和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

受けがよい。

2013-08-04 | 前書・後書。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の「はじめに」を読むと、この本を書くにあたって「やはり自分が論ぜねばなるまい、とあらためて思った」というキッカケになった本があるのでした。
気になる箇所です。
そこを引用。

「竹山道雄は『文藝春秋』のみならず『新潮』にもしばしば執筆した。文学者として昭和文学全集に収められる人であるが、文壇人ではなかった。というより、狭い文壇論壇以外の人も種々竹山の思い出を語っているところに特色がある。
志村五郎は敗戦直後の1946年に一高に入学し、いちはやく日本の最高の数学者と呼ばれた人物だが、後半生はアメリカで生きた。自伝も日英両語で書いているが、その日本語版『記憶の切絵図』(筑摩書房、2008)にプリンストンで手術を受けた時のエピソードをこう伝えている。麻酔医が『ビルマの竪琴』の英訳を読んで感動したと話した。『その著者は私の高校のドイツ語の先生だと言うとひどく感心していた』。その志村にいわせると、1950年、朝鮮戦争勃発当時、日本の政治学者や評論家には『ソ連信仰』が根強く、『進歩的知識人』は反共より反米の方が論壇で受けがよいことを知っており、その世界の中の功利的保身術に基いて発言していた。それとは違って、と志村は言う、『竹山道雄は共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時はほとんどただひとりの人であった。彼はまた東京裁判の不当性と非論理性を言った、竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ』。志村にそう指摘されたとき、私は身内の者であるけれども、やはり自分が論ぜねばなるまい、とあらためて思った。」(p14~15)


うん。この夏。
竹山道雄を読もう。
と遅々として読みすすめられない、
自分ではありますが、
日々新たに、思うのであります。

昨日は、補助器具の具合がいいので、
調子に乗って歩き廻っていたら、
出入り口のマットの端に、足をひっかけてしまい。
アキレス腱に沿って電気がはしるような痛み。
あれ、また振り出しにもどったかもしれない。
今日は、松葉杖を離さずにおります。

コメント
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