竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社)を読み始めたところです。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の竹山道雄年譜をひらくと、1963(昭和38)年60歳に「『芸術新潮』3月号から『京都の一級品』の連載を21回にわたって行ない毎月一回の東山遍歴を楽しんだ。」とあります。
二番目に三十三間堂を取り上げておりました。竹山氏の心の動きが味わえるようで、楽しめます。
そこで、気になる箇所を引用。
「・・・・後白河法皇は、壇の浦で全滅した平家の一門のために、また保元以来の内乱に戦死した者たちのために、法会を行った。武将もこれをした。頼朝は建久元年の盂蘭盆に、鎌倉の長寿院で、敵の平家一家の亡魂を弔った。また、彼が滅ぼした藤原泰衡や義経の怨霊を慰め、この戦いで死んだ兵をとむらうために、鎌倉に永福寺をたてた。弘安の役に元の軍にしたがって死んだ高麗の兵数万のために、筑前に高麗寺がたてられた。時頼も敵味方の溺没者のために、円覚寺に千体の地蔵尊を安置した。元寇以来の戦乱に、兵士ばかりではなく、山野の動物にいたるまでその災厄を蒙り、神社仏閣も壊され焼かれたが、足利尊氏兄弟はこれをふかくみずから愧じ、その罪を悔い謝せんがために、日本国中に一州ごとに一寺一塔をたてて、これを弔った。そして、一切経書写の願を発して、それを成就した。その奥書にその趣意を記して、尊氏みずから署名したが、その文の意味は、この功徳によって後醍醐天皇の菩提を弔い、ならびに元寇以来の戦死者の亡魂が一切の怨親を越えて、弥陀の慈悲に浴せんことを請うたのだった。時が下って、朝鮮の役の後でも、島原の乱の後でも、敵の死者のために供養が行なわれた。
このような気持は、日清・日露のころにはまだ残っていた。ロシア兵戦死者を弔う碑が高野山にあるのを見て、外国人が感動して『これこそ真の騎士道である』と書いているのを読んだことがある。・・・」(p34)
こういうことを中国人に理解してもらおうとするから難しくなる。
それよりも、まずは現在の日本人に理解してもらう。
こちらの方が、何倍もやさしそうだなあ。
その糸口となりますように。と引用。
さてっと、三十三間堂について語った竹山道雄氏は
「堂内の拝観がすんだら、ぜひ外を一(ひと)まわりすべきである。」
「裏の廊下の扉をあけて廊下に出ると、その見事なのに胸がすくような気がする。木造の大建築の立派さである。唐様風の装飾はなく、すべてただ構造だけで美しさをつくりだしている。和様建築の優作である。・・いまここの美しさに心をうたれている人は少ないようだ。」(p42~43)
最後のほうに「ビルマ」という言葉が出てくる。
その箇所も引用しておきたい。
そう、「ビルマの竪琴」を戦後すぐに書いた竹山氏。
それだからこその、気になる箇所。
「・・・ここには多くの美術が集められ、遊楽の地でもあり、その祭りには洛中の貴賎の者が見物した。九条兼実はその奢侈を憂えて『余ひとり見ず』と記している。高野や熊野などの霊地には上下をあげての参詣がしきりだった。後になって儒教の知的な世界観や道徳が宗教に代るまでは、日本もじつにさかんな宗教国で、ちょうどいまのビルマやタイのようなものだったろう。」
「三十三間堂はその後幾度の火災や内乱にも奇跡的に助かった。応仁の乱では京中の神社仏閣全部が焼失して、ただ一面の焼野原になったのに、三十三間堂と八坂塔だけが残った。・・ここはもともとは皇室所属の寺院だったが、ひさしい応仁の乱の困難をきりぬけようとしているうちに、しらずしらずに貴族色をすてて庶民に親しまれるところとなった。」(p45)
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の竹山道雄年譜をひらくと、1963(昭和38)年60歳に「『芸術新潮』3月号から『京都の一級品』の連載を21回にわたって行ない毎月一回の東山遍歴を楽しんだ。」とあります。
二番目に三十三間堂を取り上げておりました。竹山氏の心の動きが味わえるようで、楽しめます。
そこで、気になる箇所を引用。
「・・・・後白河法皇は、壇の浦で全滅した平家の一門のために、また保元以来の内乱に戦死した者たちのために、法会を行った。武将もこれをした。頼朝は建久元年の盂蘭盆に、鎌倉の長寿院で、敵の平家一家の亡魂を弔った。また、彼が滅ぼした藤原泰衡や義経の怨霊を慰め、この戦いで死んだ兵をとむらうために、鎌倉に永福寺をたてた。弘安の役に元の軍にしたがって死んだ高麗の兵数万のために、筑前に高麗寺がたてられた。時頼も敵味方の溺没者のために、円覚寺に千体の地蔵尊を安置した。元寇以来の戦乱に、兵士ばかりではなく、山野の動物にいたるまでその災厄を蒙り、神社仏閣も壊され焼かれたが、足利尊氏兄弟はこれをふかくみずから愧じ、その罪を悔い謝せんがために、日本国中に一州ごとに一寺一塔をたてて、これを弔った。そして、一切経書写の願を発して、それを成就した。その奥書にその趣意を記して、尊氏みずから署名したが、その文の意味は、この功徳によって後醍醐天皇の菩提を弔い、ならびに元寇以来の戦死者の亡魂が一切の怨親を越えて、弥陀の慈悲に浴せんことを請うたのだった。時が下って、朝鮮の役の後でも、島原の乱の後でも、敵の死者のために供養が行なわれた。
このような気持は、日清・日露のころにはまだ残っていた。ロシア兵戦死者を弔う碑が高野山にあるのを見て、外国人が感動して『これこそ真の騎士道である』と書いているのを読んだことがある。・・・」(p34)
こういうことを中国人に理解してもらおうとするから難しくなる。
それよりも、まずは現在の日本人に理解してもらう。
こちらの方が、何倍もやさしそうだなあ。
その糸口となりますように。と引用。
さてっと、三十三間堂について語った竹山道雄氏は
「堂内の拝観がすんだら、ぜひ外を一(ひと)まわりすべきである。」
「裏の廊下の扉をあけて廊下に出ると、その見事なのに胸がすくような気がする。木造の大建築の立派さである。唐様風の装飾はなく、すべてただ構造だけで美しさをつくりだしている。和様建築の優作である。・・いまここの美しさに心をうたれている人は少ないようだ。」(p42~43)
最後のほうに「ビルマ」という言葉が出てくる。
その箇所も引用しておきたい。
そう、「ビルマの竪琴」を戦後すぐに書いた竹山氏。
それだからこその、気になる箇所。
「・・・ここには多くの美術が集められ、遊楽の地でもあり、その祭りには洛中の貴賎の者が見物した。九条兼実はその奢侈を憂えて『余ひとり見ず』と記している。高野や熊野などの霊地には上下をあげての参詣がしきりだった。後になって儒教の知的な世界観や道徳が宗教に代るまでは、日本もじつにさかんな宗教国で、ちょうどいまのビルマやタイのようなものだったろう。」
「三十三間堂はその後幾度の火災や内乱にも奇跡的に助かった。応仁の乱では京中の神社仏閣全部が焼失して、ただ一面の焼野原になったのに、三十三間堂と八坂塔だけが残った。・・ここはもともとは皇室所属の寺院だったが、ひさしい応仁の乱の困難をきりぬけようとしているうちに、しらずしらずに貴族色をすてて庶民に親しまれるところとなった。」(p45)