中の地形は自分として知り盡してゐるが
他の10数名の悉くは其の地理を知らぬ。
若し過てあの断崖より一人の墜落者を出しても支障を来す、
さりとて道路墜落崩壊せる明鐘岬の磯伝ひは猶更危険が多い
而も海嘯の恐れあるを以て聊か思案に暮れた。
其の時線路伝ひに鋸山隧道を今来た者があると聞いたので、
よし、岩山をくり貫いた隧道だ崩壊する気遣はない。・・・
・・隧道口に差掛ると皆強き不安にかられた様子であったが、
62鎖の長い隧道だ。急いでも駄目だ、死なば諸共だと、
真暗な路線を提灯一つ便りに進むこととなった。
併し、思ったより被害も少なく僅かに40立方尺のコンクリートが
三ヶ所計り崩壊して居たのは何より幸福であった。・・・・・ 」
( p248~249 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
次には、「保田震災誌」から引用
「比較的遠方から情報を齎(もたら)した最初の人は恐らく
昨夜半(一日夜)上総の青堀から戻って来た人でした。
この人は1日の午前11時にこの町を発して帰京の途についた
とのことでしたが、汽車が青堀へ着くと地震に出逢って
列車の窓からとび出したそうです。
もう先へはゆかなくなったので、ここ(保田町)に残した
女連れのことが気づかわれ、すぐに歩いて帰り・・・
途中もかなり被害が多く海岸に沿うた崖が崩れて
道路を埋没してしまったため、路もない山をこえたり
迂回したりして・・来たと云うことです。・・・・
最後に鋸山へ着いたときは疲れてもいるし、
時刻は遅くなっているし、それに海岸の県道は
巨岩の崩壊でとても通れぬと云われ、これで
汽車の隧道が通り抜けられなかったらどうしようかと
心配したそうですが、一心に隧道を入ると、
入口付近や内部に諸処崩れた処があったり、
真中で二度ばかり強い余震に遭って提灯を消してしまったときは、
全く観念して突っ立っていたと話されました。
25分かかって漸く隧道を出るまでは生きた心もなかったと・・・ 」
( p62~63 「石原純が残した記録 保田震災記」 )
最後には、「館山市史」(昭和46年)に掲載されていた
嶋田石蔵議員の回想から
「私は大震災の時は千葉師範の生徒であった。
9月1日大地震になったので、すぐ様帰郷を許されて、
仲間数人と路線づたいに房州へ向かった。・・・・・・
・・・上総と房州の境の鋸山トンネルを通り抜ける時は、
胆を冷やした。入口で売っている、ろうそくをともして
長い長いトンネルを歩いていくと、中程に大きな石塊が
ごろごろしていて、気味が悪かった。どうやら
30分位かかって通り抜けることができた。 」
( p573 )
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